第6話 猫の王様とバレンタインの話
最近、恋人ができた。
人間嫌いの俺が誰かを好きになる日が来るとは、今でも信じられないというか、何というか。
以前、とある腐女子に言われたように、まるでファンタジーだが、そんなことはない。
九条くんに初めて逢ったときのことは、よく覚えている。
あの日は晴れていたが、玄関を出たら雨の匂いがした。そこで自転車で行くのを諦め、傘を持っていくことにした。
家を出て少し経ったころ、大粒の雨が降ってきたので傘を差した。そのまま大通りに出たとき、少し先にある大学の敷地内から、小さな子猫が道路に飛び出していくのが見えた。車の交通量はあまりないが、一瞬、胸がひやりとした。
けれど子猫の向かった先に目をやったとき、自転車が走っているのに気づいて、今度こそ心臓が止まりそうになった。
と、急ブレーキをした自転車がハンドルを切り、思い切り植え込みに突っ込むのが見えた。子猫はびっくりしたように植え込み沿いに走り去り、大学の校門に飛び込むように姿を消した。
俺としては子猫のほうが心配だったので、本当はすぐにでもあとを追いたかったが、何故かそうしなかった。
人間には興味ないし、どうなろうと関係ない。だが、あそこで植え込みに突っ込んでくれなかったら、子猫は死んでいただろう。つまり命の恩人には違いない。
とはいえ、自分から関わる気は毛頭なかった。俺はただそこに立ち止まり、土砂降りの中、向かいの歩道の植え込みの奥を眺めていた。
しばらくして人影が立ち上がるのが見えた。ずぶ濡れで泥だらけだが、取り敢えず大丈夫そうだ。俺はそのまま立ち去ろうとした。が、彼が歩道や植え込みを覗き込み、何か探す素振りをしていることに気づき、足を止めた。
何か見つけた様子はなかったのに、少しして彼は安堵したように息をついた。その時、俺は彼が子猫の心配をしていたのだと気づいた。
それから彼は植え込みの葉や折れた枝などを心持ち整え、ようやく自分の自転車が倒れているほうに戻っていった。彼が泥だらけの自転車を引っ張って植え込みから出てくるのに思ったより時間がかかったが、俺はまだそこにいた。どうしてかはわからない。だが、彼が雨に打たれながら、チェーンの外れた自転車を引きずって歩いているのを、俺は傘を差したまま離れたところから眺めていた。
彼はずぶ濡れで、泥だらけで、自転車は壊れ、歩くときに少し足を引きずっていた。恐らくどこか痛めたのだろう。辛そうな酷い顔をしているのに、どこか淡々としていて、雨で濡れているけれど泣いてはいない。
気が付いたら、俺は彼のあとを追っていた。校門の辺りで追いつき、俺は彼に傘を差しかけた。特に何か考えていたわけじゃない。同情できるほど、彼のことを知っているわけでもない。だからこれは、ただの俺の気まぐれだ。
この大学は近所だし、以前は通っていたこともあるから、多少のことは知っている。体育館でシャワーを借りる許可を取ったり、微力ながら彼が俗世に戻る手伝いをさせてもらったあと、俺は大学内で子猫を探したが、結局その日は見つからなかった。
以来、俺は子猫を探して大学の構内を歩くようになった。数日が経ち、中庭の雑木林のことを思い出した俺は、そこで子猫を発見した。立ち入り禁止になっているし、猫のたまり場だし、天気のいい日は居心地もいい。たまに雑木林を突っ切っていく学生もいるが、近道のルートから外れた場所にわざわざ入ってくる物好きはいないし、道に迷ってかえって遠回りする要領の悪い奴も滅多にいない。
と、高をくくっていたら、いた。おまけに慌てていたのだろう、携帯まで落としていった。一目見て、すぐに彼だと気づいた。
翌日、彼の携帯に電話がかかってきたので出た。彼の大学で、昼休みに携帯の受け渡しをする約束をし、俺はいつものように猫に逢いに中庭の雑木林に向かった。
携帯を返したら、俺はそれで終わりだと思っていた。最初に彼と会ったのはかなり前のことだし、向こうも俺のことなど覚えていないだろう、と。もし覚えていたとしても、特に関わる必要性を感じない。彼もそう考えると思っていたら、違った。
