第5話 中井くんと九条くんの、なんでもない話

 最近、友人の様子がおかしい。

 ため息をついているというか、ため息をついているというか、ため息をついているというか。

 まるで恋人とうまくいってないようにも見えるが、そんなことはない。

 そんなことはない、はずだ。

 九条が広瀬さんと付き合い始めてからというもの、誕生日プレゼントの相談やら、デートのノロケ話やら、ひっきりなしに付き合わされているからだ。まあ、クリスマス前は一週間くらい死にそうな顔をしていたが、何故か頑なに口を開こうとせず、かなり心配したものの、その後は打って変わって幸せオーラ全開だった。そもそも正月には偶然とはいえ、初詣帰りにイチャついているところに出くわしたし。

 まあ、本人はイチャついてないと言い張っていたが、その隣に立っている無表情なコミュ障イケメン野郎は、本当はもっとイチャつきたいと無言で俺に伝えてきた。

 ……何でだろう。たまにしか顔を合わせないのに、最近、ヤツの言いたいことがわかるようになってきた。すげームカつく。九条は九条で、途端に不貞腐れるし。俺だってコミュ障野郎と無言の会話なんか成立させたくないし、むしろできなかったころに戻りたいくらいだ。あ~もうっ、理・不・尽!

 とにかく、今は隣の席で二酸化炭素の生成に勤しんでいる友人を何とかしたい。俺の周りだけ酸素が薄くなりそうで嫌だ。

「九条、広瀬さんと何かあったのか?」

 はっきり言って、こいつが自分の気持ちをコントロールできなくなるのは広瀬さんがらみのことしか考えられない。嫌なことがあったり、体調が悪かったりしても、九条はいまだにほとんど気づかせない。その代わり、恋人である無表情なコミュ障イケメン野郎のことになると、逆にこっちが心配になるほど感情がだだ漏れだ。といっても、今までは浮かれたり浮かれたり浮かれたりすることが多かったんだが。

 盛大にため息をまき散らしながらも、きっちりと黒板をノートに写していた九条は、俺の小声に気づくと、何とも言えない眼差しをちらりと投げてよこした。

「……何にも、ないよ」

 いやいやいや、台詞と顔があってねーんだよ! 何にもないってんなら、そんな投げやりな泣きそうな虚ろな顔でこっちを見んじゃねーっ!

 とはいえ、今は大学で講義を受けている最中だ。うん、教授、マジでごめんな。すぐ終わらせる。俺は小さく舌打ちすると、言った。

「後で話聞いてやるから、ため息やめろ。俺が酸欠になるだろーがっ」

 九条は瞬きを一つすると、やっと僅かに微笑んだ。

「わかった」

 まったく世話の焼ける奴だ。

 こうして俺は、またしても九条と楽しいランチタイムを過ごすことになったのだった……。


                *


「……で、何があったんだ?」

 何度目だ、俺がこいつに向かってこの台詞を言うのは。だが今は一月の末だ。さすがに今回は中庭のベンチでは寒いので、次の講義がある教室の隅を早々と陣取ることにした。暖房も入ってるし、今のところ他に人もいない。

 鞄から弁当箱を取り出していた九条は、さっきと同じ投げやりで泣きそうで虚ろな眼差しを俺に向けると、さっきと同じ台詞をため息とともに繰り返した。

「──だから……何にも、ないよ」

「何にもないわけあるかっ。朝からジトジトジトジトしやがって! 俺が湿気たらどうしてくれんだよ!」

 さっきは講義中だったから押しとどめたが、今度こそ遠慮はしない。俺はここぞとばかりに九条に噛みついた。

「大体、昨日までへらへらへらへら脳内お花畑だったくせに、いきなり二酸化炭素製造機になってんじゃねーよ! 俺が窒息したらどうすんだ!」

 と、ここで九条が突然豹変した。いつもならしょんぼり謝るところなのだが、今回は泣きそうなまま喚き返した。

「だって、本当に何にもなかったんだもん! てゆーか、全然お花畑じゃないし、全然、本当に、何にもないんだもん!」

 駄々っ子モードのだもん攻撃に、俺は心ならずも精神的ダメージを受け、取り敢えず口を噤んだ。だから、だもん、て言うな。可愛くねえから……。いや、まあ、広瀬さんは可愛いって言うだろうけど。あの人、九条に関してだけは基本的に全肯定する感じだし。と同時に、全人類に対しては全力で全否定する、すげーやべー感じの人だけどな。だからこそ、唯一全肯定する九条に、こんな顔をさせるような何かがあったというのも、しっくりしない。

