二人の本棚

真花

二人の本棚

 秘密であることが二人の特別さを輝かせる季節はとうに過ぎて、特別な二人だから秘密であることを許容する、ため息が出そう、私はずっとこころの隅に押しやって、笑顔に屈託が滲まないように努力しているのに、あなたはときに普通の延長線のような顔をして踏み付ける。私が口を尖らせて俯いて、あなたの呼び掛けに背いてやっと、アキ、どうしたの? 薄々感付いた声で訊くから私は頑なにそっぽを向く。

「アキ、もしかして俺、またやっちゃったの?」

 自覚が十分に育つまでは口を利いてやるものか。頭の中に過去の喧嘩が次々と蘇る、あの時もこの時も作郎さんの失言が元でやり合うことになって、事態が逼迫していることを彼はなかなか認識出来ずに火に油を注ぐ発言をして、いずれ限界を超えた私が爆発して。私は許容範囲がかなり広い女だと自認している。唯一のタブーがこの関係が行き止まりにあると感じさせる言葉だ。私は作郎さんとの将来を諦めていない、夢に見ている、でも彼には家族がある、だからって未来を描いていけないなんてことはない、だけど、私は弁えてもいる。でもそれは決して諦念に負けると言うことではない。なのに、彼は無神経な言葉を吐いた。

「その、妻の話をしたのは別に、彼女のことがどうって訳じゃなくて」

 妻って言うな。彼女って言うな。語った内容の問題じゃないんだ、その話題自体がアウトなのに、どうして学習しないんだ。甘えていいところといけないところがある、そこだけは駄目、どうあったって駄目。私は首を彼と反対側に振る。小説家は空想するのが商売じゃないの? 私のこころをちゃんと想像してよ!

「あ、いや、話題がいけなかった。そうだよな、いつものパターンだ」

 どうして同じことを繰り返す、その度に私は痛いのに、こんなに痛いのに、これさえなければ幸せな気持ちでいられたのに。この部屋は戦うためのリングじゃなくて、二人の愛の時間のためのものなのに。

「アキ、ごめん。この通りだ。俺が馬鹿だった」

「作郎さん、本当に馬鹿」

「そうだ俺は馬鹿だ。また同じ轍を踏んだ」

「私、考えるの。最後には死ぬでしょ? 作郎さんと同じ墓に入れないんだろうって」

 一瞬、ほんの一瞬言葉に詰まった彼が考えていることは分かる。入れない、だ。でもそれくらいは見逃す。累積すれば聳え立つビルくらいになる程、私は彼の小さな失言や、小さな沈黙を見逃している。その優しさの半分は彼と居たいからだけど、もう半分は腐った気持ちになりたくないから。きっと彼はこのことに死んでも気付かない。骨になったらそっと教えてあげよう、でも、きっと死ぬのは同じ日だから、納骨を隣にされないと私の腹の中に溜まったものを伝えることは叶わない。仲を取り持つ嘘を彼が吐かないことは理解している、彼の素敵なところでもあるけど、残酷の種でもある。率直な愛の背後にしっかりとくっついた痛み。

「同じ墓に入りたいの?」

「入りたい」

 彼がしんと考える。刹那に思考に沈むときに、柔和さに差す鋭さが好き。

「死んでも一緒にいるなら、もっといい方法があるよ」


 新井作郎、彼、作の小説「くるぶしとホチキス」を新幹線の窓際で読んでいたらいつの間にか、もう十五年前になるあの日の喧嘩のことが頭に蘇っていた。でも、あの日のことが記憶から引っ張り出された理由は分かっている。

 彼はあれから五年後に死んだ。私よりずっと年上だったけど期待していたよりも早くて、もうすぐ死ぬみたい、とメールが最後に来た切り連絡が来なくなって、でもこっちからしつこくする訳にもいかず、彼を損ねない範囲で出来る限りのじたばたをしてみても彼の安否には届かず、新聞の訃報を毎日チェックする内に彼の名前を発見して、葬式にも行けず、納骨された場所だって分からないまま、私は取り残された。体が空になるまで泣いて、後を追うことを真剣に考えたけど、彼が絶対にそれを望まないことは分かっていたから、死んだつもりになって新しい人生を歩もうと決めた。その結実が、今日だ。

 会場に着けば、きっと彼もこう言う気持ちだったのだろう、背をしゃんと伸ばして、記者たちの前に据えられた壇上の席に就く。司会の男性が年老いていて、彼のときも同じ司会者だったのかな、そう思ったら彼が側にいるような気がして緊張がほとんど溶けて消えた。

「第五十五回真山文学賞授賞式を始めます。今回の受賞作は『熱』、受賞者は荒井さくらさんです」

 私は木場アキ、彼だけのアキ、荒井さくらは居るべき場所に立つための切符だ。彼の隣に永遠に居るための。


「俺の本の隣に、アキの書いた本を並べるんだ。ペンネームを隣同士にして。そうしたら、永遠に俺達は隣同士で居られる。どの図書館に行っても、本屋に行っても、二人は一緒。きっと骨よりずっといい」

 私に息を吹き込むように空想が広がって、途端に機嫌が直って、でもそのときは本当にそうするなんて思っていなかった。

 荒井さくら、新井作郎。いつも私が右側を歩いていた、だから本になっても、これからもずっと、この並びがいい。



(了)

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