第3話 九条くんと誕生日の話

 最近、友人の眼差しが冷たい。

 時に涼やかというか、時に凍りつきそうというか。

 まるで俺を嫌っているようにも見えるが、そんなことはない。

 反対に面倒見が良すぎて、もはや俺の保護者のようだ。これは絶対に秘密だが、俺は時々、心の中で中井のことをお父さんと呼んでいる。

 実際、中井が冷ややかな目を向けているのは俺ではなく、俺の話だ。それと、俺の浮かれた態度。

 自分でも、さすがに少しは自重しないといけないのはわかっている。わかってはいるけれど、どうにもならない。きっと、半分くらい体が浮いている。それくらい足元がふわふわしている自覚はある。

 生まれて初めて恋人ができて、まだ一ヶ月も経っていないのだから、少しは大目に見てほしい。とはいえ、すでにいろいろと心配やら迷惑やらかけているから、あの氷のような眼差しも理解はできる。むしろ俺が広瀬さんとうまくいったのは中井のおかげだから、本当に感謝しかない。

 そして実は、俺がここまで浮かれてしまっている理由はもう一つある。広瀬さんの誕生日がもうすぐだと知ってしまったからだ。当然、お祝いしたい。プレゼントを贈って、特別な時間を一緒に過ごしたい。

 けれど広瀬さんに、プレゼントはいらないと先に言われてしまった。付き合って間もないのに、誕生日だからという理由だけでプレゼントはもらえない、ということだった。


                *


「……で、何があったんだ?」

 中井は本当に面倒見がいい。口では面倒臭いと言いながらも、いつも俺の様子を気にかけてくれる。昼休みにご飯を食べながら、広瀬さんのことを中井に相談する、というのが俺の定番になりつつあった。十二月に入って少し肌寒くなったこともあり、学食の隅の席で鍋焼きうどんを啜りながら、中井が口を開いた。

「お前さぁ、浮かれてるのは相変わらずだけど、何か最近、ちょっとテンションがおかしくねえ? うまく言葉にできねーけど、時々すげー落ち込んでるみたいな、思い詰めてるみたいな、よくわかんねーけどこう、見てて不安になるような感じがするんだよな」

 あまりにも的確な表現に、俺は改めて中井のことを見直した。わかっていても、自分一人ではどうにもならないこの気持ちを、中井なら一緒に整理してくれる気がする。思わず涙目になった俺に、中井がうぇっと声を上げた。口が悪いのも、中井のいいところだ。

「……あ~もう、泣くな。取り敢えず話してみろ」

 やれやれといった感じの中井に、俺はぽつりぽつりと話しはじめた。

「……広瀬さんの誕生日なんだけど、プレゼントはいらないって言われちゃって」

「ん~あ~……、それな。前にも言ったし、お前もわかってると思うけど、割と妥当な話というか、むしろ良心的というか。まあ、わかってんだろーけど」

 大方の予想はついていたらしく、中井はやんわりと俺を諭した。

「別にお前らがどうこうってわけじゃなくて、どんなカップルでもいつ何が起きるかわかんねーわけだし。来年の誕生日は楽しみにしてるからって、そう言ってくれたんだろ?」

「うん……」

「目先のことより、来年もその先も、ずっと一緒にいたいって思ってくれてるとか、めちゃくちゃ愛されてるじゃん。それに今年の誕生日だって、一緒に過ごす約束はしてるんだろ?」

「そうだけど! 食事をご馳走するのもダメだって。でもそれじゃあ、いつものデートと同じじゃん! せっかく誕生日なのに! 俺だってお祝いしたいのに!」

「あ~、まあ、そうなんだろうけど。お前に負担をかけたくないんだろ。というか、向こうの立場から考えたらさ、本当は普段のデートでも割り勘じゃなくて自分が払いたいんだろうけど、働き始めたばかりだからできないのを不甲斐なく思ってるとか、いろいろあるんじゃねーの? いくら男同士でも、年齢的にはあっちのほうがずっと年上だし、お前はまだ大学生だし」

「…………」

 わかっている。本当はちゃんとわかっている。中井がさっき口にした広瀬さんの気持ちも、そんな素振りは全く見せないけれど、俺は気づいている。というか、普段のデートのことならば、俺はむしろ今まで通り自分の分は自分で払うスタイルのままがいいと思っている。俺は広瀬さんと対等でいたいから。

 もちろん、広瀬さんの気持ちもわかる。いくらすごいイケメンで三十歳くらいにしか見えなくても、広瀬さんは今度の誕生日で四十歳になる。少し前まで無職だったことを気にしているのも知っている。年齢的にも金銭的にも、更には人間嫌いだとか人間嫌いだとか人間嫌いだとか、多少癖のある性格その他諸々全てをひっくるめて、俺に引け目を感じていることも。

 けれど俺はそんなことは気にしていないし、そもそも気にしていたら広瀬さんのことを好きになったりしていない。実際、そのことは広瀬さんもわかっているのだけれど、理屈だけでは気持ちを変えることはできないのだろう。

 大体、引け目なら俺だって感じている。はっきり言って、広瀬さんはとにかく本当にものすごくモテる。広瀬さんの働いている喫茶店に女性の常連客が多いのは、一新したメニューのせいだけではない。そのことは喫茶店に行ったことのある人ならば誰でも知っているし、納得する。おかげで、ただでさえ自分に自信がない俺は、広瀬さんの隣にいてもいいのか、時々不安になってしまう。

 結局、俺たちの面倒臭いところは、互いに互いのことを理屈では理解していながら、感情では納得できていないことだ。

「……全部、全部わかってるよ! 中井の言ってることは正しいし、広瀬さんが俺のためを想ってくれていることも、ちゃんとわかってる! これは俺の我儘だって。でも、俺だって広瀬さんの誕生日を祝いたい。恋人なのに、どうして何もしちゃいけないんだよ……っ」

 誕生日に一緒に過ごせるだけで、本当はすごく幸せなことのはずなのに、どうして俺は満足できないんだろう。互いに互いを想い合っているはずなのに、どうしてこんなにもどかしいんだろう。傍から見たら、くだらないことで悩んでいると思うに違いない。きっと何年か経ったら、どうして自分がこんなことで悩んでいたのか笑ってしまうに違いない。それでも今、俺は自分のこの気持ちをどうしたらいいのかわからないでいた。