 そこまで考えて、俺はふと九条に目をやった。いや……そうか。なかった、のか。何か……九条の欲しい、何かが。けど、あの人は時々、本当に心が読めるんじゃないかと思うくらい、感覚が鋭い。状況判断も的確だ。要するに、広瀬さんは九条の欲しいものがわかっていて、それをしない。で、そのことに九条も気づいているから、こんなふうに俺の前でぐずっているのだ。

 俺は天を仰ぎ、盛大に二酸化炭素を排出した。

「……ノロケか……」

 何と馬鹿らしい……。

 俺の心からの呟きに、九条は膨れっ面になった。

「ノロケじゃないもん!」

「わかった……わかったから。もん、て言うな。可愛くない……」

 無言でぷいっと横を向いた友人にイラっとしつつも、俺はその友人の手が弁当の包みをそっと撫でていることに気づいた。と同時に、気づかなければよかったと後悔した。何故なら……。

「それ、広瀬さんの手作り弁当?」

 一瞬にして発火した九条を目にした俺は、再び天を仰ぎ、盛大に二酸化炭素を排出した。

「……ノロケか……っ」

「ノロケじゃ……ないし!」

 ……うん、ありがとうな。語尾、変えてくれて。気遣い、マジ感謝。ということで、大体わかった。話を進めよう。

「オッケーオッケー。それじゃあ、何がないのか、お兄さんに話してごらん?」

 一転、にやにやと質問した俺に気づくと、九条は頬を染めて悔しそうに唇を引き結んだ。

「わ、かっちゃったくせに……っ。この……中井のエロスケベ!」

「ええ~? 何のことかなぁ? 本当にエロスケベなのは誰かなぁ?」

 ますます顔を赤くしながらも、九条はようやく口を開いた。

「だって……! 広瀬さん、全然、そういうこと、してくれないんだもん!」

 ……まあいい。一回くらい見逃してやろう。その代わり、根掘り葉掘り問い詰めてやる。覚悟しろ。

「ふ~ん、そういうことってどんなことかなぁあ?」

「だ、から、その……中井、顔怖い! 悪かったから! 語尾、気を付けるから!」

「はいはい、わかればよろしい」

 俺はコンビニで調達した話題の新作おにぎりと新作スイーツをビニール袋から取り出した。いや、別に、隣の友人が彼氏の手作り弁当に浮かれてるのがムカつくとか、全然、思ってないし。うん。

「てゆーか、広瀬さん、むっつりだよな。無表情だったり爽やかだったり、とにかくいつも擬態は完璧だけど、あの人、絶対エロいだろ。俺としても、まだお前に手を出してないとか、意外すぎるんだけど」

「う……っ」

 おお、この新作おにぎり、評判通りうまいな。

「まあでも、付き合い始めて二ヶ月くらい、か? 年も離れてるし、大事にしたい、とかそういう感じなんじゃねーの? 広瀬さんがお前に手を出さない理由なんて、それくらいじゃねえ? あの人、ホントお前にだけは甘々だもんな~。もしくは、お前が気づいてないだけで、実はすでにいろいろやられちゃってるとか」

 ははっと笑って俺が茶化すと、九条は本気で膨れっ面になった。

「そんなことない、し! そもそも広瀬さん、むっつりじゃない、し!」

 おーおー、語尾、頑張ってる。頑張れ。しかし、だ。

「いやいやいや、あれはどう見てもむっつりっしょ。絶対エロい。そういう感じする」

 冷やかし半分に俺がそう言った途端、九条は泣き出しそうな顔でうつむいた。

「……そんなこと、ないもん……っ。もし、本当にそうなら、どうして全然、俺にそういうこと、してこないんだよ……っ」

 あ、あ~、ヤバい。これ、地雷だった。もう語尾とか気にしてる場合じゃねえ。

「ちょっ、待った。一旦、落ち着こうか。取り敢えず、ちょっと飯食おう。ほら、年上の彼氏がわざわざ手作り弁当くれるとか、すげー愛されてるじゃん! 普通、そんなことしてくれないぞ! 多分!」

