第2話 中井くんと猫の王様の話
最近、友人の様子がおかしい。
そわそわしているというか、浮足立っているというか。
まるで恋をしているようにも見えるが、会いに行っているのは猫だという。
大学の講義が終わって昼休みになると、毎日のように持参した猫のおやつを手に姿を消す。
一度、麻美とルリが見に行きたいと騒いだが、信じられないことにあの九条が断固として断っていた。
普段、こちらが心配になるほどお人好しの九条にしては、本当に珍しいことだ。
知り合ってからまだ半年も経っていないとはいえ、あいつが誰かの頼みを断るところなんて、初めて見た気がする。
*
俺が九条と知り合ったのは、大学に入って一ヶ月ほど過ぎたころだったろうか。ゴールデンウイークが終わったばかりでやる気も出ず、天候もおかしくて、何だか色々とぐったりしていた時期だった。
花冷えのする入学式のあと、急に真夏のように暑くなったかと思ったら、早くも梅雨入りしたかのように底冷えし、小雨が降り続いていた。その日は久しぶりに朝から快晴だったのに、大学に着く直前に土砂降りになり、俺は慌てて講義棟に駆け込んだ記憶がある。
一限、二限と学科の必修科目が続いており、教室も同じだったから、一限が終わったあとも、俺は高校から一緒の麻美やルリたちと、教室の一番後ろの席でお菓子を食べながら喋っていた。あいつが教室に入ってきたのはその時だ。こいつ一限サボりかよ、というのが俺の九条に対する最初の感想だ。
あとで聞いたところによると、自転車の前に猫が飛び出してきて、避けようとしたら植え込みに突っ込み、土砂降りの中、血だらけでチェーンの外れた自転車を引っ張ってきたらしい。律儀というか、要領が悪いというか。俺だったら速攻で帰っている。
だが、世の中には親切な人もいるらしく、泥だらけだったあいつは体育館でシャワー室や洗濯機を使わせてもらい、傘と救急箱まで借りたそうだ。おかげで、教室に入ってきたときのあいつは泥一つついていなかった。そうでなきゃ、俺だってずぶ濡れの知らない奴に声なんかかけない。
一限が終わり、ざわついている教室に入ってきたあいつは、席がほとんど埋まっているのを見て躊躇しているようだった。入学して一ヶ月も経てば、それなりに仲のいいグループができたりするものだが、あいつは友達がいないようで、しかも独りが大丈夫という質でもないように見えた。
俺は気まぐれであいつに声をかけ、あいつは俺の隣の席に座った。
それからは自然と一緒にいることが増えた。一度打ち解けてしまえば、あいつはいい奴だ。というか、いい奴過ぎて逆に心配になるヤツだ。ルリはともかく、麻美は時々、無意識にあいつをパシリにするから油断ならない。悪い奴じゃないんだが、麻美は色々と大雑把なところがあって、その無神経なところに俺もたまにイラっとすることがある。
そういや、しばらく前に九条が携帯を落としたのも、そもそもは麻美が発端だった。昼休みに学食に向かう途中、麻美が携帯を教室に忘れてきたと騒いだのだ。で、お人好しにもあいつは教室に戻って探してくると言い出し、俺が止めたにもかかわらず、さっさと行ってしまった。結局のところ、麻美の携帯は大量の荷物とともに鞄の底から発掘され、事なきを得たが、今度は教室から戻る途中であいつが携帯を落とした。
ごめ~ん、と言いながら腹を抱えて笑い転げている麻美を横目で見ながら、俺は苦虫を噛み潰したような顔をしていたらしい。あいつが情けない顔で、無理やり微笑みながら俺に謝るもんだから、ますますイラついたのを覚えている。
まあでも、あいつの携帯は親切な人が拾ってくれたらしく、翌日には無事帰ってきた。昼休み、律儀にコンビニでお礼を買うと、あいつは携帯を受け取りに走っていった。
九条が猫に逢いに行くようになったのはそれからだ。
うん、まあ、大方の予想はついている。誰でもわかるし、そもそも隠しきれていない。
あいつが毎日逢いに行っているのは、猫ではない。
*
