猫の王様

木兎ゆう

第1話 九条くんと始まりの話

 最近、友人を作るのは諦めることにした。

 ここでは難しいというか、今はそんな余裕はないというか。

 まるで環境のせいにしているように思われるかもしれないが、そんなことはない。

 俺は子供のころからずっと、友達を作るのが苦手だった。多分、周りに気を使い過ぎて、本音で話すことができないからだろう。真面目でいい子でつまらない奴、それが俺だ。

 それでも小学校、中学校、高校と、影が薄いながらもクラスでは浮かないように過ごしてきた。一緒に昼ご飯を食べるクラスメートもいたし、体育で二人組を作るときにも困ったりしなかった。修学旅行の班分けだって、すぐに決まった。そのかわり面倒な委員も引き受けたし、いつも誰かに嫌われないように気を付けていた。時々、都合よく利用されていることにも気づいていたけれど、俺は自分の居場所がなくなるのが怖くて、嫌な仕事でも頼まれると断ることができなかった。

 だから高校を卒業し、地元を離れて東京の大学に行くと決めたとき、俺は今度こそちゃんと友人を作ろうと思っていた。独りにならないためにただ一緒にいるだけのクラスメートや、卒業と同時に連絡しなくなる部活の仲間、口先だけ友達と呼んでいる人ではない、本音で話せる友人を。

 しかし結局のところ、俺は大学に入って一ヶ月が過ぎた今になっても、知り合い一人作ることができないでいた。入学してすぐのオリエンテーションや、サークルの新入生歓迎コンパ、機会はいくらでもあったはずなのに、俺はそれを何一つ生かすことができないでいた。

 唯一よかったことは、一人暮らしをしているアパートの近くにあるコンビニで、バイトが決まったことだろうか。けれど慣れない一人暮らしにバイト、そしてもちろん大学、初めてのことばかりで覚えることもやることもたくさんありすぎて、俺は早くも押しつぶされそうになっていた。

 誰か、話をする人がいれば少しは違ったかもしれない。俺と同じように、初めての一人暮らしやバイトで戸惑っている人は大学にたくさんいたはずだ。でも、そのことを誰かと分かち合えるなら、少しは気持ちも晴れただろう。

 俺は取り敢えず、友人を作ることは諦めた。口先だけの友達も、一緒にいるだけのクラスメートも、サークルの知り合いさえも。

 まずは一人暮らしとバイトに慣れる。それと大学の講義。友達も知り合いもどうでもいい。気を使って疲れるだけだ。実家で何不自由なく生活していたときでさえ、友人を作ることなんてできなかったのだ。とにかく今は、この生活に慣れることが先決だ。

 炊事洗濯とバイトだけでゴールデンウイークを終えた俺は、ようやく乾ききった心で夢見がちな自分を否定した。そして自分は変わることができないのだと諦めたとき、皮肉にも俺の人生が始まりを告げた。


                *


 ゴールデンウイークの間はずっと真夏のように暑かったのに、休みが終わった途端に気温が下がり、小雨が降りやまない日が続いていた。仕方なく部屋干ししている洗濯物と同様、俺の気分もますます陰鬱に湿っていくのがわかった。けれどその日は久しぶりに朝から晴れていて、俺は少しだけ明るい気持ちで大学に向かっていた。洗濯物は外に出してきたし、今日はバイトもない。せっかくだから、奮発して買った水色の新しいシャツを着ていくことにした。

 入学祝いに買ってもらったばかりの自転車はフレームのラインが綺麗で、ターコイズブルーの塗装も気に入っていた。今は大学とバイト先のコンビニ、スーパーへ買い出しに行くときしか使っていないけれど、もう少しこの生活に慣れて時間ができたら、近所を探検してみるのもいいかもしれない。そういえば近くに大きな公園があるらしい。天気が良くなったら行ってみよう。一人で過ごすのも悪くない。誰にも気を使わず、何でも自由にできるんだから。

 ようやく少しだけ前向きになれたと思ったとき、不意に大きな雨粒がバラバラと音を立てて落ちてきた。折りたたみ傘なんて持ってきていない。持っていたとしても、鞄から出す前にかなり濡れていたはずだ。俺は自転車のペダルを回す速度を上げた。もう少しで大学に着く。

 本当に嫌になる。天気予報は一日晴れだったのに。ちゃんと確かめてきたのに。洗濯物、せっかく半乾きになってたのに。もう一度、洗濯し直さないといけない。今着ている下ろしたてのシャツもびしょびしょだ。俺は濡れた前髪をぐいっと掻き上げ、水滴を払った。視界が悪い。

 瞬間、自転車の前に何かが飛び出してきたのが見えた。小さな動物……子猫だ。俺は咄嗟にブレーキをかけたけれど、間に合いそうにない。反射的にハンドルを大きく切った。濡れたアスファルトでタイヤが大きく滑る。大学の敷地を囲む植え込みに思い切り突っ込み、俺は自転車と共に泥の中に肩から着地した。

「……、う……っ」

 衝撃と痛みでしばらく動けなかったけれど、ずっとこのままでいるわけにもいかない。深呼吸すると、俺は横転した自転車の下から立ち上がった。何もかも、泥だらけだ。ターコイズブルーの自転車のフレームも、前カゴから放り出された鞄も、水色の新しいシャツを着た俺自身も。