 中井は項垂れた俺をしばらく眺めたあと、軽く肩をすくめて言った。

「まあ、お前の我儘だっていうんなら、別にそれでいいんじゃねえ? そもそもお前は我儘を言わなさすぎだろ。我儘にしてはちょっとベクトルがおかしいっちゃおかしいけど、逆にお前らしいっつーか。好きなようにしたらいいじゃん」

「……へ?」

 一瞬、何を言われたのか理解できずに、俺は中井の顔をまじまじと見つめた。

「好きなように……してもいいと思う?」

 中井は俺の問いをハッと鼻で笑い飛ばした。

「お前はちょっと思い詰めすぎなんだよ。恋人の誕生日を祝って何が悪い。誰かに迷惑をかけるわけじゃねーし、別にいいだろ。ま、俺はそんな焦んなくても、お前の誕生日のときにプレゼントを交換するとかでも、十分間に合うと思うけどな。お前は今、ちゃんとお祝いしたいんだろ。だったらその気持ちを大切にしろよ」

「中井……」

 と、真面目な顔から一転、中井はニヤニヤ笑って言った。

「まぁ~、それに実際? 今のうちにやっとかないと、来年までお前と広瀬さんが恋人のままか、わっかんねーしなっ」

 挑発的にからかう中井に、俺は反射的に言い返した。

「わかるし! 来年もその先もずっと、広瀬さんの誕生日をお祝いするのは俺だし!」

「ハイハイ、そりゃよかった」

 むぅ~と俺が唸っていると、中井は不意に真面目な顔に戻って付け加えた。

「ま、でも程々にしとけよ。多分、広瀬さんにとって本当に嬉しいのは、お前と一緒に誕生日を過ごすことなんじゃねーかなって思うからさ。あくまでも俺の勝手な想像だけど」

 俺は思わず、うっと声を詰まらせた。中井は本当に、時々ずるいことを言うよな~と改めて思う。そこが中井のいいところでもあるんだけど。

 とはいえ、俺はちょっと心配になり、呟いた。

「勝手なことして、広瀬さん、怒らないかな」

「ちょっとしたプレゼントくらいなら、かえって喜んでくれるんじゃないか? やり過ぎはよくないだろうけど。そもそもあの人、お前のことになるとホント甘々じゃん」

「そう、かな」

 本気で照れていいのか、半信半疑の俺に、中井は続けた。

「まあ、それでも心配なら一つ魔法の言葉を教えてやんよ」

「え……」

 胡散臭そうな顔をした俺に、中井はドヤ顔で言った。

「まあまあ、一応聞いとけよ。試すかどうかはお前の自由だし。保険みたいなモンだ」

「保険……」

「そうそう、保険保険。で、それでも気に入らない顔になったら言ってやれ。恋人の誕生日を祝って何が悪いってさ」

「な、なるほど」

 こうして俺は中井に背中を押してもらい、半ば無理やり伝授された魔法の言葉を胸に、広瀬さんの誕生日に向けて準備を始めた。


                *


 広瀬さんの誕生日デート当日、平日だったので俺は大学の講義を受けてから待ち合わせ場所に向かっていた。広瀬さんも喫茶店での仕事を夕方の早上がりにしてくれたから、いつもより少し早く逢える。

 俺は鞄の中にあるプレゼントの存在を確かめるように、肩紐をぎゅっと握りしめた。大丈夫、大丈夫。きっと喜んでくれる。喜んでくれる、はずだ。

 駅前の小さな広場にある隅のベンチ、そこが俺たちの待ち合わせ場所だった。誰も座っていないベンチを遠目から確認すると、いつも不安と安堵が入り混じった気持ちが沸き上がる。広瀬さんより先に着いたという安堵と、広瀬さんがまだ来ていないという不安の、矛盾した感情だ。

 結局、この日は俺がベンチに座って間もなく、広瀬さんが広場を抜けてやってくるのが目に入った。嬉しさと安堵で、思い切り顔が綻んでしまうのが止められない。それでも実際、待ち合わせの時間にはまだ早いのだから、自分でも広瀬さんのことが好きすぎて怖いくらいだ。

 と同時に、周囲の視線が広瀬さんに集まるのを感じ、俺は居ても立っても居られない気分になった。迂闊にも中井に言われるまで気づきもしなかったのだが、広瀬さんはとにかくオンとオフの差が激しい。

 俺が最初に逢って好きになったのは、いわゆるオフの広瀬さんだ。傍から見るとコミュ障の陰キャで、モブのような存在感しかないらしい。けれど喫茶店で働いているときの広瀬さんは完全にスイッチが入っていて、喋り方も笑顔も完璧な接客で、何よりもすごく目立つ。ただでさえイケメンでイケボでそこにいるだけで人目を引くのに、中井が言うにはオーラが駄々洩れで存在感が半端ないらしい。

 らしい、というのは俺にはその差がわからないからだ。基本、俺には広瀬さんがいつでもどこでも光輝いて見えるので、存在感の違いを感知できない。もちろん、オンとオフで広瀬さんの喋り方や表情が全く違うことくらいはわかっている。

 俺と一緒にいるときの広瀬さんは一見無口で無表情だから、本来ならオフのはずなのに、中井によると時々リミッターが外れて、オーラが駄々洩れになっているらしい。最初は中井の言っている意味がわからなかったけれど、最近は周囲の様子を見ることで俺にも少しずつ気づけるようになっていた。

 俺といるのが嬉しくて気が緩んでいる、という中井の見解を鵜呑みにすれば、俺としてもつい喜んでしまいそうなところだったけれど、実際に人の多い場所で自分の恋人が注目されていると、何だかもやもやしてしまうことのほうが多かった。

「ひ、広瀬さん!」

 俺は慌てて駆け寄ると、広瀬さんに声をひそめて囁いた。

「あの、リミッター……? が、外れてるみたい、です……」

 自分でも何を言っているのかわからなくて、恥ずかしい。が、広瀬さんには伝わったようで、瞬きを一つすると、すぐに小さく頷いた。

「ごめん。ありがとう。気を付ける」

「はい。あ、いえ……」

 おろおろしてしまった俺に、広瀬さんは僅かに微笑んだ。

「今日はどこ行くの?」

 オーラとか存在感だとかはわからないけれど、広瀬さんの微笑みは俺にとってはいつでもすごい威力がある。どうしようもなく頬が染まってしまうのを感じながら、俺は言った。

「あ、えと、イルミネーションが見たいって広瀬さん言ってたから、そういうイベントをやっている公園に行こうかと思って。ただ、何駅か電車に乗るんですけど……大丈夫ですか?」