俺としても同い年の友人に対して保護者面をするつもりなど毛頭ないが、そういった諸々を含め、実に微笑ましいと思っていた。相手がどんな女の子か気にならないと言ったら嘘になるが、あいつが楽しそうにしているあいだは余計な口を挟まないでいよう、と。俺たちにその子のことを言いたくないのは、ちょっとした独占欲とか気恥ずかしさからだろう。
とはいえ、多少の心配はせずにはいられなかった。何しろ、あいつは簡単に変な奴に引っかかりそうな奴だからだ。誰かに利用されているのがわかっていても甘んじて受け入れてしまう、そういうどうしようもない奴なのだ。
俺の言葉に悪意はない。だが、はっきり言ってあいつは鈍臭い。顔も普通だ。そもそも存在自体が地味だ。そして、自分より他人を優先させる癖がある。優しいと言えば聞こえがいいが、自己犠牲なんて俺はクソ喰らえだと思っている。自分を大切にしない奴は嫌いだ。
そういう意味でも、九条が麻美とルリに猫を見せなかったのはいい傾向だと思っていた。好きな子の存在が、九条に少しずつ自己主張させているのなら、しばらく生温かい目で見守っていよう、と。
そして今、俺は魂が抜けたような顔をしているあいつを前に、そのことを後悔していた。もう少し早く、九条から猫……もとい相手のことを聞き出しておくべきだったと。
*
「……で、何があったんだ?」
約三週間ぶりに昼飯を共にしながら、俺はベンチの隣に座っている九条に水を向けた。
十月も半ばを過ぎてようやく秋らしい風が吹くようになったせいか、俺が昼飯に誘うと、九条は外がいいと言って中庭の雑木林の周りにあるベンチまでやってきた。うちの大学は古く、敷地も広いせいか、こういう手つかずの雑木林がいくつか残っていたりする。一応、立ち入り禁止の柵で取り囲んでいるが、簡単に跨いで入れるし、たまに近道として突っ切っていく奴も多い。警備員に見咎められなければ問題ないし、そもそも人通りもあまりない。少し話しにくいことを切り出すには、かえってちょうどいい場所だ。
「猫のこと、だよな」
購買のパンをもそもそと食べていた九条は、俺の言葉に情けない顔を上げて微笑んだ。
「やっぱり、わかっちゃうよね。ごめん、色々と気を遣わせちゃって」
「そんなのはいいんだけどよ。やっぱ気になるからさ。お節介だとしても、話くらい聞いとかねえと」
何かあってからじゃ遅いし、こういうのは放っておくほうが面倒くさい。
「一応、友達だしな。心配してんだよ。俺だって、男同士の話を麻美やルリに喋ったりしねーし」
九条は瞬きを一つし、笑った。
「何だよ」
「いや。中井っていい奴だな~と思って」
「はいはい、ありがとう。よく知ってる。それで?」
「……あ~、えっと」
話しにくそうに視線を泳がせた九条に、俺は言った。
「そもそも、お前が昼休みに逢いに行ってたの、猫じゃないよな」
「あ~……、うん」
「前に、お前の携帯を拾ってくれた人、だよな」
「……うん」
「好きなのか?」
「ふえあ……!?」
ぶわっと赤く染まった顔で勢いよく立ち上がった友人を見ながら、俺は確信した。呆れすぎて、笑えてくるレベルだ。
「お前、わかりやすすぎるだろ……ホント、大丈夫かよ」
「え、いや。ホント、違うし」
「いいから座れって。それに、その顔で言われても説得力ないし」
「え、いや、でも……」
頬を上気させたまま、おろおろとしている友人を眺めながら、俺は一つの可能性に気づき、軽く呆然とした。もしかしてこいつ、今まで自分の気持ちに気づいてなかった、のか? いやいやいや、そんなわけ……、ありそうだ。
「……うん、わかった。取り敢えず、座れ」
一応、今度はおとなしく座ったものの、あいつは混乱しているように俺に言った。
「いや、でも、本当に違うんだ。何ていうか、その……」
「好きじゃない」
「違う! ……あ、いや、そうじゃなくて。好き、ではあるんだけど、人間として、好きなだけで……」
「恋愛感情ではない」
「そ、そう!」
大きく頷いたあいつに、俺はやんわりと微笑んだ。