 本当に最悪だ。けれど何よりもまず、俺は乱れた植え込みに近寄ると、周辺の歩道を確認した。

 ……ない。

 次に、俺のせいで満身創痍の姿を晒している植え込みの根元や、その周囲を探した。

 ……ない。

 最後に、泥の中に横たわる自転車をゆっくりと起こし、鞄を拾いながら辺りを見回した。

 ……やっぱりない。

「……よかった……」

 俺が恐れていたものは、見つからなかった。ハンドルを切ったとき、視界が悪くてよく見えなかった。そのまま植え込みに突っ込んだから、衝撃が大きくて子猫を巻き込んだのかわからなかった。だけど子猫の亡骸も、血の跡もない。

「……本当に、よかった……」

 俺は改めて深々と息を吐きだした。

 とはいえ、植え込みには悪いことをした。折れている枝や乱れている葉を少し取り、手で軽く整えると、心持ちマシな見た目になった気がした。あくまでも俺の自己満足だが、大きな枝は折れてなかったし、今はこれ以上のこともできない。

「……ごめんね」

 けれど改めて自分の現状に目をやると、俺は暗澹たる気持ちになった。自転車のチェーンが外れている。手探りでかけ直してみたけれど、植え込みに突っ込んだときにどこか破損したのか、すぐにまた外れてしまった。とはいえ、こんなところに放置しておくわけにもいかない。近くに自転車屋さんもないし、大学の自転車置き場に運ぶしかない。

 変な音を立てる自転車を引っ張りながら、俺は懸命に唇を引き結んだ。体中が痛い。肩の鈍痛が一番ひどいが、足だけでも何か所も痛いし、体中に響いて何だかもうよくわからない。

 おまけに全身びしょ濡れだ。おかげで体についた泥が洗い流されている。だけどこのシャツはもう着られないかもしれない。思い切り泥の中に突っ込んだし、植え込みの枝に引っ掛けて少し破れてしまった。空みたいな水色で、とても気に入ってたのに。

 泣いてはいない。だって顔が濡れているのは全部、雨のせいだから。

 実際、俺は涙を流してはいなかった。自分を憐れむ余裕がないと、どんなに惨めでも涙は出ないのだな、と俺は妙に淡々と思った。土砂降りで本当に良かった。視界も悪いし、きっと誰も俺のことなんか気づかない。

 のろのろと校門をくぐりながら、俺は自転車のフレームに引っ掻き傷ができているのに気づいた。泥が少し洗い流されたおかげで、ターコイズブルーの塗装に鋭い爪痕のようなものが残っているのが見える。恐らく植え込みの枝で引っ掻いてしまったのだろう。まだ新しいのに、自転車にも悪いことをしてしまった。

 その時、不意に頭上の土砂降りが小さく切り取られたのがわかった。それは誰かに傘を差しかけられたからだと、すぐには気づけなかった。立ち止まり、何が起こったのかと呆然と振り向いた俺の目に映ったのは、無表情な男の人だった。

 何の感情も映していない眼差しを、俺はただ見つめ返した。純粋に、どういうことなのか理解できなかったからだ。そこには俺に対する心からの同情も、上辺だけの心配もなかった。

 自分で言うのもなんだが、俺は人の顔色を読むのは得意な方だ。これまで無駄にいろいろと察して気を使って、人生を空回りしてきたのはそのせいでもある。

 けれどその人からは、何も読み取ることができなかった。普通に考えれば親切な行為なのに、俺はその行動の意図がわからなかった。多分それは彼のせいだけではなく、俺自身が全てに心を閉ざしていたからだろう。

 ふと、俺は目の前の事実に気づき、口を開いた。

「……あの、肩が濡れてます」

 そう、それは彼が俺に傘を差しかけているからだ。そして俺はすでにその必要がないほど全身から水が滴っている。つまり。

「俺は大丈夫です。だから──」

 気にしないでください、と俺が口にするのを遮るように、彼は更に傘を差しだした。彼の濡れる範囲がそれと同じだけ増える。俺は少し焦った。

「あの、本当に……っ」

 大丈夫ですから、と彼の傘を押し戻そうと、自転車のハンドルから片手を放した瞬間、まるで手品のように傘の柄を握らされていた。

「……え? あの、あれ?」

 どうして思ったのと反対の結果になってるんだ?

 俺が戸惑った一瞬の隙に、今度は自転車のハンドルを奪われ、彼はそのまま土砂降りに向かって足を踏み出していた。

「ちょっ……待って!」

 俺は慌てて追いかけると、自転車を引く彼の上に精一杯、傘を伸ばした。思ったより背、高いな。すぐに追いかけたのに、もうこんなに髪が濡れちゃってる。反対側の肩は、どんなに頑張って傘を伸ばしても、俺の背丈ではカバーできない。申し訳なく思いながらも、俺は小走りに彼のすぐ後ろを追った。

 自転車置き場に着き、簡易的な屋根の下に入ると、俺は取り敢えず安堵して息をついた。故障した自転車を引っ張っているのに歩くの早いし、背が高いから俺が傘を差してもあまり役に立てなかった。むしろ俺は邪魔だった気がする。

 落ち込みそうだったけれど、俺は何とか持ち直した。とにかくこの人も気が済んだだろう。少し強引だったけど、親切にしてくれたことには変わりない。ちゃんと傘を差せなかったことを謝って、早く立ち去ろう。これ以上、この人に迷惑をかけるわけにはいかない。

「すみません、あの、いろいろとご迷惑をおかけして……」

 だけどもう大丈夫です、と言いかけた俺の手に自転車の鍵を乗せると、彼は前カゴから俺の鞄を取り出した。そして再び土砂降りへと足を踏み出した。

「ちょっ……待って!」

 俺は慌てて追いかけると、泥だらけの鞄を持つ彼の上に精一杯、傘を伸ばした。けれど先程とは違い、息を切らさずに追いつくことができた。俺に歩調を合わせてくれてるのかな? ちらりと隣を見上げると、無表情な眼差しとぶつかった。何を考えているのかわからない瞳の色に、心臓がひやりとしたとき、不意に低い声が耳に響いた。