「……多分……」

 涙目でじっとり睨まれ、俺は慌てて話を逸らした。

「え~っと、ほら、あれだ。とにかく、どんな弁当か見てみようぜ! な!」

 九条は納得のいかない面持ちではあるものの、しぶしぶ頷くと、丁寧に弁当を開けた。俺としても、どんな反応をしたらいいのか不安だったが、実際に目にした弁当は普通に称賛に値するものだった。

 ご飯は猫の顔だし、定番のタコさんウインナーがあって、ふわふわの黄色い卵焼きはハートの形だ。他にもポテトサラダとブロッコリーとプチトマト、ミニハンバーグにきんぴらごぼうに漬物も入ってる。しかも小さな別容器には半月形に切ったオレンジと、星形のキウイフルーツが用意されていた。

「おお、すごいな! キャラ弁じゃん! 器用だな。すげー可愛い。お前こういうの好きそうだし。つーか、あの人も本当に猫好きだよな。彩りもいいし、栄養バランス良さそうだし。マジで愛されてんな~」

 くっ……べ、別に、羨ましくなんか、ないんだからねっ。

「それは……そうなんだけどさ」

 せっかくの弁当を前に、九条は沈んだ表情になった。くそう、贅沢な奴だ。羨ましいっ。俺の気も知らず、九条は哀しそうな愛おしそうな、何とも言えない優しい面持ちで言った。

「こういうの、すごく嬉しいし、本当に、すごく、大事にされてるなって思うし、愛されてる……っていうのもわかる、んだけど」

「……だけど?」

「……広瀬さんにとって、俺はちゃんと恋人っていう存在なのか、ちょっと不安になる……っていうか。だって渡してくれるときも何か、お母さんみたい、だったし」

「どこらへんが?」

「……お昼、いつもコンビニとかだと体が心配だからって、すごく真面目に言われた」

 んん? まあ~、そうだな。確かにそれはお母さんぽ……いやいやいや。

「それは、ほらっ、年上だし、純粋に恋人の体が心配だったんだろー? 俺たちはまだ若いけど、向こうは普通に健康のこととか気になっちゃうお年頃なんだよ、きっと!」

 そう、超絶イケメンな見た目はともかく、中身は三十九……いや、四十のおっさんだしな。

「……そう、かな」

「そうそう! 年のせい、年のせい! 手作り弁当にときめきが足りないのは、それだけだって!」

 九条は物言いたげな目で俺を見たものの、取り敢えずは頷いた。

「それはまあ、そうかもしれないけど。普段も広瀬さん、俺のこと甘やかし放題だし。最初は一緒にいられるだけで、本当に幸せで、嬉しくて、ただそれだけだったんだけど……最近、俺、気づいちゃったんだ。広瀬さんの俺の可愛がり方って……猫を可愛がるときと同じなんだよ」

 ……ああ~……それな。知ってた。最初から。つーか、むしろ今まで気づいてなかったとか、どんだけ浮かれてたんだよっていう……いやいやいや。これは黙っとこう。

 友人は軽く絶望感を漂わせながら続けた。

「それに広瀬さん、そもそも人間嫌いだし。俺、人間だし。いつも好きだって言ってくれるけど、俺って実は、人間の皮を被った猫だと思われてるんじゃないかって……」

 ……その見解は、概ね正しい。正しい……が、厳密には正しくない。一体どう説明したらいいか少し悩んだあと、俺は口を開いた。

「前に一度だけ、俺、広瀬さんと二人で話したことあったじゃん」

 瞬間、九条は眼光鋭く俺に目を向けた。

「あったね」

 おおお、まだ根に持ってたのか。マジ怖い。俺はへらっと笑ってやり過ごし、続きを口にした。

「そん時に広瀬さんに聞いたんだよね。人間嫌いなのに、九条はどうして大丈夫なんですかって」

 希望の光を見出そうとするような眼差しを向けてきた九条に、俺は盛大に微笑んだ。

「取り敢えず、人間扱いはしてないって言ってた」

 絶望に染まった友人の顔を見て留飲を下げたあと、俺は優しく付け加えた。

「だってほら、広瀬さん、人間は嫌いだから」

「……え……え……? つまり、どういうこと?」

 混乱している九条に、俺は自分なりの解釈を説明した。

「要するに広瀬さんはさ、猫にも恋ができる人なんだよ。っていうか、そもそもあの人自身、俺は人間じゃないと思ってるし。男とか女とか、猫とか人間とか、普通は気にするそういう概念みたいなものがさ、広瀬さんには関係ないって感じがするんだよね。実際、性別には全くこだわってなかったし。極端な話、これはあくまでも俺の勝手な想像だけど、広瀬さんは本当に猫にも恋ができると思う。でも、猫にエロいことはしないだろうなぁ、とも思う。いくらむっつりでもね。それは猫が望まないからだろうし、広瀬さんも猫との恋にエロの必要性は感じないんじゃないかな」