 人間嫌いの広瀬さんは、人混みも当然苦手だ。俺が心配していると、広瀬さんは頷いた。

「大丈夫。九条くんもいるし」

 広瀬さんは基本、常に無自覚に俺を口説いてくるから、本当に油断ならない。咳払いなんかでは誤魔化せないのを知りつつも、俺は何とか態勢を整えた。

「そ、それじゃあ行きましょう」

「ん」

 広場を抜け、駅の改札に着くころには、周囲の広瀬さんに対する注目は嘘のように消えていた。相変わらず俺にはまだよくわからない現象ではあったけれど、とにかくホッとしてホームに向かった。

 いつもは二人で話し合って行くところを決めたりしていたけれど、今日のデートプランは俺に任されていたから、最初からすごく気を張っていた。せっかくの誕生日なんだから、広瀬さんにはとにかく楽しんでもらいたい。元々お祝いらしいことは何もできないことを前提にして立てたプランで、それでも喜んでもらえるように精一杯考えてきた。俺はちゃんと広瀬さんを案内できるよう、リサーチしてきたお店や公園への道筋を懸命に頭の中で復習していた。

 夕方で帰宅時間に差し掛かっているせいか、電車は思ったより混んでいた。俺は心配になって広瀬さんを見たけれど、大丈夫そうだったので少し安心した。けれどこの油断がまずかった。

 特に問題なく次の駅に停まり、乗客の入れ替えがあったのは知っていた。元気な子供の声が近くで聞こえるようになったことにも、気づいていた。けれど広瀬さんの様子が辛そうなことに気づいたのは、しばらく経ってからのことだった。

 何度か駅に停まり、降りる一つ前の駅に着いた。俺は隣の広瀬さんに次で降りることを告げようと見上げ、初めてそのことに気がついた。顔色がひどく悪い。鉄壁のような無表情が崩れ、虚ろでありながら険しい眼差しになっている。こんな広瀬さんは初めてだ。見ると、何かに耐えるように唇が引き結ばれ、拳がきつく握られていた。

「広瀬さん、あの……」

 具合が悪そうだから降りましょう、と俺が言いかけたとき、電車のドアが閉まったのがわかった。

「あ……っ」

 多分、俺はすごく不安そうな顔をしていたのだろう。本当に辛いのは広瀬さんのはずなのに、俺に向かって僅かに引きつった微笑みを向けてくれた。

「……次、降りますから」

「ん」

 一駅がこんなに長いと感じたのは初めてだ。俺は人がたくさんいるのも構わず、広瀬さんの固く握られた拳にそっと手を触れた。ひどく冷たい。微かに震えている。

 目的の駅に停車すると、俺は硬直している広瀬さんの手を引いて電車から降りた。ホームは俺たちと同じようにイルミネーション目当ての人が多く降りたようで、かなり混雑していた。俺はできるだけ人混みを避け、広瀬さんをベンチへと連れて行った。

「すみません。俺がもっと早く気づいていれば……」

 せっかくの誕生日なのに、広瀬さんにこんな辛い思いをさせてしまったことが悔しい。すぐに気づけなかった自分にも腹が立つ。結局、俺は広瀬さんをお祝いしたいと言いながら、最初から自分のことしか考えていなかったことに、ようやく気づいた。

 ベンチに座らせた広瀬さんの手は、いまだに固く握り締められたままだ。血の気が引いて白くなっている手にできるだけ優しく触れ、俺は広瀬さんの強張った指を少しずつ、ゆっくりと丁寧に解いていった。けれどようやく広がった手のひらには、食い込んだ爪痕が痛々しく残っていた。仕事柄、いつも爪の手入れをしていることもあり、血こそ出ていなかったものの、しばらく鬱血した痕が残りそうだった。

 泣いたりしたらダメだとわかっているのに、広瀬さんの強張った手をさすりながら、俺は涙がこぼれてしまうのを止められなかった。

「すみ、すみません。俺……」

 本当に最悪だ。広瀬さんと出逢う前の自分に戻ってしまったようで、嫌いだ。

 不意に、深いため息が耳に入り、俺は冷ややかな衝撃とともに身を竦ませた。

 嫌われた。

 思わず広瀬さんに触れていた手を引こうとしたとき、反対にきゅっと握り締められた。

「……広瀬、さん……?」

 恐る恐る顔を上げると、広瀬さんは俺の手を握り締めたまま、深く頭を垂れていた。

「……そうじゃ、なくて」

「……? えっと……」

 沈黙が続き、どういうことなのか俺が聞こうとしたとき、広瀬さんがようやく少しだけ顔を上げた。けれどすぐにうつむき、俺の手を離すと、ベンチに座ったまま俺に向かって手を広げた。

「ちょっとだけ、甘えさせて」

「え、あの……」

 思わず周囲を見回し、近くに誰もいないことを確かめると、俺は躊躇いつつもそばに寄り、ぎこちない動きで広瀬さんを抱きしめた。広瀬さんの腕が背中に軽く回されるのを感じながら、俺はしばらくその温かさに包まれていた。

 少しして名残惜しくも優しい拘束を解かれると、広瀬さんは俺の涙を指で拭ってくれた。そしてもう一度ため息をつくと、言った。

「……君に、言わないといけないことがあって」

「……はい」

「実は……」

「…………実は?」

 覚悟を決めるように唇を引き結んだあと、広瀬さんはようやくそれを口にした。

「……実は俺、子供が嫌いなんだ」

 悲壮な決意すら感じさせる面持ちで告げられた言葉を耳にし、俺は瞬きを一つした。

「子供が……」

「……すごく、嫌いなんだ」

 そういえば、電車に乗っている途中から、近くで元気な子供の声がしているな、とは思っていた。俺の立っている位置からはよく見えなかったが、確かに広瀬さんの向こうから聞こえていた気はする。

「……なるほど」

 広瀬さんが辛そうだった原因について一応の理解はしたものの、俺が不思議に思ったのは、それを告げるときのひどく言いにくそうな表情だった。俺は広瀬さんの人間嫌いも知っているし、受け入れている。どうして今更そんな不安な顔をするのだろう。まるで子供嫌いのことを知られたら、俺に嫌われるとでも思っているような反応だ。いつもの飄々とした広瀬さんはどこに行ったんだろう。