「……傘」

「……え?」

「……傘、返して」

「あ、……は、はいっ」

 俺は急いで持っていた傘を渡した。

 び……びっくりした……! 初めて喋った! 何か、怖かった。怒ってる……わけじゃない、よね。でも、ちょっと不機嫌、なのかな。当然だよね。俺のせいで結構、濡れちゃったし。よく見ると服に泥もついちゃってるし。俺、歩くの遅いし。

 ……あれ? でも俺に歩調を合わせてくれたままだ。それに、俺が傘を差していたときより、肩が冷たくないような……。

 恐る恐る隣を見上げると、俺の上に傘を差しているせいで、再び彼の肩が濡れていた。俺は最初からずぶ濡れで、今更、傘を差しても意味なんかないのに。見ず知らずの俺に優しくしても、いいことなんて何もないはずなのに。

 そしてふと、彼が持っている俺の鞄に目をやった。例えあれを持ち逃げされたところで、たいしたものは何も入っていない。教科書が重いだけで、財布の中にはせいぜい数千円しか入ってないし、あとはポイントカードぐらいしか持ってない。携帯は困るけど、あんな泥だらけになってまで手に入れるようなものは、本当に何も……。

 そこまで考えて、俺はハッと我に返った。

「すみ、すみません! 鞄、重いのに持たせてしまって……! 服が、泥だらけになって……本当にすみません! 俺が、自分で持ちますから!」

 せっかく親切にしてくれているのに、失礼なことばかり考えた自分が本当に恥ずかしい。慌てて両手を伸ばした俺には目もくれず、彼は言った。

「駄目」

「でも……!」

「ついてきて」

 淡々として有無を言わせない口調なのに、どこか優しい気がして、俺は口を噤んだ。この人は何なんだろう。大学の広い敷地を慣れたように歩いているから、ここの関係者なのかもしれない。年は三十歳くらい、だろうか。院生、講師、助教授、あるいは事務の人かもしれない。私服姿だから、警備の人ではないだろう。でも、その割には不愛想だし、どこに向かっているのかもわからない。

 そして俺はふと、先程の会話の意味にようやく気づいた。俺に鞄を返したらついてこないから、駄目ってこと? そんなつもりはなかったのに、と思った俺は、けれどすぐ妙に納得してしまった。確かにそんなつもりはなかったけど、実際に鞄を返してもらっていたら、これ以上ついていく必要がないことに気づいただろう。そしてもう迷惑はかけられないから、とこれまでのことをいろいろと謝って、土砂降りの中に飛び出していた気がする。

 俺は隣の無表情な横顔をちらりと見上げた。本当に何なんだろう、この人は。その時、俺は初めて彼の顔立ちがとても整っていることに気づいた。普段だったら、すれ違っただけで気づくような美形なのに、今はそんなことも見えなくなっていたのだと、俺は思った。

 彼は敷地の奥にある体育館までやってくると、当然のように中に入っていった。やっぱりちゃんとした屋根の下に入るとほっとする。とはいえ、靴の中まで水浸しで、スリッパに履き替えることも躊躇っていた俺は、さっさと中に入っていく彼に思わず縋るような視線を向けた。けれど声をかけようとしたとき、彼が振り向いた。

「待ってて」

「……あ、はい」

 ほっとした俺は、ぼんやりと彼の後姿を目で追った。立っているだけで足元に水たまりができていく。外履きのエリアではあるけれど、こんなに汚してしまって、俺は体育館の管理をしている人に申し訳ない気持ちになった。

 彼は少し離れたカウンターで事務の人と何かやり取りをしたあと、タオルを持って戻ってきてくれた。

「これで足拭いて。先にズボンの裾をまくっておくと、水が垂れない。靴下はこのビニール袋に入れて」

「あ、はい」

 意外とテキパキと指示をされ、俺は急いで従った。

「更衣室のシャワーの使用許可をもらった」

「はい」

 少し足早にカウンターの前を通るとき、彼が事務の人に会釈したのを見て、俺も慌てて頭を下げた。

 階段を上がり、二階の更衣室に着くと、彼はシャワーのところまで俺を案内し、持っていた俺の鞄を床に置いた。そして新しいビニール袋を差し出して言った。

「貴重品だけここに入れて。ロッカーにしまう」

「あ、はい」

 財布と携帯を鞄から取り出すと、濡れていないか素早く確かめた。お札はちょっと端が湿ってるけど、乾かせば大丈夫だろう。携帯は濡れてないし、ちゃんと電源も入ってる。俺は少しだけ安堵すると、自宅の鍵と一緒にビニール袋に入れ、彼に渡した。

「お願いします」

 彼はすぐ目の前にあるロッカーに貴重品の入ったビニール袋を入れ、鍵を俺に渡した。

「鞄の中身、勝手に出してもいい?」

「それは、別に……」

 よくわからないまま頷くと、彼は新しいタオルを俺に渡し、シャワー室のカーテンを閉めた。

「さっき靴下を入れたビニール袋に濡れた服を全部入れて、こっち出して。洗濯する」

「あ……、はい」

 やっていることはものすごく親切なのに、対応があまりにも素っ気ないから、その温度差に何だか戸惑ってしまう。俺は肌に張り付く服をできるだけ急いで脱ぎながら、カーテンのすぐ向こうにいる彼のことを改めて考えた。