「うん、そっかぁ。わかった。だけど、そもそも俺、好きなの? って聞いただけで、それが恋愛感情かどうかは聞いてなかったんだよね」
時が凍り付いたような顔をしているあいつに、俺は更に微笑んだ。
「どうしてそれを、恋愛感情の好きっていう意味だと、勝手に思っちゃったのかなぁあ?」
「こ、怖い怖い怖い」
ベンチの上で、俺の優しい笑顔から身を捩るように逃げたあと、あいつはようやく観念したように叫んだ。
「だ、だって、反射的に、そういう意味だって思っちゃったんだもん!」
「だもん、て何だ。だもん、て。気持ち悪いな」
「そこ!?」
珍しく憤慨しているあいつから身を引くと、俺は傍らのペットボトルに手を伸ばした。そして知らん顔で昼飯を再開し始めた俺に気づくと、あいつは更に膨れっ面になった。
「ちょっと! え? 何でそこで興味がなくなるわけ!?」
「いや、まあ、そういや腹減ったなぁ~と思って」
「聞いてよ!」
「聞いてる聞いてる」
焼きそばパンを齧りながら、俺は恭しく片手で促した。
「どうぞ」
「うー……」
恨みがましく唸りながらも、あいつはようやく心を落ち着けたのか、ぽつりぽつりと話し出した。
「……あのさ、ここに立て看板あるじゃん。新しいの」
「うん? ああ……そういえばそうだな。気づかなかった。猫に餌をやるなっていう……ん? 猫?」
よくわからない話が始まったと思いながら、適当に相槌を打った俺は、関連性に気づいてあいつに目をやった。あいつは前を向いたまま、言った。
「それ、俺のせいなんだ」
「……ああ」
何か、ちょっと、話が読めてきた気がする……。嫌な予感がしている俺を見ないまま、あいつは続けた。
「あの日、麻美さんの携帯が見つかったって連絡が来た時、俺、この林を突っ切ってる途中だったんだ。それで、その少し前に、何ていうか……」
友人の、ちょっと夢見るような表情を眺めながら俺は思った。うん、そこで出逢ったんだな。その、さっきの、人間として好きっていう奴に。
「猫の王様、みたいな人に、逢ったんだ」
……んん~? 何言ってんだ、こいつ。俺は初めて本気でそう思った。意味がわからない。
「……猫の、王様……」
眉間に皺を寄せている俺に気づかないまま、あいつは恋する乙女のように頬を染めた。
「木漏れ日の中、たくさんの猫たちに囲まれて、眠ってたんだ。すごく、綺麗で、本当に、別世界の人みたいで……」
それを聞きながら、俺は昔見た絵本を思い出していた。そして森の中で七人の小人……ではなく、たくさんの猫に囲まれて眠る白雪姫を思い浮かべた。
「……ああー、うん。取り敢えずOK」
大丈夫大丈夫。まだ、ついていけてる。だが、何で王様。そこはお姫様だろう、普通。そう俺が突っ込む暇もなく、あいつは続けた。
「だけど急に俺の携帯が鳴って、起こしちゃって……。怒られたりは、しなかったんだけど、電話を切ったあと、慌ててポケットに入れたから、多分その時に携帯を落としたんだと思う。で、次の日に中井の携帯から俺の携帯にかけさせてもらって……」
「昼休みに取りに行ったんだよな」
「そうそう。で、携帯を落としたって気づく前からずっと気になってたんだけど、俺、前にもあの人に逢ってたんだ。その時も俺、すごく助けてもらったのに、ちゃんとお礼も言ってなくて。だから、逢えて本当に嬉しかった。ずっと探してたのに、どうしても逢えなかったから。本当はもう、諦めてたし」
「へえ、前にも逢ってたのか。いつ?」
「ほら、中井が初めて俺に声をかけてくれた日。チェーンが外れた泥だらけの自転車を運んでくれて、ずぶ濡れの俺を体育館まで連れていってくれて……」
「ああ、あの時の! 最後には傘まで貸してくれたっていう、あの親切な人か!」
「いや、まあ、あの傘は体育館ので、後で返せば使っても大丈夫だよって教えてくれたっていうか……」
「まあまあ、細かいことはいいじゃねえか。ってことは、ほとんど恩人だな。そいつがいなかったら俺たち今、多分こんな風に喋ってないだろうし」
俺が笑い飛ばすと、あいつはすんっとなった。