「……ごめん。やっぱり、子供が嫌いなんて、最悪だよな」

 初めて聞く広瀬さんの自嘲するような声に驚き、俺は慌ててその手に触れた。ハッと顔を上げた広瀬さんの目を真っすぐ見ながら、俺は言った。

「俺は、そんなことくらいであなたを嫌いになったりしません」

 広瀬さんはびっくりしたように目を見開き、けれどすぐ躊躇うように視線を落とした。

「……いや、でも……」

「子供が嫌いな人なんて、世の中にはたくさんいますよ。広瀬さんだけじゃありません」

「それは、そうだけど。知らない人ならともかく、自分の恋人は子供が好きなほうが……」

「俺は、広瀬さんが子供好きじゃなくてよかったと思ってます」

 珍しく遮るように告げた俺の言葉に、今度こそ広瀬さんは驚いた顔を向けた。

「それは、どういう……」

「そのままの意味です。あっ、でも、広瀬さんが辛い思いをするのは嫌です。ただ、そうじゃなくて、その……俺は自分勝手なんです」

 恥ずかしさから、俺は頬が染まるのを感じたけれど、構わずに続けた。

「広瀬さんが子供好きだったら、いつか、自分の子供が欲しくなるかもしれない。でも、俺は広瀬さんと子供は作れないから……。だから、俺はそのままの広瀬さんがいいんです!」

 まだ、キスらしいキスもしていないのに、こんなことを口にするのは恥ずかしすぎたけれど、これは俺の本音だ。広瀬さんは男同士であることを全く気にしていないようだけれど、俺はやっぱり気になるし、不安にもなる。俺は火照った顔のまま、勢い任せに今まで溜め込んでいたことをぶちまけた。

「大体、人間嫌いで動物好きなら、子供も好きだって普通に思うじゃないですか! でも、それは嫌だなって思う自分が嫌で、だけどいろいろ考えちゃって、そもそも来年の誕生日だって一緒に過ごせるのか不安なのに、いつも俺だけ、俺ばっかり広瀬さんのこと好きみたいで……っ」

 自分でも何を言っているのかわからなくなったとき、俺はベンチから立ち上がった広瀬さんに抱きしめられていた。

「……ありがとう。こんな俺を好きでいてくれて、本当にありがとう」

「────本当に、ずるいです……」

「ん」

 いつも通りに戻った広瀬さんの無表情に安堵しながらも、俺はまだちょっと不貞腐れて言った。

「そもそも、人間嫌いも子供嫌いもあまり変わりないし、それくらいで俺が広瀬さんのこと嫌いになると思うとか、信用なさすぎです。……誰かに何か言われたんですか?」

 ずっと気になっていた問いをじっとりと投げかけると、広瀬さんは瞬きを一つし、淡々と答えた。

「……母が、以前から俺のこの性質を非常に疎ましく思っていて」

 俺が秘かに懸念していたように、広瀬さんに影響を与えていたのは女性だった。が、方向性が全く違うだけでなく、深く重い確執があることを察知した俺は、背中に冷や汗が流れるのを感じた。少なくとも今、俺が安易に踏み込んでいい話題ではなかった。

「すみ、ません。ちょっと、無神経でした」

「大丈夫。むしろごめん」

 その時、間もなく電車が到着するというアナウンスがホームに流れた。俺が見上げると、広瀬さんが小さく微笑む。

「行く?」

「はい」

 ホームから階段に向かって歩きながら、俺は改めて思った。周りに人がいなくて、本当に良かった。公共の場で、いろいろと恥ずかしすぎる。広瀬さんは意外と人の目を気にしないが、俺は小市民のくせに無駄に自意識過剰だからだ。

 が、今はそれよりもっと気になることがある。俺は階段を上がりながら、広瀬さんの横顔をちらりと探るように見ると、意を決して尋ねた。

「あの、参考までに知りたいんですけど」

「うん」

「子供の、どんなところが嫌なんですか?」

 いくらさりげなく振舞ったつもりでも、俺が広瀬さんに嫌われないようリサーチしていることはきっと筒抜けだろう。第一、広瀬さんにとっては嫌な話題かもしれない。それでも俺は知りたかった。

 けれど広瀬さんは特に気にした様子もなく答えた。

「すごく、人間らしいよね」

「人間、らしい……」

 人間らしい、とは一体……?

 ある意味、非常に哲学的な回答に戸惑い、俺は一瞬、思考が停止した。そういえば以前、広瀬さんとしばらく二人で話していた中井が言っていた。広瀬さんの感覚は一般のそれと違うから、注意しろと。

 だがまあ、広瀬さんの子供嫌いも、根底は人間が嫌いなことと同じ、という解釈で取り敢えずはいいようだ。俺としては、人間でも子供のほうが大人より動物っぽい感じがするけれど、広瀬さんにとってはそうではない、ということなのだろう。

 俺は何とか気を取り直し、質問を続けた。

「えっと、具体的にどういうところが人間らしいんですか?」

「挙動不審で、いきなり何をするかわからない。声が大きい。無遠慮で、無邪気で、無神経で、根拠のない自信に満ちあふれているところが幸せそうだと羨ましくもあり、ものすごく苦手だ」

「な、なるほど」

 いつになく饒舌な広瀬さんに戸惑いつつも、俺は取り敢えず頷いた。そしてすぐ、全てではないが、以前どこかで似たような情報を見たことがあると思い当たり、何故か妙に納得してしまった。

 と同時に、笑みがこぼれてしまう。

「何かそれって……猫みたいですね」

「……ん?」

 俺の感想が意外だったのか、広瀬さんは無表情のまま首を傾げた。そういう無意識の仕草とかを見ると、時々、広瀬さんの中身は本当は猫なんじゃないかと本気で信じてしまいそうになる。

「前にネットで見たんですけど。それって何か、猫にとって苦手な人の特徴に似ている気がします。いきなり何をするかわからないところとか、声が大きいところとか。子供が苦手な猫も多いみたいですし、同じですね」

 蒼白な顔で硬直していたさっきの広瀬さんの様子も、そう考えると少しだけ深刻さが薄れ、むしろ可愛く感じられるから不思議なものだ。ふふっと思わず笑ってしまったあと、俺は慌てて言い訳した。

「いや、あの、面白かったとか、そういうわけではなくてですね……」

 その時、俺をまじまじと見つめている広瀬さんの顔が紅に染まっていることに気づき、言葉を見失った。瞬間、広瀬さんはさっと手で顔を覆うと、ぷいっと横を向いて言った。

「……九条くん、本当にそういうところ、ずるい」

 いやいやいや、あなたのそういうところのほうが、ずっと、何倍もずるいです! と思ったけれど、結局それは舌先まで出たところで、呑み込んだ。その代わり、意趣返しのつもりも込めて畳み掛けた。

「俺にとって広瀬さんは、猫の王様ですから」

 多分、敢えて自信たっぷりに口にした俺も、自分で思うより恥ずかしさで頬が染まっている。あ~もうっ、ホントしくじった! これじゃ意趣返しになってない! むしろ自滅、いや自爆だ! 動揺しすぎて言葉選びを間違えた! 変なこと考えて、妙なこと口走った! 一体何の羞恥プレイだよ!