 迷いのない的確な行動と、必要最低限の会話。普通なら取り敢えず「大丈夫?」とか「大変だったね」とか口にするところだけど、この人は本当に何も言わない。無表情で淡々としているから、最初はびくびくしてしまったけれど、よく見ていると不機嫌なわけではないし、俺がもたついていてもイライラしない。むしろすごく気遣ってくれているのがわかる。本当に、この人は何なんだろう。

 下着も全てビニール袋に入れると、俺はカーテンの隙間から外に出した。

「あの。濡れた服、入れました」

 見ず知らずの人にこんなことまでさせてしまうなんて、例え仕事だったとしても、本当に申し訳ない。

 息を吸い、俺は勇気を出して口を開いた。ちゃんと、言わないと。

「すみません、本当に、いろいろとご迷惑をおかけして……」

 カーテン越しに改めて恐縮していると、遮るように、抑揚のない彼の声が聞こえた。

「大丈夫じゃない」

 心臓がひやりとして、俺は一瞬、呼吸の仕方を忘れた。わかっていても、いきなり直球で迷惑だと告げられるのは辛い。カーテンが閉まっていて、本当に良かった。俺は瞬きを一つし、唾を飲み込み、何とか平静を装った。

「……えっと、その、本当にすみませ……」

「君はまだ、大丈夫じゃない」

「……え……?」

 再び、遮るように告げられた言葉に、俺はうつむきかけた顔を上げた。この人は何を言ってるんだ? 俺は頭の中で今の言葉を反芻した。

 ……君はまだ、大丈夫じゃない……。つまり、俺はまだ、大丈夫じゃないってこと?

 俺はカーテン越しの彼を凝視するように、瞬きを二つした。そして改めて今の自分の姿を見下ろした。雨で冷えた体、泥がこびりついた腕、鈍痛の響く肩、打ち身だらけの足。それにさっき、服を脱ぐときに初めて気づいたけれど、あちこちに擦り傷があって血が出ていた。植え込みの枝で引っ掻いたような傷もある。振り返り、シャワー室の鏡に目をやった俺は、ようやく自覚した。

 ……確かに、今の俺は全然大丈夫なんかじゃない。こんな今にも泣き出しそうな、ひどい顔をした奴が、大丈夫なわけがない。だけどさっき、俺はこの人に言った。大丈夫です、って。その後も何度も言おうとしてた。大丈夫だからって。だけど、そうか。俺は全然、大丈夫なんかじゃなかったんだ……。

 不意に、ぽろぽろぽろぽろ涙がこぼれて、俺はやっと理解した。本当はずっと辛かった。土砂降りでずぶ濡れになったことも、植え込みに突っ込んで泥だらけになったことも、体中痛いことも。新しい自転車が壊れたことも、気に入っていたシャツが汚れたことも、くだらないことなんかじゃなかった。俺にとっては大事なことで、ちゃんと俺のために悲しんでいいことだった。

 大学に入ってから、いや、きっとずっと前から心に溜め込んでいたものが一気に溢れ出したように、涙が止まらなかった。静かな更衣室に俺のしゃくり上げる声だけが響く。恥ずかしい。聞かれたくない。知らない人の前でこんな醜態を晒している自分が嫌いだ。でも、持て余した感情を、自分ではどうにもできない。いくら親切な彼だって、相手がいきなり泣き出したら困惑するに違いないのに。

「……っく、……すみ、すみませ……っ、俺……っ」

「……シャワーの温度」

「っ……、はい?」

 今までと全く変わらない淡々とした声が耳に入り、俺はしゃくり上げながらも、虚を突かれたように聞き返した。

「シャワーの温度、お湯が出るか確かめてみて」

「……っく、あ、えと、はい……、ヒック」

 涙は止まらない。しゃくり上げて、鼻水を啜る音も聞こえているはずだ。だけど彼にとってはどうでもいいことらしい。そう思ったら、不意に笑い出したい気分になった。憤慨してもいいはずなのに、俺はかえって心が軽くなるのを感じた。

 けれど実際にシャワーを出して温度を確かめようとした俺は、彼の意図に気づき、思わずカーテンのほうを見やった。

 掻き消されるんだ、少しの音なら、シャワーの水音で。

 それに温かい。溢れてくる涙も、シャワーのお湯と一緒に洗い流されていく。

 彼はどうでもいいと思ったんじゃない。泣いている声を聞かれたくないという俺の気持ちに、応えてくれたんだ。気のせいかもしれない。偶然、希望が叶っただけで、俺が勝手に好意的な解釈をしているだけかも。それでも、本当にあの人は何なんだろう、と俺は思った。

「温度、大丈夫?」

「あ、はい」

「ちょっと洗濯してくる。着替えを探してくるから、できるだけゆっくりシャワー浴びてて」

「あ、はい」

 彼が更衣室からいなくなったのを見計らい、俺は静かに、けれど深々と息を吐きだした。涙はまだ止まらないけれど、さっきよりずっと気持ちが楽だ。

 冷え切った体が少しずつ温もりを取り戻していく。ゆっくりと泥を洗い流し、恐る恐る傷口に触れてみた。血は出ているけれど、思ったより深くはないようだ。鈍痛の響く肩も一応ちゃんと動くし、今のところ腫れていない。地面がぬかるんでいたおかげだろう。

 簡単に全身の具合をチェックしたあと、置いてあったボディーソープを使わせてもらい、俺はこびりついた泥を洗い落とした。指示通りできるだけゆっくりシャワーを浴びたつもりだったけれど、一通りのことが終わっても彼はまだ戻ってきていないようだった。