「うん、知ってた。中井ってそういう奴だよね」
「いやいや、誰だって好き好んでずぶ濡れの奴に声なんかかけねえだろ。しかも知らない奴に。つーか今ならちゃんと、お前がずぶ濡れでも声かけるぞ」
「本当かなぁ」
「本当だって。今だって話を聞いてやってるだろー?」
あいつは瞬きを一つすると、小さく微笑んだ。
「……うん、感謝してる」
あーもう、茶化してるときにいきなり本気ではにかむなよ。こっちまで照れるだろーが。まあでも、こういう純粋なところ、嫌いじゃないけどな。そろそろふざけるのをやめて本題に戻るか。
俺は肩を竦め、あいつに尋ねた。
「それで、ちゃんと本人だったのか?」
「あ~、うん。ちゃんと確かめたのは、つい最近なんだけど」
相変わらずトロいな。じゃなくて。
「いやあ、それはもう運命の人と言っても過言ではないな。うん。そろそろゲロっちまえよ。好きなんだろ?」
「いや、まあ、好きではあるけど……」
「人間として?」
「そ、そうだよ」
「本当に、それだけかぁ?」
「だから、そうだって!」
う~ん、この件に関しては意外と頑固だな。仕方がない。もう少し泳がせるか。俺は欠伸をした。
「じゃあ、結局のところ何があったわけ? 五十字以内で説明せよ」
「無理だよ。っていうか、恋バナじゃなくなった途端にやる気なくすな」
不服そうにぼやいたあと、あいつは首を傾げ、言った。
「だから、要するにー……昼休みはいつも、この立ち入り禁止の林の中でその人と逢って、猫に餌をあげたりしてたんだけど、俺が出入りしているところを警備員さんに見つかっちゃったせいで、猫たちは追い出されちゃうし、あの人も猫に餌をやるなって怒られて、大学を出禁にされちゃったっていうか……」
お前こそ、思い出した途端に涙目になるな。それで恋愛感情じゃないとか、ありえないだろ。
「……っていうか、え? その人、この大学の生徒じゃないの? 出禁って……」
「あ、えと、近所に住んでるって言ってた。でも、前にここの大学に通ってたって。俺たちと同じ学科で、先生のこととかよく知ってた。だから卒業生、俺たちの先輩だね」
……んー、ちょっと待った。年上か。いや、まあ、別に年上が悪いってわけじゃない。落ち着け、俺。
「その人、いくつ?」
「三十歳くらい、かな。多分。聞いたことないけど。見た感じ、それくらいかなぁ」
無邪気に首を傾げている友人を眺めながら、俺は顔が引きつりそうになるのを必死に堪えた。いやいやいや、大丈夫。三十代でも素敵な女性はたくさんいる。まだ、慌てる時間じゃない。
「十歳年上かぁ、結構、離れてるよな。話とか合うの?」
「え、あ~……考えたこともなかったなぁ。広瀬さん、無口だし」
「広瀬さんっていうのか、その人」
一応、名前は聞き出せたんだな。こいつ、知り合って一ヶ月くらい、俺の名前知らなかったからな。
妙な感慨に耽っている俺の前で、あいつは淡く頬を染めた。
「あ、うん。広瀬さんは無口だけど、俺の話とか、取り留めのないことなんかでも、ちゃんと聞いてくれるっていうか……。その、俺、話すの、上手くないんだけど、言葉に詰まったり、何て言っていいかわからなくて困ったりしても、普通に待ってくれて。何か、一緒にいるとほっとするんだよね」
なるほど、年上の包容力か。悪くないかもな。だが、まだ確認すべきことが色々ある。
「結婚とか、してないのか?」
「聞いてないけど、してないんじゃないかなぁ。指輪もしてなかったし」
おお、お前、いつもそういう細かいところ気づかないくせに、今回は指輪の確認してたのか。自覚がないとか、安定のポンコツぶりなのに、何か逆に涙ぐましいな。ただ……大事なことが残っている。
「仕事とか、何してんの?」
三十代で、平日の昼間から猫と遊んでるってのは、ちょっとどうなんだ……? まあ、今は色々あるからな。在宅勤務とか。うん。
が、俺の願いも虚しく、あいつはこの話題で初めて言いにくそうに口ごもった。
「……あー、えっと。わかんない、けど、多分、今はちょっと、何もしてない、かも」