どう見ても人好きするような態度はとっていないはずなのに、どうやら彼は俺に好意を抱いているようだった。友達がいないのかと思ったら、そうでもないらしい。俺のおかげだと言って、彼ははにかむように笑った。
それがいわゆる友情の部類に入る好意ではないことは、すぐに気づいた。彼自身がそうと気づいていないことも。
男女に関わらず、人間に好意を向けられるのは苦手なはずなのに、彼と一緒にいるのは何故か苦痛ではなかった。そういえば、初めて会ったときから彼のことは怖くなかった。怪我の手当だって、普通なら人間には触りたくないから、救急箱を渡して終わりだったはずだ。でも、俺はそうしなかった。
少し間隔はあるが、隣に座っているときも変な緊張感がない。服の上からとはいえ、不意に腕が触れても嫌じゃない。俺の膝にいる猫を撫でるのに、彼が手を伸ばしてきても、体が強張ったりしない。
彼は……特別なのか? 俺にとって。
彼が怖くない理由はすぐにいくつか考えられた。彼の声は静かで、聞いているだけで心地がいい。一つ一つの動作が丁寧だから、無駄に大きな音を立てないし、見ていて安心する。彼は遠慮がちなところがあり、親しくなってからも馴れ馴れしい態度をせず、きちんと一定の心の距離を保ってくれる。
だが、本当にそれだけだろうか? 今までもそういう人間はいたように思う。けれど遠く離れていても、目に見えない好意が自分に向けられていることが嫌だったはずだ。今もそれは変わらない。ならば彼は何が違うのだろう。
俺は彼と会うたびに、彼の様子を観察し、彼の言葉に耳を傾けた。彼はいつも一生懸命だった。大学生活、一人暮らし、勉強、友達、バイト、そして俺に対しても。
多分、そうやって頑張って生きているのは彼だけではないだろう。世の中の大半の人間と変わらない。見た目も恐らく、飛びぬけていいわけではないはずだ。けれど彼が笑うと俺も嬉しくなったし、可愛いとさえ思った。
俺は彼が好きなのだろうか? 彼からの好意を疎ましく感じないのは、俺も彼が好きだからなのか? 俺は彼のどこが好きなんだ?
俺は彼の言葉や表情だけでなく、自分の心の動きにも注意を払うようになった。彼の顔を見ると、胸が暖かくなる。彼が辛そうな顔をしていると、何とかしたい気持ちが込み上げてくる。随分長い間、錆びついて動かなくなっていた心が少しずつ眠りから覚めるような気がした。
多分、俺のこの気持ちはまやかしだ。彼でなければならない必要性が見つからない。きっと一過性のもので、いつかは消えてなくなってしまうだろう。それでも彼に対する愛おしいようなこの気持ちを、大切にしたいと俺は願った。どうか、いつまでもなくならないでほしいと。
けれど彼と俺の秘密の逢瀬は、唐突に幕を下ろした。警備員がやって来て、俺と猫は追い出された。彼は自分のせいだと心を痛めているようだったが、俺は最初から時間の問題だと思っていたから、特に気にしていなかった。
むしろ、ちょうどよかったとさえ感じていた。子猫を飼う踏ん切りもついた。そのための条件として、再びちゃんと働き始める決心がつけられた。何より、彼の人生に悪影響を及ぼしている、俺という元凶を引き離すいい機会だ。
けれど彼が心を痛めたままにしておくのは忍びない。それがいつか、忘れ去られてしまう想いだとしても。
しばらくして、俺は彼に逢いに行った。子猫の無事を報告して、もう彼とは逢わないことを伝えるために。
結局、俺はまた彼を傷つけてしまったけれど、これでよかったのだと信じようとした。彼の気持ちには応えられない。彼に相応しい存在になれたと、俺が自分で思えるようになるまでは。
それに彼に逢わない日々が続けば、きっとこの気持ちは消えていく。彼もすぐ俺のことなど忘れるだろう。
一ヶ月ほど経ったとき、俺は自分の読みが大きく外れていたことをはっきりと思い知らされた。俺は彼のことを想わない日はなかったし、彼もまた俺を忘れてはくれなかった。
彼が俺の働いている喫茶店に入ってきたときの衝撃は、きっといつまでも忘れられない。多分、あの瞬間、俺はようやく自分の気持ちを理解した。俺は彼が、九条くんが好きなのだと。ずっと彼に、九条くんに逢いたかったのだと。