 結局、改札を抜け、外の夕闇に包まれるまで、俺たちは互いの顔を見なかった。


                *


 駅の外に出ると、人通りの邪魔にならない隅に寄り、俺は周囲の様子を確認した。夕暮れの薄闇に沈む街並みが影絵のように浮かび上がり、クリスマス仕様に飾り付けられた灯りで鮮やかに彩られている。駅前は小さなロータリーになっていて、ぐるりと迂回すると桜の並木道が真っすぐ伸びていた。事前にマップで調べた通りだ。これなら迷わずに広瀬さんを案内できるだろう。

「公園は十五分くらい歩いたところにあるみたいなんですけど、途中で食事をしてから行こうと思って。夕飯には少し早いですけど、大丈夫ですか?」

「ん。お腹空いてるから大丈夫」

 俺はほっとして続けた。

「えっと、それじゃ何が食べたいですか? 一応、いろいろ調べてはきたんですけど。イタリアンとか、中華とか、洋食とか。和食はちょっと遠回りになるんですけど。あ、もちろん、歩きながら適当に決めても、全然構いません」

「九条くんのお勧めはどこ?」

 思わず口を開きかけたあと、瞬きを一つし、俺は広瀬さんを軽く睨んだ。今まで何度もこの手口で流されてしまったけれど、今日はそうはいかない。

「俺は、広瀬さんが食べたいものを聞いてるんですけど」

 しかめっ面の俺に、広瀬さんは無表情のまま首を傾げてみせた。口に出して言ったことはないけれど、俺は広瀬さんのこの仕草が妙に好きだ。年上の男性には失礼かもしれないが、猫みたいで可愛いと思っている。そしてそのことを、広瀬さんは絶対に気づいている。さっきはともかく、今回のようにここぞという場面で必ずこの仕草をするのはそのせいだ。つまりあざとい。だが、あざといは可愛い。そして可愛いは正義だ。

 結局、俺の作ったしかめっ面は呆気なくふにゃふにゃと崩れ去った。

「俺は、九条くんが食べたいものが食べたい」

 追い打ちをかけるように決定打を持ってくるあたり、絶対にわかっていてやっている。とはいえ、恋人に甘やかされて嬉しくないわけがない。多分、俺は一生、広瀬さんには敵わない。俺はあえなく白旗を上げた。

「……洋食屋さんが、ちょっと有名な老舗みたいで。店内もレトロな雰囲気で素敵みたいです……」

「じゃあ、そこに行きたい」

 細かいことではあるけれど、行こう、じゃなくて、行きたい、と言うところがまた心憎い。行きたいと思っているのが俺じゃなく、広瀬さんみたいになるからだ。いや、俺が行きたいところに行きたいと最初から言っているのだから、それはそれで決して間違いではないのだけれど!

 ちょっとだけ文句を言いたげな面持ちになった俺に気づくと、広瀬さんは言った。

「春になったら、桜を見にまたここに来たいな」

「…………」

 話を逸らそうとしてもダメです、と澄ました顔で聞き流そうとしたけれど、当然のごとく失敗した。ので、いっそのこと思い切り破顔すると、俺は悪戯っぽく反撃した。

「じゃあ、その時は広瀬さんが食べたいものが食べたいです」

「ん、わかった」

「約束ですからね」

「約束」

 そう言うと、広瀬さんが俺のすぐ横に並んだ。瞬間、するりと俺の小指に広瀬さんの小指が絡まる。

「ふやっ!?」

 驚いて変な声が出てしまった俺に、広瀬さんはちらりと悪戯な眼差しを向けた。

「誰も見てないから大丈夫。洋食屋さん、連れてって」

 猫が喉を鳴らすような低い声で囁かれ、俺はちょっとだけ膨れつつも、小指に軽く力を込めてみせた。

「お店に着くまでですよ」

「ん」

 広瀬さんは俺を甘やかすのも上手だが、俺に甘えるのも上手だ。どちらにしろ心臓には悪いが、俺はくすぐったいような気持ちで洋食屋さんまでの道程を歩いた。


                *


 洋食屋さんは人気店だったにもかかわらず、夕飯にはまだ少し早い時間だったおかげで、すぐ席に座ることができた。お店の外見も内装も、写真で見たよりレトロで暖かい雰囲気だ。クリスマスの飾りつけもさりげなく、落ち着いた感じが素敵だった。

「ここの雰囲気、すごく好き」

「初めて来たのに、居心地がいいですよね」

 取り敢えず広瀬さんが気に入ってくれたようで、俺はほっとした。喫茶店で働いているせいか、広瀬さんは飲食店に入ると、俺が気づかないようなことまでよく見ている。メニューやサービス、店内の小物なども参考にして、取り入れたりしているらしい。

「九条くんは何にするの?」

「俺はグラタンにします。広瀬さんは?」

「俺はビーフシチュー」

 店員さんを呼んで注文を済ませると、しばらくして広瀬さんが口を開いた。

「クリスマス、一緒に過ごせなくてごめん」

「お店、忙しそうですもんね。俺は大丈夫ですから、気にしないでください」

 そして少し躊躇ってから、俺は続けた。

「クリスマスより、俺は今日、広瀬さんと一緒にいられることのほうが嬉しいです。みんなにとっては特別な日じゃないかもしれないけど、俺にとっては本当に大切な日だから」

 広瀬さんは瞬きを一つし、恐らく真っ赤になっているだろう俺に微笑んだ。

「……俺にとっても、特別な日じゃなかった」

「……え?」

「今までは」

 ただ優しいだけじゃない、何とも言えない眼差しに、俺は言葉を失った。切なくて、愛おしくて、胸が締め付けられそうになる。

 そんな俺を見て、広瀬さんは小さく笑った。

「君に逢えてよかった。今日が俺にとっても特別な日になったのは、君のおかげだ。ありがとう」

 自分の誕生日のことを、そんな風に言わないでほしい。大好きなはずの広瀬さんの微笑みが、見ているだけで哀しい。

 だけど、と俺は思った。本当に広瀬さんが俺のことをそう想ってくれているのなら。俺はこれから先もずっと、広瀬さんが自分の生まれた日のことを特別に思えるような存在でいたいと、強く願った。