「ニートかよ!」
思わず額を押さえた俺に、あいつは慌てて言いつのった。
「いや、でも、聞いてないし! 俺が勝手に、そうかなって思ってるだけで、本当は、何かしてるかもしれないし……そうじゃなくても、今は仕事を探してるところとか……色々、事情が……」
「無職は無職だろ」
「いや、でも、そうと決まったわけじゃないし」
あ~もう、想像以上の事故物件を引き当ててきたな、こいつ。というか、だ。
俺は頭を抱えたまま、隣で居心地が悪そうにしている友人をじっとりと見やった。
「お前、知らないことだらけじゃん! つーか、何で何にも聞いてねーんだよ!」
「いや、だって、あんまり個人的なことを聞くのは失礼っていうか……」
「仲良くなったんじゃねーの!? 取り敢えず様子見で、普段何してるんですか~? って軽く探りを入れるとか、できるだろ!」
「で、できない!」
「何でだよ!」
「だって、それで嫌われちゃったら……っ」
泣きそうな顔で口を噤んだあいつを見ながら、俺は反省した。
そうだった。こいつはそういう面倒臭い奴だった。俺の基準を押し付けても駄目なんだよな。わかってるつもりだったのに、予想外のことが多すぎて、ちょっと我を忘れてた。そもそも、こいつがこんなに感情的になること自体、珍しいんだよな。というか、初めてじゃないか? 不器用なくせに、自分の本音だけは器用に隠して、上辺だけの人間関係を維持しようと頑張っている。俺から言わせればただの小心者だけど、別に否定するつもりもない。生きるのが大変そうだとは思うけれど。
気持ちを切り替えるようにゆっくりと息を吐きだした俺を見て、九条がびくりと身を震わせた。あいつが何を思ったか、手に取るようにわかるのが嫌だ。大方、俺が怒ってるとか呆れてるとか思って、おどおどしているんだろう。いや、確かに呆れてはいるんだが。
俺はできるだけ穏やかな声で軽く言った。
「……ま、そうだな。ニートっぽい奴に、あなたニートなんですかぁ? って聞くのは、さすがに無神経っつーか、普通に聞きにくいよな」
俺が敢えて歩み寄ったことには気づいているだろうが、あいつは少しほっとしたように体から力を抜いた。やれやれ、繊細な奴を相手にするのは疲れるな。取り敢えず少し話を進めるか。
「それで、お前はどうしたいんだ? 現状、その広瀬さんはここに来れない。つまりお前は広瀬さんに逢えない。だけど……」
「逢いたい」
驚くほど真剣な眼差しで、九条は言った。
「広瀬さんに、逢いたいんだ。逢って、ちゃんと謝りたい。俺のせいで警備員さんに見つかっちゃったのに、広瀬さん、俺のこと庇ってくれたんだ。俺のこと知らないふりして、近道するのに通りがかっただけだろうって。だから、俺はちょっと注意されただけで済んだけど、広瀬さんは猫に餌をやってたのを咎められて、警備室に連れていかれた。その時、警備員さんが言ってたんだ。猫がまた集まると困るから、当分、大学の敷地には入れませんって」
う~ん、話を聞いてると面倒見いいし、いい人っぽい感じはするんだよなぁ。確かに元々の主犯はその広瀬さんなんだろうけど、短い期間とはいえ、九条も猫に餌をやっていたんだから同罪だ。
俺はちらりと九条に目をやった。
「連絡先とかは……」
「……交換してない」
うん、知ってた。
満面の笑みになった俺に気づくと、あいつは慌てて言い訳した。
「だって、まだそんなに親しくなかったし……」
俺は笑顔のまま、優しい声であいつに言った。
「馬鹿野郎。連絡先は親しくなってから交換するもんじゃない。親しくなるために交換するもんなんだよ」
「……はい、すみませんでした」
身を縮めた九条から視線を外すと、俺はしみじみと嘆息した。
「何だかなぁ……もしかして、俺たちにできることってなくね? まあ、努力することはできそうだけど、実を結ぶ気がしない。警備員の人に聞いても……」
「今日、聞いてみたけど、何も教えてもらえなかった」
すでに努力済みとか、意外と行動力あるな。九条って、そんな積極的な奴だったか?