理屈なんかはわからない。きっと、一生わからない。この気持ちはいつか消えるかもしれない、とても曖昧なものだけれど、それでもこの瞬間に俺の胸に湧き起った、九条くんと一緒にいたいというただそれだけの想いは、変えようもない真実だった。
その後、紆余曲折あったものの、九条くんの友人、兼、保護者からも交際を認めてもらい、俺は本当に久方ぶりに幸せを感じていたが、同時に大きな不安も抱えていた。
どう取り繕ったところで、俺という存在の本質が、ろくでもないものだということに変わりはない。恐らく、俺が誰かにとって相応しい存在になれることは一生ないだろう。それでも、何よりも大切な九条くんのそばにいるという選択をしたのは、俺の我儘だ。そしてこの我儘を守り、貫き通すためなら、俺はきっと何でもする。
けれどそんな独りよがりな俺の気負いも、九条くんの前では形無しだった。決して歓迎されるような性質ではない、俺の子供嫌いさえも、九条くんは猫みたいだと笑ってくれた。その言葉に、笑顔に、俺がどれだけ救われたか、きっと九条くんにはわからないだろう。
俺は多分、九条くんには一生敵わない。敵わなくていいと思える相手に出逢えたことを、俺は誇りに思う。
もっとも、九条くんは俺のことをかなり過大評価しているようだから、幻滅されないように気を付けてはいる。今までの人生において、俺のことを正当に評価していたのは、雇い主である喫茶店のオーナーと、保護者でもある九条くんの友人、それから先日お世話になった腐女子くらいのものだろう。
俺は基本、自分のしたいようにしかできない。それは九条くんに対してもだ。九条くんにお揃いのアクセサリーを贈ったのも、弁当や好物のグラタンを作ったのも、俺がしたいときにしたいことをしているだけだ。デートのときに九条くんの行きたい店を優先するのは、単に彼の嗜好に興味があるからで、別に甘やかしているわけでもない。そこのところをいいように勘違いされているのはわかっているが、都合がいいので特に訂正もしていない。
ただ、当然のことながら、俺としてもひたすら欲望のままに振舞っているわけではない。そんなことなら、とっくに九条くんの全てを手に入れている。焦らして弄んでいるわけでもない。俺にも一応、良心というものがある。
が、どうやら今まさに、俺のその良心が試されているようだった。
*
バレンタインにはいい思い出がない。ただでチョコレートがもらえて嬉しいなどと呑気に思えていたのは、幼少のころまでだ。一方的に不要なものを渡され、暗黙の裡にお返しを強要されるうえに、受け取りを拒絶すると悪者にされる。極めて理不尽な悪習でしかない。金銭的にも精神的にも、何一ついいことがない。それまで普通に仲良くしていた男友達と疎遠になるきっかけになることも多かった。
すでにいろいろと拗らせて、ある程度は受け流す術も身に着けたはずだが、バレンタインは必ず仕事を休むと心に決めていた。単に一番大切な人と一緒に過ごしたいというのもあるが、仕事でプライベートを犠牲にするつもりはないからだ。クリスマスは確かに繁忙期なので、従業員として店に貢献するのは当然だが、チョコレート専門店でもない平日の喫茶店にバレンタイン特需は認められない。
もし俺がその要因の一つとなり得るとしても、客寄せパンダになるつもりは毛頭ない。オーナーもそのことは了承済みだし、むしろ俺がトラブルの原因になる可能性が高いことも理解しているので、すんなりとシフト申請を通してくれた。その代わり、バレンタインに来てくれた全ての客には、店からという名目で小さなチョコレートをサービスすることを、オーナーと相談して決めた。
もっとも、一ヶ月ほど前からとあるアイテムを身に着けるようになり、俺の状況はかなり改善されたように思う。左手の薬指に嵌めたシンプルなシルバーの指輪。その意味は言うまでもない。本当は俺が自分で九条くんの分と合わせて購入したかったが、それだと決意を固めるのにもっと時間がかかっただろう。九条くんの心の負担にもなるかもしれないし、そうそう渡せない。だが共通の友人である腐女子からのプレゼントであれば、ただのお揃いだと言い訳もできる。
