第3話 コーヒーの香る店

 ドアを開け、上に備え付けられた鐘がからんころんと空気を揺らす。

 来意を告げると中からこの店のマスターが出迎えてくれた。

「いらっしゃいませ」

 丸いウッドトレイを脇に抱え、お一人様の客に向けて深い礼をした。

 口元に蓄えた口髭と顎髭は今日も決まっている。住み込みで働く執事のように、黒のスーツに身をかため、首にまいたストールは秋の色彩を感じさせる肌色と黄色を混ぜたもの。店内はほどよい冷気にたされ、とても今日が真夏の平日とは思えない。


「いつものでお願いします」

 窓際の特等席に座ったのち、メニューを取らずにそういった。カウンターに戻った主人が即座にカップを持ってくる。

「この時間に来ると思っていましたよ」

「本当は来る予定はなかったんですけどね。今日で自宅の掃除に目途がついたんで、コーヒーに呼ばれて来ただけです。これで自宅がちゃんとした自宅になりましたよ」

「それは何よりでございますね」

 シラカバ材の耳付きテーブルに、シックな色合いを持つ茶色のコーヒートレイを置く。その上にコーヒーの入ったカップをそっと載せた。淹れたての証ともいえる白い湯気も冷気に負けまいと上部に立ち昇っている。


「ですが、ご自宅は川崎、ですよね? それに、ホテルも」

 にやっと笑い、カップに息を吹いた。ひと口すする。すっきりとした味わいのなかにある、コーヒ豆本来の甘さ……ブラックなのにこうも甘いのは、いい豆を使っている証拠だ。

「ええ。まあ、僕からすれば府中はすぐですよ。ホテルでも家からでも、車で行けばこの店はです」

「……竜一さま。あなたもだいぶ〝常連さま〟らしくなってきましたね」

「そうですか? 常連と言われるほど……いやぁ、そこまで通った覚えはないんですが」

 カップを運びながら、片手で首をさすった。

「たしかに味に惚れたのはありますし、毎日は通ってます。ですが、まだ二週間ですよ。まだまだ未熟者、です」

 に比べれば、という思考が、カフェインよりはやく巡った。


 彼女に会ってから二週間。

 昼夜が逆転して生活習慣の改善を図る竜一にとって、平日と休日の境目はない。まだ就活しなくてもいいだろうという意識があるからだ。だが、このまま何の気なしに過ごしていても中だるみしてしまうだけだろう。ということで、掃除のあとはなるべく外で過ごすことにしているのだ。

 決まった時間に起きて決まった時間に起きる。さも当たり前なこの普通を取り戻すため、目的をもって出かける。近場ではだめだ。かといって遠すぎても長続きしない。その塩梅を考慮して目的地として選ばれたのが、この喫茶店になる――というのが建前で、本音は別にある。

 まずは雰囲気だ。

 基本的に物静かで人が少ない昔ながらの喫茶店。昭和の香りのする落ち着いた雰囲気にひとり、マスターが切り盛りをする。チェーン店のように始終話し声が聞こえるわけもなく、かといって昨今の冷たい雰囲気があるわけでもない。

 ここにいれば話すことを気にせずゆっくりとした時間が流れ、それらを包み込む静謐せいひつな空気が、彼にとって合っているようだ。

 そのせいで週に五、六回ほど通っているので、ここのマスターとは顔見知りになってしまっている。それが嬉しかったり寂しかったり、と、内心は複雑だった。

 それに――


「懐かしいですね」

 コーヒー店らしい、穏やかな雰囲気を醸し出す店内。竜一が紙ナプキンを両手で持ち、ダンディなマスターが熱々のハンバーグを置いた。インドのカレー屋が使用するような魔法のランプ状の先から、少し高めに持ち上げて器を傾ける。焦げ茶色のソースがひと筋の滝となって注がれた。

 ハンバーグの上からはみ出た濃厚な液体は、鉄板に滴って香り高く飛び跳ねた。紙ナプキン越しに見る、弾けて付着する独特のシミ。水蒸気が水滴となって張り付くさまのように白い紙を黒く染め上げる色合いから、忘れようのない濃厚な味を連想させてくれる。

「こうして常連さまと同じ空間を過ごしていると、昔のことを思い起こします」

「昔は繁盛していたんですか?」

 紙ナプキンを持ったまま興味本位に竜一は聞いた。

「遠方から来るほどに」

「へぇ」

「このドミグラスソースを求め、上は青森から。下はどうでしょう、九州からわざわざ飛行機に乗って、こちらに来られたお客様も中にはいらっしゃったと」

「いつからここを?」

「私は二代目でして。高度経済成長期の終わりごろに父が開店しました。私が申すところではありませんが、バブルが崩壊してからもこの店の推進力は数年間、衰えることを知らず……といったところでしょうか」


 ソースの暴れる姿が収まるまで話に耳を傾けてみたが、マスターの口ぶりからして本当に繁盛していたらしい。昭和、平成と、二つの元号改元を越え、継続的にグルメ本の冊子に紹介されていたとのこと。それに聞きつけ、聞きつけとばかりにこの店以外を受け付けぬほどゾッコンとなった客の舌は、この店の……常連となった。それが一気に量産されたという。

「この辺りには木造アパートがひしめき合うように建てられていたはずです」

「ええ」

「今は無人の家屋ですが、当時は凄絶という言葉でした。こちらに引っ越してきた常連さまの、その名残なのです」

 

 なんと自分の家を売り払い、この店周辺に移り住むものまでいたというのだ。

 毎日この味を食らうため、この店一帯は平成のある時点まで増築工事を繰り返して街を形成し、マスターと心のこもる接客をしていくうちに、いつしか「常連さま」の賑わいをなしたという。

 たしかに、時代さえ違ければ自分もそのかたまりに混じって団らんをともにしていたかもしれない。いや、この味をもう少し早く知っていれば、確実に訪れていただろう。それも毎日のように……と、竜一は過去の自分を想起し、心底悔しがっていた。

 少しの沈黙。

 賑わいの食事風景が、現代の騒乱の空気に触れて崩れ去る。冷たい店内の空気がソースの熱気をさらっていった。

「……このようになったのは、『城』が来てからですか?」

 このようになったというのは、この店内のあり様について。そして、『城』というのは、無論――。

 マスターの背後にある、カウンター側に開けられた小窓。

 今の現代的な様式とは物珍しくなってきている嵌め殺しの窓で、桃と白と青のはす模様が描かれている。その青い蓮を食らうように、花びらの色からはみ出た薄い青は、真夏の空の色と混合して上空にそびえる青い陽炎のようだった。

 を見つめていた竜一の目線に釣られ、マスターも一瞬見やったが、

「遠因としては、そうですね」

 と返しただけだった。

「遠因、ですか?」

 閑古鳥が鳴くようになったのは、あの〝High TVer〟が居座ったからじゃないのか?

「たしかに、それが契機となったのは事実です。ですが、この町が一変してしまったのは別にあります」

 それはなんですか、と尋ねると、苦虫を噛み潰したような顔をした。

 まるで、過去の呪縛を思い出す彼女のように――

「竜一さま、『特定厨とくていちゅう』という言葉について、ご存じですか?」

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