 渡されていた小さなタオルで取り敢えず体を拭き、カーテンの隙間からそっと更衣室の中を覗いてみる。と、すぐ目の前のベンチに濡れた教科書が並べてあるのに気づいた。そういえば、鞄の中身を勝手に出してもいいか、さっき聞かれたんだっけ。鞄は見えないから、一緒に洗濯に出してくれたのかもしれない。至れり尽くせりとはこのことだろう。

 とはいえ、全裸で着替えもなく、湿ったタオル一枚しかない状態はあまりにも無防備で不安だということが、今更ながら身に染みた。さっきは酷い有様だったから深く考えなかったが、そもそもあの人がどこの誰なのかも知らないままだ。

 戻ってこなかったらどうしようと不安が募り始めたとき、誰かが更衣室に入ってきたのがわかった。緊張していると、姿を現したのは先程の彼だった。恐らく俺はすごく不安そうな顔をしていたのだろう、彼は無表情ながらも開口一番に謝った。

「すまない。遅くなった」

「あ……いえっ、そんなっ、こちらこそ、何から何までしていただいて……っ」

 俺は慌てて恐縮したが、彼は相変わらず事務的に新しいタオルを渡してくれた。

「着替えになりそうなもの、あまりなかったから、取り敢えず下はこれを巻いといて。Tシャツはいらないからって、事務の人がくれた。上着は帰りにカウンターで返して」

「あ、はい」

 さっきは気づかなかったけれど、微かに塩素の匂いがするから、このタオルはプールの備品かもしれない。とにかく今度のタオルは大判で助かった。取り敢えずもう一度軽く体を拭き、タオルを腰に巻いた俺は、シャワー室を出て更衣室のベンチに座った。

 ビニール袋に入っているTシャツを手に取り、着る前に改めて見てみる。新品だが、白地に大学の名前と創立80周年という文字が大きく印刷されていた。多分、何年か前の催事で運営委員などが着るために作られて、余ったものだろう。蛍光オレンジのウインドブレーカーも大学の名前が入っているが、こちらは少し年季が入っているようだ。毎年みんなで使っている備品なのかもしれない。

「それは一応、洗濯してあるって言ってた」

 彼の声に、ウインドブレーカーを眺めていた俺はハッと顔が赤くなるのを感じた。慌てて言い繕う。

「こ……これは、そういう意味ではなくて……っ」

「そういう意味?」

「いや、だから、汚いとかじゃなく……っ」

「なく?」

「に、入学式のときに、何かの係の人が着ていたような気がするなぁって思っただけで!」

「うん」

 そう言った彼が、初めて僅かに微笑んでいるのに気づき、俺は思わず見とれてしまった。年上の男の人を、初めて綺麗だと思った瞬間だった。

 が、すぐに我に返り、染まった頬を隠すようにうつむく。彼にからかわれていたことに気づいたからだ。そんなことをするなんて意外なような、そうでもないような、本当に不思議な人だ。取り敢えず、簡単に乗せられてしまった自分が恥ずかしい。

 というか、そもそも俺が泣いていたこともスルーだった人が、からかってくるなんて思わないし。いや、決して泣いてたことを根掘り葉掘り聞いてほしいわけではないのだけれど!

 俺がもだもだしていると、不意に淡々とした彼の声が優しく響いた。

「少し、元気になったみたいで良かった」

 何故か、自分でもわからない感情で頬が熱くなるのを感じ、俺は慌ててビニール袋からTシャツを出し、頭から被った。もうっ、本当にこの人は何なんだろう! 会ったばかりなのに、一緒にいると何だかほっとして、だけど時々よくわからない気持ちで掻き乱される。さっきまでは微かに感じる程度だったのに、今回は自分でもびっくりするほど胸がざわついた。

 これは……アレだ! すご~く弱ってるときに優しくされたから! ちょっと、いつもより感動しちゃってるだけなんだ! うん!

 動揺しながら何とか自分に言い訳し、俺はウインドブレーカーに腕を通そうとした。

「ちょっと待って」

「はい?」

「その前に、手当てする」

「あ……」

 彼は俺の隣に座ると救急箱を開け、消毒薬を取り出した。

「痛かったら言って」

 そのあとは予想通りひたすら無言だったけれど、俺の傷に触れる彼の手つきはとても丁寧だった。腕の傷はほとんどがかすり傷で、足は打撲が多かった。一番痛みがひどい肩は、後で保健室で診てもらうほうがいいと進言された。

「あの、いろいろとしていただいて、本当にすみません」

 黙々と手当てしてくれている彼を見ながら、本当は聞きたいことがたくさんあった。例え仕事だとしても、どうしてこんなに親切なのか。最初に傘を差してくれたとき、それからさっきも今も、何を感じて何を考えているのか。言葉にも表情にもほとんど出ない、彼の気持ちを知りたいと、俺は心から思った。

「ドライヤー使ってて。俺は洗濯機の様子を見てくる」

「あ、はい」

 結局のところ、俺は何一つ聞くことができないまま、彼の背中を黙って見送るしかなかった。ドライヤーで髪を乾かし、ついでにベンチに並べられている湿った教科書にも熱風を当てていると、しばらくして彼が戻ってきた。

「汚れは大体、落ちたんだけど」

 畳んである俺の服と鞄を差し出した彼の顔は、相変わらず無表情に見えた。それなのに、何故か顔色が曇っているような気がして、俺は少し違和感を覚えた。けれど、一番上にある水色のシャツが目に入ったとき、俺はそれが破れていたことを思い出した。