俺は外に出るときだけ指輪を左手の薬指に嵌め、自宅では首にかけたチェーンに通して身に着けていた。両親に余計な詮索をされるのだけは避けたい。父は俺に興味ないだろうから、それほど問題はないが、母に俺の恋人が男だと知られたら、面倒どころの話ではない。九条くんが不当に傷つけられる事態だけは、何が何でも絶対に避けなければならない。
一方、九条くんはほとんどの時間、俺が贈ったネックレスのチェーンに指輪を通し、服の下で見えないように身に着けている。指輪を左手の薬指に嵌めてくれるのは、九条くんのアパートでデートをするときだけだ。まだ二十歳にもなっていない大学生の身の上で、正式に結婚してもいないのに公で既婚者のような真似をしたら面倒なことになるだろうし、九条くんのそういう慎ましいところが俺にとってすごく好ましいのも事実だ。
が、九条くんの薬指に指輪が光っているのを見ると、やはり嬉しい。指輪の感覚に慣れなくて、失くしていないか確かめるように、時々気にしている様子がいじらしくて可愛い。ふと、俺の薬指にある指輪を見て、少し恥ずかしそうに顔を綻ばせるのも愛おしい。
バレンタインも九条くんのアパートで一緒に過ごすことになっていたので、俺は朝からチョコレートケーキを作り、約束の時間に訪ねた。午前中は大学の授業があると言っていたのに、お昼ご飯を用意して待っているらしい。九条くんの手作り料理は初めてだから、楽しみであると同時に、少し心配だった。九条くんはすぐ無理をする。味の心配はあまりしていなかった。基本、どうとでもなる。
実際、料理は九条くんの努力がとても感じられる出来栄えだった。炊き込みご飯と煮物、お浸しと卵焼きだ。手が込んでいるように見えるけれど、前の日に下ごしらえをしておけば意外と簡単に短時間で作れるし、失敗する確率も低い、いい献立だ。
お昼ご飯を美味しくいただき、デザートに俺の持ってきたチョコレートケーキを食べる。使った食器を一緒に片付け、いつものように九条くんのベッドに二人で腰掛けた。
俺が最初に深く座り、その脚の間に九条くんが収まる。後ろから九条くんを抱きしめたら、その温もりと細い腰を堪能しながら、偶然を装って無防備な首筋にいつでも唇を触れられる。すぐに色づく耳たぶや、体温の上昇とともに甘く立ち昇る香りに、五感を奪われる。ここは九条くんを独り占めできる、最高のポジションだ。
いつもはそうして映画を流しながら、自らの欲望と葛藤しつつ九条くんを補給しているのだが、今日はどうやら勝手が違うようだった。
「あ、あのっ! ちょっとだけ、目を閉じてもらえませんか?」
九条くんからこの言葉を聞いたのは、これで二度目だ。最初に言われたのは俺の誕生日で、イルミネーションで彩られた公園にいるときだった。あの時は夜とはいえ、イルミネーションのそばで明るかったし、屋外で周りに人もいた。何より、コートのポケットを気にしているようだったから、その後の展開は容易に想像がついた。
が、今回は前とは似て非なる意図があると、すぐにわかった。まず状況的に密室で二人きりで、体が密着しており、何より俺を見つめる九条くんの瞳が甘く潤んでいる。
そもそも、九条くんが現状の関係性では満足できなくなっており、いろいろと踏み出したいと考えていることは、かなり前から気づいていた。まあ、その責任の一端が俺にもあることは認めよう。というか、むしろ俺のほうこそ毎度よく耐えているものだと己の自制心を褒めてやりたいくらいだ。
今も、不安そうに揺れる瞳を見ていると、簡単に理性が飛びそうになる。九条くんは基本、無意識に俺を誘ってくるから油断ならない。一生懸命にサプライズを考えたり、料理を頑張って作ってくれたりする九条くんも健気で可愛いのだが、やはりこうして素の感情を見せられるほうが弱い。絶対、口に出しては言わないけれど。
「あの……」
先程より九条くんの瞳が潤んでいることに気づき、俺は我に返った。
「ん、ちょっと見惚れてた。何だっけ?」