 九条は戸惑ったように瞬きをした。

「……それはつまり、俺とはエロいことをする必要性を感じないってこと?」

「いやいやいや、それは違うだろ。お前は生物学的にも猫じゃないし、そもそも広瀬さんとエロいことしたいと思ってるわけだし」

 九条の顔が赤く染まった。

「そ、れは、確かに、そう、だけど」

「だろ?」

「だ、だったら、どうして俺と、その……し、してくれないんだよっ」

「それはさぁ、やっぱ本人に聞いてみないと。そもそも、九条はしたいですぅーって言ったわけ?」

 九条の顔がますます赤く染まった。

「言っては……いない、けど」

 まあ、態度で丸わかりだよな。それは俺も理解する。でも、向こうは動かない、と。

「じゃあ、もうこっちから押し倒すくらいの勢いで迫ってみるとか」

「お、押し倒す……」

 さらに具体的な例を出そうとして、俺はふと口を噤んだ。そして改めて素朴な疑問を口にした。

「……つーか普段、どうやって過ごしてんの?」

 誕生日だのクリスマスプレゼントだの、特別な日のノロケ話なんかはよく聞かされるが、いつもどんなふうにしているのかはそんなに聞かない。聞きたくもない。しょっちゅう逢ってるみたいだし、九条が幸せそうにしているだけで、俺としてはもう十分お腹いっぱいな感じだったし。

 そして今、九条がまた頬を染めたのを見ただけで俺は膨満感だったが、奴は構わず嬉し恥ずかしとばかりに語り始めた。

「えっと、最近は俺のアパートで映画とか見るのが多い、かな。最初の頃はサンテグジュペリを連れて外で逢ったり、ペットカフェに行ったりとかしてたんだけど、何か猫が一緒にいるせいか、広瀬さん、よく話しかけられたりして、いろいろ大変になってきたから……」

 ああ……それな。ホントわかりみが深いわ。通りすがりの女の人も、猫がいればそれをダシにして超絶イケメンに話しかけやすいし、しかも一緒にいる九条は男だから、一見して恋人だと思われないし。おまけに九条といるときの広瀬さんはオーラのリミッターが外れやすく、気を抜くとすぐにモブ化の擬態が解けて目立ちやすくなるという、最悪のパターンだ。

「なるほど、じゃあ最近はおうちデートってわけか。だったら、取り敢えず映画を見てるときに、軽く手を握ってみるとか」

「そっか!」

 イメージとしては、並んで座ってテレビを見ながら隣にそっと手を伸ばし、相手の手を軽く握るって感じだろう。よくある初歩的なアドバイスをした俺に、九条は素直に感心したような目を向けた。が、九条はそのまま自分を抱きしめるような格好で首をひねるという、俺にはよく理解できないことをやり始めた。

「こういう感じ、かな」

「……何が?」

「いや、だから、映画を見てるときに広瀬さんの手を握るのって、どうすればいいのかなと思って」

「……何で、広瀬さんの手を握るのに、自分を抱きしめる必要があんの? つーか、どうして広瀬さんの手がそこにあんの? そもそも、お前らどういう格好で映画見てんの? 位置関係は?」

 矢継ぎ早に、且つ加速的に質問した俺に、九条はきょとんとして答えた。

「位置関係は……前後、かな。あ、俺が前ね」

 そんなん聞かなくてもわかるっつーの!