「うん、まあ、当然そうだろうな。あとは卒業生のことを調べるっつっても……」
「事務の人とか、先生とか、聞いてみたけど、駄目だった」
「……うん、今は個人情報とか、厳しいからな」
……え? 何? 誰、こいつ。俺の知ってる九条じゃないんだけど。
「あとは、そうだな。とにかく地道に大学の近所を歩いて、一軒一軒、表札を確認していくとか……」
「うん、それは今日の帰りから始めようと……」
「ちょっ、待て待て待て。表札の出てない家なんて五万とあるんだぞ。時間の無駄だ」
さすがに慌てて止めると、あいつは涙の溜まった目で俺を見上げた。
「だって、子猫が……広瀬さんが来なくなったら、きっと死んじゃうよ。ほとんどの猫は飼い猫だって、広瀬さん言ってた。でも、一匹だけ子猫がいて、きっと野良だろうって」
「いや、でも、そういうのは流石に警備の人だって何とかしてるだろ」
「朝、聞いてみたけど、知らないって。だから俺、すぐ、いつもの場所に行ってみたんだけど、誰もいなくて。多分、猫除けの薬みたいの撒いたらしくて、変な臭いがしてたから、きっともうみんなここには来ないだろうし……」
「なるほど、わかった。一旦、落ち着こうか」
昨日、駅前でもらったポケットティッシュを九条に渡し、俺は言った。
「いいか、猫除けの薬が撒いてあるなら、子猫もここにはもう来ない。つまり、例え広瀬さんと連絡がついて、ここに来れたとしても、子猫の面倒は見れない。ここまでいいか?」
理路整然とした俺の説明に、九条は丸まったティッシュを握り締めながらも、素直に頷いた。
「よし。そもそも子猫は、どこか他のところから来ていたんだよな」
「……多分」
「それなら子猫はきっとどこかで元気にしてるさ。今までだって、ここじゃないところで餌をもらったりしてたんだろうし。大丈夫だよ」
確信なんかあるわけない。ただの気休めだ。それは多分、九条もわかっているだろう。それでも、あいつは少し落ち着きを取り戻したように鼻を啜り、息を吐きだした。
「……うん、そうだね。ありがとう」
取り敢えず、子猫にしてやれることも、広瀬さんを探す手段も、俺たちにはない。今、俺にできることといえば、あいつの気を逸らすことだけだ。
「それはそうと……広瀬さんって、どんな人なんだ?」
俺のわかりやすい誘導に、あいつはわかりやすく反応した。つまり、乙女のように頬を染めた。今の今まで子猫の心配をしていたくせに、現金な奴だ。いや、そのつもりで振った話題ではあるんだけど。
「やっぱ美人なのか? キレイ系って感じ?」
九条は何故か、戸惑ったように目を瞬いた。
「あ、えと……そう、だね? まあ、綺麗、ではあるけど、格好いいって感じ、かな」
「へえ、何か意外だな。おとなしい感じの人かと思ってた。無口って言ってたからさ」
遠くを見るように、九条の目がすっと優しくなった。
「……うん。無口、ではあるんだけど、静かって感じの人、かな。すごく、優しい人だよ。ちょっと変わってるけどね。一緒にいると、時間がゆっくり過ぎていくみたいな感覚になる。何かね、不思議な人なんだ。何も言ってないのに、俺の考えてること、全部わかってるみたいに錯覚する。だからつい、甘えちゃうんだよね」
穏やかに微苦笑している九条を見て、俺は思った。あれ? もしかして俺、何か勘違いしてた? 心配する必要なんてなかったんじゃね? 無職かどうかは置いといて、少なくともあいつが弄ばれている可能性は低いんじゃないか? そもそも、また逢えるかどうかもわからないんだし。