嘘ではない。が、それだけでもない。にもかかわらず、そんな一言であっさりと頬を染めてしまう九条くんを見ると、純情すぎてさすがに心配になってしまう。本当に手を出していいのかと。
だがまあ、ここまで来たら選択の余地はない。俺としても、時間をかけて少しは慣らしてきたつもりだ。せっかくの九条くんの可愛いお誘いを断って、哀しい顔をさせてしまうのは本意ではない。
「あの、ちょっとだけ、目を閉じて欲しいです……」
上目遣い、可愛い。キスしたい。が、俺は何とか我慢して、言われた通り目を閉じた。
と、俺の腕の中にいた九条くんが遠慮がちに身を寄せたかと思うと、唇に柔らかいものがそっと触れる。ここまでは一応、想定内だ。
けれどすぐに離れたはずの柔らかいものが、再び、今度は少し強く唇に押し付けられた。ちろり、と唇を割るように舐められる。なるほど、これはかなり想定外だ。どうやら本気らしい。
誘われるように唇を緩めると、僅かに戸惑ったような間のあと、少し勢い任せに舌が侵入してきた。すかさず絡めとるように引きずり込み、強く吸う。思わぬ反撃に驚いたのか、九条くんはびくりと身を震わせた。慌てたように逃げる舌を追い、九条くんの唇を割る。
甘い。そして柔らかい。ずっと欲しかったものが、やっと手に入る。
俺は夢中で九条くんの唇を貪った。ほんの少し前まで強気だった九条くんが、今は反対に唇を蹂躙されながら、必死に俺に縋りついている。可愛い。もう手放したくない。
もし、ここまで織り込み済みだったとしたら、俺は完全に九条くんの術中に嵌まったと言っていいだろう。と思っていたら、不意に頬に温かいものが落ちてきて、静かに流れた。これは雫……涙だ。
はっと我に返り、目を開けると、俺の一番大切な人が泣いているのが見えた。
しまった、やりすぎた。どうしたらいい? どうしたら……。
「違っ……違うんです、これは、ただ……」
わかっている。ちょっと俺が急ぎすぎた。調子に乗って、一番大切な九条くんへの気遣いを失念していたことが原因だ。一瞬とはいえ、珍しく挑発的な九条くんに刺激されて、つい本能のまま動いてしまった。九条くんに耐性がないことは知っていたから、今まで大切に大切にしてきたのに!
自分でも戸惑っているように、ぽろぽろぽろぽろこぼれる涙を持て余している九条くんを、俺はぎゅっと胸に抱きしめた。自責の念から、思わず大きなため息が漏れる。
と、その途端、俺の腕の中で九条くんが身を固くした。ああ、しまった。最悪だ。またやってしまった。九条くんはすぐ、俺のため息を反対の意味に捉えてしまうとわかっていたのに。
九条くんが俺に謝り出す前に、一刻も早く誤解を解かなくてはならない。俺はこんなことで君に呆れたりしない。君を嫌いになったりしないと伝えなければ。
手っ取り早く、というと聞こえが悪いが、最も効率のいい方法でそれを伝えるべく、俺は九条くんにキスをした。淡く染まった耳たぶに、涙で濡れた目元、頬、そして唇。優しく、優しく、この想いが届くように、彼にこの気持ちが伝わるように。
髪を撫でるように指で梳き、滑らかなうなじを辿り、頬に触れる。大切なことだから、何度でも伝えよう。俺は君が……。
「俺は君が好きだ。大切にしたい。後悔してほしくない。本当は、君の誕生日まで待とうと思ってたのに、我慢できなかった。悪い」
ひたすらに俺を見つめる九条くんが、瞬きを一つした。
「……我慢、してたんですか?」
今更なので、言葉より遥かに正直な反応を示している体があることを教えるべく、俺は九条くんをしっかりと抱き寄せた。布越しでも密着した部位の変化は感じ取れたのか、九条くんは頓狂な声を上げて顔を赤くした。可愛い反応ではあるが、誰のせいだと声を大にして言いたいもの事実だ。なので、わざと耳元に唇を寄せ、喉を鳴らすように低く囁いた。
「今も、すごく我慢してる」
「ふにゃあっ」
九条くんは耳が弱い。ついでなので、意趣返しに耳たぶを軽く舐めたら、想像以上に可愛い声を出されて、かえって困った。本当に、どうしたものか。
と、不意に九条くんの膨れっ面が目に入り、俺は首を傾げた。少し悪戯が過ぎたか?