 それから九条はちょっと照れたように付け加えた。

「格好は、その、広瀬さんが後ろから俺に抱き付いてる感じ……かな。何かちょっと、言葉にすると恥ずかしいな……」

 言葉にしなくても恥ずかしいよ。むしろよく言葉にできたな。聞いてるだけで羞恥プレイだよ。いや、質問したのは俺だけどさ。隠し切れない俺の引き具合に気づいたのか、九条はさらに赤くなって言い訳した。

「だって、そのほうが映画を見るの楽しいからって、広瀬さんが!」

 ……うん、それ、楽しいのは映画じゃないよね。というか、映画見てないよね。絶対。俺の冷ややかな眼差しに、九条は慌てて言葉を連ねた。

「いや、だから、ああ見えて、広瀬さん結構、甘えん坊みたいなところがあって、多分、少し疲れてるんだと思うんだけど……ほら、外では全然そんなことしないし!」

 ……それ、日本では外でされたら通報レベルの公害だよ。というか、俺が認識している前提条件からして、明らかに逸脱してるんですけど! 全くエロに移行する気配がないのかと思ってたら、逆に伏線しか張られてないっていう、その状況は何? これはいろいろと問いただす必要がある!

 が、俺はあくまでも冷静を装って尋ねた。

「……いつから、そうやって映画見てんの?」

 九条は再びきょとん顔になった。

「ん? 最初から、だけど」

「ちょっとくっつきすぎだな~とかは、思わなかったんだ」

「最初のころは、すごい、ドキドキするっていうか、恥ずかしかったりしたんだけど、今は安心するって感じかな。一緒になって寝ちゃってるときとか、たまにあるし」

 その時のことを思い出しているのか、九条は優しい眼差しでふふっと笑った。逆に俺は、張り付けた笑顔で、心のこもらない相槌を打った。

「そぉかぁ……安心ね。キスはしたのか?」

 一瞬で発火した九条は、両手で顔を覆って、呟くように白状した。

「……唇は、その、一回だけ。軽く、触れるだけの、一瞬、だけど」

 俺は張り付けた笑みをさらに深めた。

「唇はってことは、他のところにもキスされたんだ?」

「それは、あの、だから、よくされるのは手とか顔……額とか、ほっぺとか、こう、挨拶みたいな感じで軽く……」

「よくされるんだ?」

「え、うん、割と……」

「他には?」

「他のは何ていうか、カウントされない感じのヤツで、偶然、たまたま、ちょっと触れちゃっただけっていうか、キスのうちには入らないっていうか……」

「具体的には?」

「いや、だから、その、映画を見てるときに、広瀬さん寝ちゃって、起きたときにたまたま、唇が耳に当たったとか、ちょっとこう、寝ぼけてて、ぎゅっとしたときに唇が首筋に触れたとか、ただそれだけの、事故みたいなっていうか、事故、なんだけど……」

 上気した頬でわたわたと恋人を擁護している友人を眺めながら、俺は思った。

 ……こいつ、馬鹿なの? お馬鹿さんなの? いや、うん。知ってた! 知ってたよ! こいつ、広瀬さん関係のことになると、信じられないくらい、超絶バカになるんだよ!

 俺は淡々と九条に尋ねた。

「お前さ、いくらそのほうが映画を見るの楽しいからって言われても、俺とその格好で座るの嫌だろ?」

 その瞬間、カチッと音がするくらいの切り替えで、九条の顔が通常モードに変化した。

「うん、無理」

「そうか、よかった。俺も無理だわ。ということで……ちったぁ気づけよ! それ全部、恋人同士じゃなかったら、セクハラで訴えられるレベルのスキンシップだよ! つーか、どこが猫扱いなんだ! 滅茶苦茶イチャイチャしてんじゃねーか!」

「イチャ……っしてないし!」

「してるだろーっ? 密室に二人きりで、二時間近く抱き付いたまま、顔中キスしてくる奴の、一体どこが猫扱いなんだよ!」

「そ、れは、中井の言い方がエロいだけじゃん! やってることは、猫にしてるのと一緒だもん! 猫だって膝に抱っこして、顔にキスしたりするじゃん!」

「馬鹿かーっ、お前は! 猫にキスするのと、人間にキスするのじゃ、全然意味が違うだろーがっ。大体、あの人は服の上からでも、人間に触られるのが嫌いな人なんだぞ! 仕事中で、完璧に擬態してても、客からの接触を全力で避ける徹底ぶりなんだぞ! そもそも、一般的に手を繋ぐのがレベル1だとしても、お前らとっくにレベル3くらいは行ってるっつーの!」