 俺はまだ少し温かい服と鞄を受け取り、無理やり微笑んでみせた。

「……植え込みに突っ込んだときに、枝が引っ掛かって破れたみたいなんです。だから、気にしないでください」

 彼は俺の苦笑にちらりと目をやったあと、気まずそうに視線を逸らした。

「……それが、洗濯機で洗ってるときに、広がったみたいで」

 俺は瞬きを一つし、彼の言葉の意味を何とか飲み込んだ。確かに、破れた服をそのまま洗濯機で洗えば、破れたところは広がって当然だ。でも、それは決して彼のせいなんかじゃない。俺は彼の目を真っすぐ見上げて言った。

「それは、仕方がないです。だから、気にしないでください」

 彼は再び視線を逸らし、水色のシャツを手に取ると、言った。

「……そうじゃ、なくて」

「……なくて?」

 さすがにどういうことなのか理解できず、俺は彼と、その手にある水色のシャツを見て首を傾げた。さっきまで理路整然と的確な行動をしていた彼ならば、もっと淡々と事実を受け入れそうなのに。そもそも服の持ち主である俺が構わないと言っているのに、どうしてそんなに気にしているんだろう。

 純粋に疑問の目を向けている俺に観念したのか、彼は少し目を彷徨わせたあと、持っていた水色のシャツをぱらりと広げて見せた。

「……あ……!」

 初日から泥だらけになり、破れ、満身創痍だった水色のシャツは、洗濯と乾燥という過程を経て、俺が想像していたよりもずっと裂け目が広がっていた。けれどそれだけではなく、色とりどりの糸で丁寧に繕われてもいた。

「……下のカウンターで裁縫道具を借りたんだけど、水色の糸がなくて。表から見えないように、取り敢えず白で縫ったんだけど、糸が足りなくて。裏なら見えないと思って、他の色の糸を使ったんだけど。完成したのをよく見たら……」

 裏表が逆だった、と。

「……ふ、……っはは!」

 気がついたら、俺は声を上げて笑っていた。そもそも、こんな短時間で破れたところを縫ってくれただけでもすごいし、もし裏と表を間違えていなければ、ぱっと見では修繕されていることに気づかなかったかもしれない。それなのに、肝心ところで抜けてるとか、可愛すぎる。

 彼は笑っている俺を少しびっくりしたように見ていたけれど、しばらくしてちょっと不貞腐れたようにぷいっと横を向いた。ほんの微かに、頬が染まっている。

「……すまないとは思ってる、けど。ちょっと、笑い過ぎ」

「ふふっ、……すみません」

 何だか、笑い過ぎて涙が出てくる。イケメンで、背が高くて、無表情で、トラブルにも淡々と対応できる凄い人なのに、意外と抜けているところがあったりして。

 この人に逢えて、本当に良かった。俺は心からそう思った。

 彼は俺を見て僅かに微笑むと、カラフルな糸で修繕された水色のシャツを渡してくれた。

「大丈夫」

「……え?」

「君はもう、大丈夫」

 瞬間、俺はまるでたった今、この世界に降り立ったような感覚を味わった。初めて見るように、目の前の彼の姿を眺める。

 彼は微かに頷いてみせると、言った。

「傘、体育館で借りられるから」

「え? あの、はい」

「救急箱とか返すから、先に行く」

「あ、はい」

 彼が更衣室から出ていくのをぼんやり見送ったあと、俺はようやく我に返ったように壁の時計を見上げた。すっかり忘れていたけれど、これなら次の講義には間に合うかもしれない。それに彼が戻ってくる前に支度を終えていたい。

 俺は洗濯された服に着替え、最後に水色のシャツを羽織った。修繕したところが目立つけれど、彼が一生懸命に直してくれたものだと思うと、何だか愛おしい気すらする。赤い糸で縫われたところを軽く指で触れ、俺は立ち上がった。

 そうだ、彼の名前。まだ彼の名前も知らないんだった。あとで聞かないと。

 きれいになった鞄に乾かした教科書を入れ、ロッカーから貴重品を取り出す。使ったタオルやウインドブレーカーなど、カウンターに返すものも丁寧に畳んだ。

 支度は終わったけれど、彼はまだ戻ってこない。どうしよう、と思ったとき、俺はハッと気づいた。彼は下で待っているのかもしれない。先に行くと言っていたし、ここに彼が戻る必要もなさそうだ。

 俺は急いで鞄を肩にかけると、忘れ物がないか確認し、更衣室を後にした。


                *


「さっきの人なら、もう帰ったよ」

「……え?」

 一階の受付カウンターで借りたものを返した俺が、姿の見えない彼のことを聞いてみると、事務の人は言った。

「救急箱と裁縫道具を返して、そのまま体育館を出ていったけど、戻る感じじゃなかったし」

 事務のおじさんの視線を追って玄関口に目をやり、彼の靴も傘もないことに気づいた俺は、一瞬、目の前が真っ白になった気がした。

「そう……ですか」

 思わず下を向く。今までだったら、それで終わっていたと思う。けれど俺は拳を強く握り締めると、何とか踏みとどまった。まだだ。まだ、諦めたくない。彼にもう一度逢うために、できることがあるはずだ。俺は顔を上げ、カウンターに身を乗り出した。

「あの……っ、どこに行けばあの人に逢えるか、知りませんか? この大学に関係ある人、ですよね」

「さあ~……? 何しろ、大勢いるからねえ。あまり見ない顔だとは思うけど。院生とか、講師かもしれないねえ。名札をつけてなかったし、少なくとも体育館に来るのは初めてじゃなかったみたいだし」