「……どうして、俺の誕生日まで待とうと思ったんですか?」
ああ、そっちか。俺は肩を竦めて答えた。
「さっきも言ったけど、君を大切にしたい。君に、後悔してほしくない。考える時間を、君にあげたかった」
くしゃりと、九条くんは泣き出しそうな顔を歪めた。
「わかってます。でも、俺の誕生日、六月なんですよ? そんなに待つの、嫌ですっ」
俺としては半年くらいなら許容範囲内だと思っていたのだが、どうやら九条くんにとってはそうではなかったらしい。というか、純情すぎる九条くんが相手だから、俺もそれくらいは我慢しようと思っていたのに。相互理解とはなかなか難しいものだ。
「だ、大体、今だってこんなになってるのに、どうするんですかっ」
布越しではあるが、俺の体の一部が触れている感覚が気になるのか、さっきから九条くんの顔が赤いままだ。というか、九条くんのほうこそ今からそんなことで動揺していて、本当に大丈夫なのか。
「どうって……」
紅に染まっている九条くんの耳に直接吹き込むように、俺は低く囁いた。
「もう、我慢する必要、ないんでしょ?」
さらに駄目押しで、九条くんの好きな仕草、無表情に首を傾げる、を発動してみた。
効果は抜群だ!
九条くんはふにゃふにゃと相好を崩すと、両手で顔を覆った。
「……広瀬さん、本当にずるいです」
「ん、知ってる」
ちゅ、と軽く触れるだけのキスをした。額に、こめかみに、少し熱を帯びた瞼に。そして顔を覆っている指の隙間から、涙の味がする頬を舐め、俺とお揃いの指輪が光る、左手の薬指に唇を落とした。
天岩戸が開くように、九条くんの顔が少しずつ現れる。
大丈夫。俺は君を怖がらせたりしない。君が俺を猫の王様だと言うのなら、そう見えるように振舞ってあげよう。猫のように甘えて、気まぐれにキスをして、喉を鳴らして君の懐に潜り込む。
だけど猫の王様は猫じゃない。君の全てを貪り尽くす、ただの獣だ。君が望むように、君の全てを俺のものにしてあげる。桜色の粒を舌でねぶり、君の欲望を暴き、育て、そこに生まれた命の種が尽きるまで、その甘い蜜を飲み干そう。まだ花咲くことを知らない蕾を指で掻き散らし、柔らかい君を優しく優しく蹂躙する。奥の奥まで俺で満たし、白く濡らして染め上げる。
だから君も、俺を欲しがることをやめないでほしい。甘く啼いて、名前を呼んで、ただ俺だけを見つめてほしい。濡れた声も、熱を帯びた瞳も、歓喜に震えるその姿態も、ひたすら俺だけのためにあると教えてほしい。
その代わり、俺はいつでも、いつまでも君のそばにいて、君だけの猫の王様であり続ける。君がそう望む限り、ずっと。
だから、ね。九条くん、ただ一つ、俺が望む言葉を聞かせてくれ。
「……広瀬さん、俺は……」
彼はまるで俺の心の内を読んだかのようにそれを口にし、俺はその唇をすぐに塞いだ。それ以上の言葉は必要ない。
俺は俺の全てを使い、九条くんの想いに報いるよう努めた。じっくりと、時間をかけて。
翌日、九条くんは大学を休まざるを得ないことになり、俺は後日、九条くんの保護者からきついお叱りを受けた。
若さ故ではなくとも、自分自身の過ちは認めたくないものだと、俺は改めて知った。
猫の王様 木兎ゆう @bokuto_u
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