安心した途端、俺は気が抜けるのを感じた。それならこの場は適当に茶化して、明るく話を終わらせるか。解決できなくても、後味が悪くなければ少しは気分も晴れるはずだ。
「ったく、なぁんだ、結局はノロケかよ。いいよなぁ。俺も年上の綺麗なお姉さんに優しくされたいっ」
冗談ぽく俺が身を捩ると、九条は一拍置いたあと、ようやく声を上げて笑った。
「ああ、そっか。何か変だと思ってたんだ」
「何がだよ」
予想と違う反応に俺が戸惑っていると、九条はくすくす笑いながら言った。
「だって広瀬さん、男だし」
「──は?」
「いや、だから……広瀬さん、男だよ」
「────…………は~あ?」
「え、だからぁ……」
「聞こえてるっつの! いやいやいや、何? ありえない! ありえないだろ!」
相手が男で、しかも三十過ぎのおっさんで、無職でニートで、一体何をどうしたら、あんな恋する乙女な反応になるんだよ! ホント、ありえないだろーがっ!
俺の驚く様子をのほほんと眺めているあいつに目をやり、俺は頭を抱えた。
え、何? こいつ、バカなの? おバカさんなの?
「そっかぁ、広瀬さんのこと女だと思ってたんだ。どうりで、何か話が噛み合わないと……」
「あ~、もう!」
俺の挙動を困ったように見ているあいつの横で、イライラと頭を掻き毟った。
知ってた! 知ってたよ! こいつ、勉強はできるけど、超絶バカなんだよ!
「あの~、えっと、ごめん。何か勘違いさせちゃったみたいで。俺、広瀬さんが男ってこと、言ったような気がしてて……さっきも、ふざけてるだけかと……」
恐る恐る声をかけてきたあいつを、俺はかつてないほどの眼光で睨んだ。
「お前さ」
「は、はい……」
「もともと、男が恋愛対象ってわけじゃないよな」
「も、もちろん」
俺はじりじりとあいつに詰め寄った。
「だったらなぁ……何でそいつのこと聞いただけで顔を赤くするんだ! そもそも、男の結婚指輪なんかクソどうでもいいこと確認しねえだろうが! 好きかどうか聞かれたら、普通に好きって答えるだろ! 友達として! しかも、連絡先は交換できないくせに、いきなり警備室に乗り込むとか、いつもの人見知りはどうした! 逢えないからって涙目になるな! 大体、草むらで寝てるおっさんが綺麗に見えるっておかしいだろ! おっさんだぞ! おっさん! つーか、猫の王様って何だ。猫の王様って。お前の頭はファンタジーかっての! そんなのただの三十過ぎのおっさんで、無職で、コミュ障のニートで、とにかく、おっさんだろうが!」
勢いに任せて俺が捲し立てている間、百面相のように顔色を変えていたあいつは、最終的に息を切らしている俺に言葉も出ない様子だったが、唐突に感情の行き場をなくしたように叫んだ。
「……っ、おっさんじゃ、ないもん!」
そして食べかけのパンを置いたまま、自分の鞄だけは引っ掴むと、九条は俺に背を向けて走り去った。
と同時に、沸騰していた俺の脳みそが急激に冷却されるのを感じた。
いや……だから、もん、って何だ。もん、って。可愛くねぇし。さっきからちょいちょい出てくるそのキャラは何なんだよ。つーか、うん、俺も大概バカだな。恐ろしいほどの語彙力のなさ。最後のほうはおっさんしか言ってなかった気がする。自分でもびっくりだよ、うん。