「名札、ですか?」

「ああ、私もそうだけど、事務方は仕事中、みんなこういう名札をつけているからね」

 そう言うと、首から下げた写真付きの名札を見せてくれた。今まで気にしていなかったけれど、確かに今まで見た事務の人も名札をつけていたかもしれない。

「佐藤さん……」

 何となく口にしただけだったけれど、自分の名前を耳にすると、名札を見せてくれていた佐藤さんは少し照れたように小さく笑った。

「まあ、ほとんど誰も見てないと思うけどね。怪しい人じゃないですよって思わせるために、首からぶら下げているようなもんだから」

「ははは」

 軽口に思わず笑ってしまったあと、俺は慌てて謝った。

「すみません、つい」

「いやいや、元気になったようで良かった。ずぶ濡れでここに入ってきたときは、本当にひどい顔をしてたからさ」

 改めて、いろいろな人に心配してもらっていたのだと知り、俺は自分が如何に何も見ていなかったのか気づかされ、胸がいっぱいになった。

「あの、佐藤さん。いろいろとお世話になりました。ご迷惑をおかけして、本当にすみません」

「まあ、これも仕事だからね。気にしなくていいよ」

 もう一度頭を下げ、俺が玄関口に向かおうとすると、佐藤さんは思い出したように声を上げた。

「ああ! ちょっと待って。そういえば、君の靴なんだけど!」

 佐藤さんはカウンターの下にもぐったあと、何かが入ったビニール袋を俺に渡してくれた。

「君の靴、水浸しですぐにはどうにもならないみたいだったからさ。さっきの人が新聞紙にくるんで持って帰れるようにしてくれてた」

「あ……」

 そうだ、靴も泥と水でぐちょぐちょになってたんだった……って、あれ? 持って帰れるようにってことは、これが俺の靴? 確かにせっかくきれいになったのに、またあの靴に足を突っ込むのはものすごく嫌だけれど、それじゃあ靴はどうしたら……。

 不安そうになった俺に気づいたのか、佐藤さんは笑って言った。

「心配しなさんな。靴をどうにかできないかって、さっきの人から相談されてたからさ、いろいろと探したんだよ」

「え……?」

 佐藤さんはもう一度カウンターの下にもぐってから、新聞紙にくるまれたものをカウンターに置いた。新聞紙を開くと、そこにはスニーカーが置いてあった。

「ここって結構、靴の忘れ物が多いんだよね。室内履きのまま帰っちゃったりしてさ。もちろん後で取りに来る人もいるんだけど、そのままってことも中にはあってさ。一応、一年くらいは保管しておくんだけど、それ以上は無理だから処分することになってるんだ。これはそろそろ処分する時期だし、そんなに汚くない。サイズはちょっと大きいかもしれないけど、紐で調節すれば一日くらいは大丈夫だろう。他人が履いてたものでもよければ、使ってくれて構わないよ」

「い……いいんですか?」

「もちろん。返さなくていいし」

 それでも少し迷っていると、佐藤さんは言った。

「もし新しいのがいいなら、購買で運動靴が買えると思うよ。まあ、三千円くらいすると思うけど」

「これを、いただいてもいいですか?」

 即決した俺を見ると、佐藤さんは笑って頷いた。

「じゃあ、気を付けて。そこにある傘も使っていいけど、乾かしてから返しに来てくれるかな。黙って戻しておいてくれればいいから」

「わかりました」

 最後にもう一度、佐藤さんに挨拶をし、俺は体育館から雨の中へと足を踏み出した。


                *


 少し時間があったので、俺は保健室に寄ってから教室に向かうことにした。保険医に事情を説明し、取り敢えず肩にシップをしてもらったけれど、筋などは痛めていないようだった。

 保健室のある校舎から再び雨の中を移動し、講義棟の入り口で俺が傘を閉じていると、ちょうど一限が終わったのか、教室から学生たちが出てくるのが見えた。俺は二階に上がり、次の講義がある教室に向かった。

 二階の廊下にも何人かたむろしている学生がいたけれど、同じ教室で必修科目が続いていることもあり、ほとんどの人は中にいるようだった。ざわついている教室の後ろから俺が入ると、ちょうど教授が前方のドアから出ていくのが見えた。

 ……席、どうしよう。

 後方から教室の様子を一望していると、とにかく人がたくさんいて、狭い通路を行ったり来たりしている様子は目が回りそうだった。人混みは元々あまり得意ではない。おまけに、ほとんどの机には広げたノートや鞄、飲み物などが置いてある。時折、空いている席があっても、そこにたどり着くまで多くの人を押しのけるように進まなくてはならない場所にあり、行くのが躊躇われた。

「なあ、ここの席、空いてるけど」

「え? あ……」

 呆然と立ちすくんでいた俺は、不意に近くから声をかけられたのに気づき、辺りを見回した。

「こっちこっち」

 見ると、一番後ろの席に座っている男子学生がこちらに向かってひらひらと手を振っていた。

 ……俺、でいいんだよね?

 近くでリアクションを返している人が誰もいないことを確認すると、俺は恐る恐る歩み寄った。目つきが鋭いせいか少し強面に見えるけど、俺に声をかけてくれた人はどこか優しそうな雰囲気をまとっていた。それに人影に遮られていて気づかなかったけれど、近寄ってみると確かに席が空いている。

「あの、すみません。失礼します」

 俺は男子学生の隣の席に座りながら、精一杯にこやかに、失礼がないようにと微笑んだ。が、内心では同級生とのやり取りが久しぶり過ぎて、どういうふうに接したらいいのか思い出せずに焦っていた。高校までは、少なくとも上辺だけなら普通に話せていたのに。

 席が空いていると声をかけてくれて、嬉しかった。嬉しかったと伝えたい。そしてせっかくのチャンスなのだから、できれば知り合いくらいにはなりたい。だけど、どこまで親しげにしてもいいのか、動揺しすぎて判断できない。結局、俺はそれきり何も言葉を続けられなかった。親切にしてくれたのに、これではきっともう俺に話しかけてはくれないだろう。こちらから話しかけなければ、駄目なのに。