「レベル3……」

「レベル3どころか、もっと上に進む気満々だし。お前が気づいてないだけで、マジでいろいろやられちゃってるじゃねーか! 勝手に経験値上げられて、安心とかしてんじゃねえ! 少しずつ慣れさせて、お前にエロ耐性つけてるだけだろーがっ。いきなり襲ってビビらせねぇように、洗脳してんだよ! 完全に喰う気しかねえし! 逆に少しは危機感を持てって言いたいぐらいだよ! 甘えん坊とか、疲れてるとか、お前の頭はお花畑か!」

「……それじゃあ、本当に俺、広瀬さんに恋人だって思われてる?」

「思われてるし、あっちのほうがよっぽどエロスケベだよ」

 そして俺はもう一つの可能性に気づき、ハッとなった。

「もしくはあれだ。焦らして焦らして、お前のほうからしたいって言わせたいとか……責任逃れだな」

「ちょっ、中井の中で、広瀬さんはどんだけ酷い人なんだよ!」

 俺はへらっと笑って肩を竦めてみせた。

「まあまあ、それは冗談として。焦らす理由は責任逃れより、単に恥ずかしそうに誘ってくるお前が見たいっていうほうが納得はするかな」

「変態か!」

「変態っぽくはあるよな」

「…………」

「否定はしないんだな」

 ぐっと言葉に詰まった九条に、俺は笑って言った。

「まあ、いいんじゃねぇの? 広瀬さんがどういうつもりかは知らないけど、お前が自分の気持ちをちゃんと伝えるのはいいことだと思うぜ。確かに広瀬さんはすげー空気読む人だけど、あの人にだって、口に出さないとわからないことだってあるだろ。お前だって、広瀬さんがどうしたいのかわからないわけだし。そこんとこも、ちゃんと聞いてみろよ。お前から誘われたいってんなら、誘ってやればいいし」

「な、中井のバカっ」

「それか、本当に天然でやってるって可能性も、あの人の場合は捨てきれないからな~」

「そ、それは、ある」

「じゃ、そういうことで、よろしいですか?」

「は、はい……」

 ようやく恋人の手作り弁当を嬉しそうに食べだした友人を眺めながら、俺はため息をついた。本当に世話の焼ける奴だ。デザートでも食べて、少しは自分をねぎらってやらねーと。この時期はチョコレートを使ったものが多く出回るから、甘党の俺にはかなり嬉しいんだよな。

 見た目も綺麗なコンビニの新作スイーツを美味しくいただいたあと、俺は改めて九条に聞いた。

「取り敢えず、もうすぐバレンタインだけど、何か予定とか入れてんのか?」

 途端に九条がパッと顔を明るくする。

「うん! 広瀬さん、その日は仕事休みだから、ずっと一緒にいられるって! 俺もバイトは休みにしたし、大学も午前中で終わるし! いつも広瀬さんに作ってもらってばかりだから、その日のお昼ご飯は俺が作ろうと思って、今すごい練習してるとこ!」

 おお、すげーやる気じゃん。さっきまでため息製造機と化していた奴の言葉とは思えん。まさか、こやつ……。

「その昼飯に、何かイカガワシイ薬でも一服盛ろうとか、考えてたわけじゃ……」

「そっ、イカガワシイ薬ってなんだよ! そんなこと考えてないし! 大体、どうやって手に入れるのかもわからないし!」

「いやいや、今はネットで何でも買えちゃうわけだし」

「そうだとしても! そんな胡散臭いもの、広瀬さんに食べさせるなんて絶対しないし!」

「……まあ、そうだな。となると、せいぜい美味しい料理で胃袋をつかんじゃうゾ! とか、そんな感じか? ついでにあわよくば、あれやこれやつかんだり、つかまれたりする関係になりたいと……」

「中井、下品!」

「えっ……そんな下心は一切ないと?」

「……なくはない、けど」

 ま、そうだよな。だって男の子だもん! ってか? だがまあ、一応いろいろ考えてはいたようで、何だか安心した。

「まあ、頑張れ。適当にな」

「うん、頑張る!」

 ……そしてその会話から約二週間後のバレンタイン翌日、友人が大学を休んだ。嫌な予感がしていたら、案の定、的中した。

 いや、幸せそうで何より、ってとこか?

 ちなみに俺としては、バレンタインの日にあった出来事を詳しく知るつもりはない。断固拒絶する。

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