                *


 食事をし、それぞれお会計を済ませると、俺たちは本来の目的地である公園に向かった。すっかり日も落ち、空気も冴えて、桜並木に飾り付けられた灯りが遠くまで煌めいているのがよく見える。

 俺は思わず両手を軽く擦り合わせた。手袋を持ってこようと思いながら、また忘れてしまった。まだ息が白くなるほどではないが、夜はやはり昼間より格段に冷える。

 とその時、広瀬さんが身に着けたばかりの手袋を片方外し、俺に渡した。

「え、あの……」

「寒いから、半分こ」

「いや、でも……っ」

 手袋を持ってこなかったのは俺のミスだし、と遠慮する暇もなく、広瀬さんが無表情に首を傾げた。

「俺がつける?」

「……いえ、自分でつけます……」

 知ってる。広瀬さんてあざといときもあるけど、これは天然のほうだ。妙に合理的なところがあるせいか、時々、俺が遠慮したり恥ずかしがったりする理由がわからないと、こういう少しずれた会話になる。そこもまあ、決して嫌いではないのだけれど!

 とはいえ、恋人のものを身に着けるのはちょっと嬉しい。それに広瀬さんの体温がまだ残っている。広瀬さんの片手に寒い思いをさせてしまう罪悪感はあれど、つい顔が綻んでしまう。

「広瀬さん、ありがとうございます」

 が、広瀬さんは寒い思いをするつもりはなかったらしい。手袋をしていないほうの手で、やはり手袋をしていない俺の手を握ると、自分のコートのポケットに入れた。瞬間、俺は顔から火が出るとはこういうことを言うのだな、と実感した。

「────────っ!!!」

 知ってる! これ、ドラマで見たことあるヤツだ! うわあああああっ!

 動揺しすぎて声も言葉も出てこない。思考力すらなくし、かなり時間が経ったと思われるころ、俺はようやく自分が公園の入り口まで来ていたことに気づいた。

「ここ?」

「はい……」

 自分でも驚くほど記憶がない。だがまあ、無事に案内できていたのなら、取り敢えずいいことにしよう。もっとも、広瀬さんに連れてきてもらったという可能性もなくはないが、気にしないことにする。

 公園の中は家族連れや男女のカップルが数多く歩いていた。イルミネーションがたくさん展示されているエリアは、立ち止まって写真を撮ったりしている人も多く、かなり混雑している。もともと広瀬さんのリクエストで見に来たとはいえ、人混みの中にいて大丈夫か心配になる。電車での二の舞だけは絶対にしたくない。

 イルミネーションの灯りがあるとはいえ、暗いことに変わりはないので、俺はつい広瀬さんの表情に変化がないか、ちらちらと確かめていた。と不意に、未だ広瀬さんのコートのポケットの中にある俺の手から、広瀬さんの手が離れるのを感じた。

「あ……」

 思ってた以上の寂しさと、よくわからない感情が渦巻いて混乱しかけたとき、広瀬さんの手が再び、けれど少し違う形で握りなおされた。俺の指の間に、広瀬さんの指がするりと入り込み、しっかりと重なり合う。

「ふあっ!?」

 こ、これは俗に言う、恋人つなぎというヤツでは……っ! 指がっ! 広瀬さんの指が俺の指と絡まりあって! 何か、密着感がすごい! エロい! ポケットの中で見えないとはいえ、公共の場で許されるのか! いや、ポケットの中で見えないからこそ、余計エロいというか、何というか……。

 動揺しすぎて自分でもよくわからないことを心の中で叫んでいると、広瀬さんが前を歩いている男女を指さして言った。

「ちょっと、真似してみたくて。……嫌?」

「嫌、じゃないです、けど」

 ふと疑問が浮かび、俺は気が進まないながらも広瀬さんに尋ねた。

「……広瀬さんて、恋愛ドラマとか、よく見るんですか?」

 広瀬さんは瞬きを一つし、言った。

「推理ドラマとかなら、たまに?」

 知ってた。広瀬さんて、結構天然だよね。もちろん、推理ドラマだろうが何だろうが、恋愛要素があるのも多いだろうし、コートのポケットに手を繋いだまま入れるシーンだって、目にしたことはあるに違いない。恋人つなぎだって、全く知らないということはないだろう。ただ、それを萌えシチュエーションだとか、恋愛テクニックだとか、考えて行動してるわけじゃないところが天然というか、イケメンというか、本当に天性の俺殺しというか。いや、俺じゃなくても完全瞬殺確実だけど!

 もちろん、天然すぎて俺以外の人間に同じことをされたらたまったものではないが、広瀬さんに限ってその心配がないのもわかってはいる。何故なら、極度の人間嫌いだから。そこが安心でもあり、ちょっとだけ哀しくもある。だから敢えてそこを無視し、俺は念を押すように言った。

「俺以外の人に、こういうことをしたら絶対にダメですからね!」

「大丈夫。九条くん以外の人にはできない」

 知っている。でも言葉にし、ただの惚気にすることで、俺は少しだけ安心したかったのかもしれない。俺も、広瀬さんが嫌いな人間であることに変わりはないし、そもそも広瀬さんが俺のことを好きでいてくれる理由も、本当のところよくわかっていないのだから。

 俺は広瀬さんと絡まり合う手に軽く力を込め、ちらりと見上げた。

「絶対、ですよ」

 瞬間、広瀬さんの頬が淡く染まったのがイルミネーションの灯りで浮かび上がった。手袋をしているほうの手で、広瀬さんがさっと顔を隠す。

「……九条くん、あざとい」

 理不尽! というか、これこそ天然だし! 養殖じゃないし! そもそもこんな不器用で地味顔の俺にあざとさを見出せること自体、広瀬さんの感性はどこかおかしい! というか、俺より遥かに天然であざとい広瀬さんに言われたくないんですけど!