 本当はわかっている。学生同士で仲良くなるのに必要なのは、丁寧な言葉遣いや態度じゃない。だけど馴れ馴れしいと思われるのが怖くてできない。逆に素っ気ない態度になってさえいる。傍目には、俺が誰かと親しくするつもりはないと意思表示しているように見えるだろう。本当は違うのに。結局、俺は変われないままだ。

 隣の男子学生は、俺が鞄から教科書やノートを出しているのを眺めていたけれど、しばらくして興味を失ったように前を向いた。前の席の女の子と何か話をしている。どうやら最初から近くに知り合いがいたらしい。これでもう、本当に友達を作る機会を失ったな、と俺が思ったとき、不意に横から何かを差し出された。

「これ、新発売のチョコなんだけどさー。食ってみて」

「え?」

「俺はあんまりうまくないと思うんだけど、こいつらはうまいって言うんだよね。このままだと2対1で俺が不利だから、ちょっと俺に加勢してよ」

「ちょっ、何で普通に不正しようとしてんのよ。公平にジャッジしてもらわないとダメでしょーっ?」

 俺の前に座っていた女の子がぐるりと勢いよく振り返り、俺はびっくりして反射的に身を引いた。と、差し出されていたお菓子の箱に腕が当たり、チョコが辺りに散らばる。

「ご、ごめん!」

 俺は慌てて謝ったけれど、女の子は机にばらまかれたチョコを箱に戻すのに忙しく、俺には見向きもしなかった。

「大丈夫大丈夫、机の上ならセーフ! というか、ちゃんと味のジャッジして」

 女の子の豪快さに圧倒された俺は、思わず隣の男子学生に目をやったけれど、いつものことなのか平然としていた。俺は少し迷ったあと、取り敢えず自分のノートの上に乗っていたチョコを指でつまみ、口に入れた。しばらくしてチョコがとろけると、濃厚な甘さが口の中に広がる。

「これは……ちょっと、すごく、甘いね」

 何というか、これは喉に来る甘さだ。

「だろー?」

 堪え切れずに軽く咳き込んでいた俺は、隣の男子学生と顔を見合わせると、笑った。

 それ以来、教室で彼らと一緒になると話をすることが増えた。昼休みを一人で過ごすことも減った。俺なりに頑張って声をかけるときもあれば、向こうから声をかけてくれることもあった。三人は高校が同じらしく、その会話から豪快な女の子が麻美さん、ちょっと不思議な女の子がルリさんだと知った。

 それから一ヶ月ほど経ったとき、俺は勇気を出して聞いた。

「あ、の! 名前、聞いても、いい……?」

 その時の男子学生、中井の顔は今でも忘れられない。怒るというより、完全に呆れていた。麻美さんとルリさんはめちゃくちゃ笑っていたけれど。

 多分、俺の人生がすでに始まっていたのだと気づいたのは、この瞬間だ。中井は信じられないような顔で名乗ったあと、大袈裟なくらい嘆いてみせた。

「おまっ、ほんっと信じらんねーな! 名前とか、普通一番初めに聞くヤツだろ! つーか、俺が聞いたとき、何で聞かないんだよ! いや、名乗ったつもりになってた俺も俺だけどさぁ!」

「ごめん」

「あ~もう、謝るとかマジでやめろ。すーげーもやもやする!」

「ごめん」

 反射的に謝ってしまってから中井に目をやると、やれやれとため息をつかれた。

「ホント、それな。お前の悪い癖だよな」

「え?」

「す~ぐそうやって謝るじゃん。謝るくらいなら感謝しろ」

「……へ?」

 きょとんとした俺の横から、露骨に嫌な顔をした麻美さんが口を挟んだ。

「う~わ~最悪。感謝の強要とか、マジあり得ない」

「人聞きの悪いこと言うんじゃねえ。俺はただ、名前聞くの遅くてごめんねって謝られるくらいなら、遅くなったけど教えてくれてありがとうって感謝されたほうがいいって言ってるだけだろーが!」

「ああ~、なるほど。確かに」

 納得している麻美さんを見ながら、俺は一か月前の土砂降りの日のことを強く思い出していた。ずっと考えないようにしてきた、胸の引っ掛かりを。

 ずぶ濡れの俺を助けてくれた彼のことを、俺は何とかして忘れようと努力してきた。名前も知らない彼にもう一度逢うのは無理だと、諦めようと自分に言い聞かせてきた。けれどすぐ、ふとした拍子に思い出してしまうのは、彼に謝りたかったからじゃない。

 俺は本当は、あの人にありがとうって言いたかったんだ……。

「うえっ、ちょっ、何。泣きそうな顔してんじゃねえよ! 俺がいじめたみたいだろーが!」

「ええ~。いじめたじゃん。自覚なし?」

「麻美、てめーは余計な口挟んでんじゃねえ!」

「ハイハイ」

 いつも通りの二人のやり取りを見て笑いながら、俺は言った。

「ありがとう、中井」

「ん? おう」

「俺、頑張る」

「……? おう、そうか。頑張れ」

 俺は、彼に謝るのは諦めた。でも、ありがとうと伝えることは諦めない。まだ、一度も伝えていないから。

「名前も、ちゃんと聞く」

「うん? そうだな」

 よくわからないまま相槌を打っている中井に向かって、俺は改めて決意した。後になって自分の気持ちに気づいて、伝えられずに後悔するのはもう嫌だから。

 そのことを教えてくれた中井に、俺はもう一度、感謝を込めて微笑んだ。

「ありがとう」

 こうして俺の人生は始まった。


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