 とまあ、いろいろなことが頭をよぎったけれど、今日のところは誕生日だから許してあげることにした。むしろ、あざといと勘違いまでしてくれるなら好都合だ。

 俺は瞬時に周囲の様子を確認した。この辺りはイルミネーションがまばらに配置されているせいか、人通りも少ない。この誕生日デート最大のミッションを実行するなら、今しかない!

 俺は満を持して、例の魔法の言葉を使うことにした。咳払いをし、勇気を出して口にする。

「あ、の! 俺の我儘、聞いてくれませんか……?」

 不安のあまり、語尾が尻すぼみになってしまったが、羞恥に顔を伏せた俺にも、広瀬さんの少し驚いた視線は痛いほど感じた。そうだよね。広瀬さんがあざといとか言って赤くなるから、俺も何故か急に気が大きくなって口にしてしまったけれど、俺の誕生日ならともかく、広瀬さんの誕生日に我儘を聞いてほしいと言うなんて、どうかしていた。保険どころか誤爆だよ! 中井を信じた俺が馬鹿だった。変な前置きなんかしなきゃよかった!

「すみません! 今のはちょっとした冗談、というか……」

 何とか言い訳をしようと顔を上げた俺は、思ったより近くに広瀬さんの顔があることに気づき、言葉を見失った。

「……あの……」

「九条くんの我儘、聞かせて?」

 広瀬さんの真剣な眼差しに、目を奪われる。綺麗だ、と純粋に思った。

「我儘……いいんですか? 言って」

「うん。聞きたい」

「それじゃあ……」

 何だか夢を見ているようだ、と思いながら、俺は道の隅に寄った。虹色の淡い光を灯して浮かぶシャボン玉のようなイルミネーションのそばで立ち止まり、広瀬さんを見上げる。

「ちょっとだけ、目を閉じてください」

「ん」

 広瀬さんが目を閉じたのを見ると、俺は自分のコートのポケットに繋いでいないほうの手を突っ込んだ。洋食屋さんでお会計をしているとき、咄嗟に鞄から移しておいてよかった。

 手袋をしたままなので多少もたついたが、すぐにそれをポケットから出すと、俺は広瀬さんに声をかけようとして、一瞬、見惚れてしまった。本当に綺麗だ。

「……もう、目を開けていいですよ」

 広瀬さんの目が開き、まずは俺の姿を捉えた。そしてすぐ、その眼差しが俺の差し出している小さな箱へと移る。広瀬さんの反応が怖くて、俺は先に口を開いた。

「プレゼント……いらないって言われたの、ちゃんと覚えてます。でも……どうしても用意したくて。これが俺の我儘です。受け取って……もらえますか?」

 瞬間、俺は広瀬さんに抱きしめられていた。

「広瀬さん……?」

「……九条くん」

「は、はい」

 いつもより声が低い。緊張する。

「こういうこと、俺以外の人にしたら、駄目だから」

 聞き覚えのある台詞に、俺は頬が熱くなるのを感じた。本当に、こういうところ、ずるい。けど……嬉しい。ほんの少しくらいは、俺も自分に自信を持っていいのかもしれない。広瀬さんと一緒にいると、時々そう思うことができる。それにこういう時の広瀬さんは、俺より大きいのに何だか小動物みたいだ。

 ふふっと思わず笑ってしまったあと、俺は言った。

「絶対、しません。広瀬さんだけです」

「約束」

「約束です」

 ようやく俺を腕の中から解放すると、広瀬さんはプレゼントに目をやった。

「開けてもいい?」

「はい。あ、じゃあ手を離さないと……」

 一瞬、躊躇うような素振りをしたものの、広瀬さんは恋人つなぎのままコートのポケットから手を出すと、俺の手をそっと放した。多分、寒いのは夜の冷気に晒されたせいだけではない。が、広瀬さんはすぐに自分が身に着けていた手袋を脱ぐと、俺の手に嵌めた。

「ちょっとだけ。すぐに返してもらうから」

 その意味を悟り、俺は手袋に残る体温を抱きしめるように胸に当てた。

「あったかい……」

 広瀬さんは俺の手から小さな箱を受け取ると、指先でするりと撫でた。

「開けてもいい?」

「はい」

 小さな、白いジュエリーボックスだ。中身はそこまで高級な品ではない。広瀬さんに気に入ってもらえるか、本当はすごく不安だ。何故ならそれは俺がすごく気に入って、広瀬さんに身に着けてもらいたいと思って選んだものだから。

 普段ならこんな自分本位なプレゼントの選び方は絶対にしない。相手の好みに合わせるか、無難なものを用意して、大きな失敗は避けるようにする。相手が大切な人で、喜んでもらいたいなら尚更だ。でも、俺は敢えてそうしなかった。何故なら、これは俺の我儘だから。

 不安な理由はまだある。広瀬さんの服装はいつもシンプルだけどお洒落だ。シャツ一つ見ても、襟の形やボタンが変わっていたり、素材もいいものが多い。例え高いものではなくても、デザインが素敵だったりする。つまりセンスがいい。

 けれどそういった諸々全ての不安要素を超える、最大の理由がまだ二つあった。はっきり言って、すでに渡してしまった今でも、あれをプレゼントに選んだ自分が信じられない。どう考えても、絶対にあり得ない。これまで慎重すぎるほど慎重に生きてきた俺が、人生で最も大切な人への初めてのプレゼントに、ここまで大博打をするなんて。

 眩暈がするほどバクバクする心臓を抑え、俺はジュエリーボックスを開ける広瀬さんを見守った。

「……これは」

 広瀬さんの目が大きく見開かれるのを見ながら、俺は心拍数が最高潮に達するのを感じた。祈るように手を握り締める。

 瞬間、広瀬さんの顔がふわりと花開くように綻んだ。

「すごく、可愛い」

 その言葉を耳にした途端、俺は安心しすぎて危うくよろけてしまうところだった。本当は怖くて目を瞑ってしまいそうだったけれど、プレゼントを目にした瞬間の、広瀬さんのほんの僅かな反応も見逃さないように、全力で観察したつもりだ。広瀬さんは感情を偽るのが得意だけれど、あの微笑みも、あの言葉も、かなりの高確率で本心のはず。とはいえ、まだ油断はできない。プレゼントが何か、この一瞬ではまだちゃんと理解していない可能性もあるからだ。

 と、何とか緊張を維持している俺を見ると、広瀬さんは少しおかしそうに笑った。

「大丈夫。本当に、すごく嬉しい。そんな心配そうな顔しないで」

 一瞬にして紅に染まったであろう顔を隠すように、俺は慌てて両手を前にかざした。

「……でも、それ、割と女性向けというか」

「まあ、そうだね。ユニセックスではあると思うけど、あまり男性っぽくはないかな」

「それに、もし、俺の勘違いで、広瀬さんがまだ、気づいてなかったら……」

 俺の徹底した心配ぶりに、広瀬さんはくすくす笑った。

「大丈夫だよ。もうずっとつけてないのに、よく気づいたね。九条君はしてないでしょ?」

 今度こそ、俺は体の力が抜けて座り込んでしまいそうだった。

「……すごく、よく見てますから」

「つけてもいい?」

「っ……! はい!」

 広瀬さんが丁寧な手つきでジュエリーボックスからそれを取り出すのを夢見るように眺めていた俺は、ふと我に返って鞄に手を入れた。

「あの! 鏡、使いますか?」

「ありがとう」

 携帯のアプリを起動し、鏡として機能していることを確かめると、広瀬さんの前に掲げた。

「見えますか?」

「うん。すごいね。最近の携帯はこんなこともできるんだ」

 広瀬さんは携帯を持っていない今どき希少な存在なので、こういうやり取りをしているとおじいちゃんみたいで微笑ましくもある。

 が、広瀬さんが鏡を覗き込んでいるのを目にした途端、そんな感想はどこかに吹き飛んでしまった。

 色っぽい! 艶っぽい! 動画で録画しておけばよかった……! じゃない。いやいやいや、恋人でも盗撮は駄目だろう。って、そうじゃなくて!

 俺がいろいろと動揺しまくっている間にも、広瀬さんはそれを身に着け終わって角度を調整していた。

「どう、かな」

 広瀬さんの左耳に光る、シルバーの猫のピアスを見ながら、俺はしみじみと感動のため息をついた。

「……すごく、よく似合ってます」

 すごく素敵だ。ガラスのショーケースに並んでいるのを目にした瞬間、絶対に広瀬さんに似合うと直感した。シルバーだし、小ぶりでシンプルな猫のシルエットだから、例え男性でも広瀬さんなら必ず違和感なく身に着けてくれると信じていた。実際には違和感どころか、完璧に調和している。もはや広瀬さんのために作られたものだといっても過言ではない! ……あくまでも俺の私見だけど。

 ユニセックスと広瀬さんはさっき言ってくれたけれど、どう見てもこの猫のピアスは可愛い。売っていたのも女性向けのジュエリーショップだったし、そもそも店員さんに相談しても意味がないことはわかっていた。結局、一人で悶々と考えて決断したけれど、俺の今までの人生で一番大きな冒険がこの買い物だった。

「ピアスつけるの、久しぶり。ちょっと新鮮」

 楽しそうな様子の広瀬さんに、俺はさりげなく気になっていたことを尋ねた。

「今までしてなかったのって、何か理由があるんですか?」

「ん……? 何となく? 特に思い出さなかった……みたいな」

「なるほど」

 要するに面倒だったとか、着飾る必要性を感じなかったとか、そういう時期が続いたあと、忘れてしまったということだろう。アレルギーが発症したとかじゃなくてよかった。俺は心密かに安堵した。

「これからは毎日これをつける」

 俺は頬の温度が一気に上昇するのを感じながら、慌てて言った。

「べ、別に、催促したわけでは……っ」

「うん。俺が、毎日つけたいだけ」

「そ……れは、すごく、嬉しいです……」

「俺も嬉しい。ずっと九条くんと一緒にいるみたいだから」

「で……でも、お店は大丈夫なんですか? オーナーとか、お客さんの反応とか」

「オーナーは気にしない。小さいし、ドクロじゃないし、前もつけてたし」

「お客さんは……」

 多分、きっと、絶対、すごく噂になる。しかもただのピアスじゃない。ドクロならともかく、可愛い猫のピアスなのだ。騒ぎは水面下では収まらないかもしれない。広瀬さんが巻き込まれたらどうしよう。心配そうになった俺に、怖いくらい完璧に微笑むと、広瀬さんは言った。

「大丈夫」

「え、いや、でも……」

「大丈夫」

 その笑顔が喫茶店で働いているときの完璧な仮面と同じであることにようやく気づき、俺は確信した。この完璧な笑顔と選び抜かれた言葉の数々で、必ずや女性たちの追及を煙に巻くであろうことを。

 さすがに軽く恐怖を覚えていると、広瀬さんはゆるりと雰囲気を和らげた。それから少し身を屈め、俺の耳元に唇を寄せると、喉を鳴らすように囁いた。

「……それにこれは、俺が九条くんのものだっていう大切な印だから」

「────っ!!!」

「俺のピアスホールに、九条くんのピアスを入れたまま過ごす……っていうのは、そういう意味、でしょ」

 どうしよう。すごいエロい。広瀬さんの直球すぎる言葉の攻撃が止まらない。確かに所有的な印というか、証しのようなものを身に着けてもらいたいという下心や、無粋な意図が全くなかったとは言わない。が、当の広瀬さんの口から聞くと、やばい。というか、表現がエロい! 羞恥心でいろいろと溶けてしまいそうだ。人の形を保っていられる自信がない。

 とても耐えきれず、俺は何とか話題を変えようとした。

「あのっ、写真! 写真を記念に撮ってもいいですか?」

 誰が聞いてもわかるあからさまな逃げだったが、広瀬さんは軽く微笑しただけで追及さず、あっさりと頷いてくれた。広瀬さんが俺に甘いという中井の言葉を心底実感するのは、こういう時だ。

「でも、九条くんも一緒がいい」

「わ、わかってます」

 基本、広瀬さんは写真を撮られるのが好きではない。実際、広瀬さんだけの写真は俺にも撮らせてもらえないほどだ。でも、ツーショット写真ならお許しが出る。

 そばにある虹色のシャボン玉のようなイルミネーションを背景に、広瀬さんの左耳がよく見える角度で何度かシャッターを切った。画像を二人で確認し、広瀬さんのパソコンにメールで送る。一連の作業を終えると、広瀬さんは俺に片手を差し出した。

 俺はすぐに手袋を片方外すと、広瀬さんに渡した。あとは御推察通り。俺たちは夜の公園の続きを歩きだした。


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