つらつらとどうでもいい呟きで脳内を満たした挙句、俺はようやく回避できない唯一つの思考を認め、盛大な溜息とともに口から吐き出した。
「──あぁ~……、余計なこと、しちまったなぁ~……」
最後に見たあいつの顔、真っ赤だった。恐らく、自分の気持ちをようやく自覚したに違いない。俺のせいで。そしてその圧倒的後悔から一週間、九条と俺はいまだに口を利いていなかった。
*
「何~? あんたたち、まだケンカしてんのぉ? さっさと仲直りしなさいよ」
二限目が始まる直前、最後列に座る俺の隣の席に滑り込みながら、麻美がからかうように言った。
「うっせ。黙れ。ケンカじゃねーし。つーか、お前、一限サボりかよ」
斜め前に座る九条の背にちらりと目をやりながら、俺はぼそぼそと麻美に言い返した。そう、これはケンカじゃない。何かこう、色々とタイミングを逃したというか、うまく気まずさを解消できないまま、時間だけが過ぎてしまったみたいな感じだ。
「ふ~ん、ていうかさぁ、聞いてよ! 今、ここに来るのに、中庭の雑木林を突っ切ったんだけどさぁ、ベンチのところにすっごいカッコイイ人がいたんだけど!」
いつも通りの無神経ぶりにイラっとして、俺は麻美を睨みつけた。
「お前、ほんっと人の話聞かねえよな。つーか、人のノートを当てにすんじゃねえ」
「あんたの汚いノートなんか最初から当てにしてないし」
澄ました顔をした麻美に向かって、俺は無言で九条の背に目をやり、低く唸るように言った。
「……駄目だからな」
麻美はお道化たように目を剥き、茶化すように手をひらひら振った。
「はいはい、保護者様は今も健在ですか。いやぁ、恐れ入るっス」
「チッ、クソが」
「やだぁ、中井くんてば怖ぁ~いっ」
今度こそ無言でガンを飛ばした俺に気づくと、麻美は降参したように肩を竦めてみせた。
「はいはい、すみませんでした。ノートはルリルリに借りるからいいも~ん。ね、ルリルリ?」
俺の前、九条の隣に座っていたルリは満面の笑みで振り返ると、言った。
「麻美ちゃん、わたし今日、プリンが食べたいなっ」
「ルリルリ……、お母さんはあなたをそんな子に育てた覚えはありません! だが、可愛いから許す!」
いやいや、許す、じゃねえよ。何、この茶番は。げんなりしている俺に構わず、ルリは如何にも無邪気に喜んでいる。あ~あ、九条もこれくらいちゃっかりしていればいいんだが。
麻美とルリがきゃあきゃあやっているのを頑なに背中で聞いている九条に、俺は秘かにため息をついた。あいつが俺のことを怒っていないのは、わかる。結局のところ、俺もあいつも、この気まずさをどうしたらいいのかわからず、困っているだけなのだ。
そして何がすごいって、ギクシャクしている俺たちを完全に無視してガールズトークを始める、麻美とルリの図太さだ。少しは気遣えよ。
「っていうか、ルリルリ、聞いてよ~! さっき、すっごいカッコイイ人見ちゃった!」
「ええ~っ、いいなぁ。どんな人?」
「三十歳くらいでぇ、子猫連れてた!」
その瞬間、九条の背中が小さく跳ねた。
「どんな子猫?」
「アメショーみたいな子。まだすっごい小さいの。セーターの胸元から顔を出しててねぇ、とにかくすっごいイケメンだった!」
「子猫が?」
「男の人が、だよ!」
「やだぁ~、もう!」
頭の悪そうな会話だ……と思いながらも、俺は九条の背中がそわそわし始めたのを注視した。
「……なあ、そいつ、そんなイケメンだったの?」
俺が会話に割り込むと、何故か麻美はドヤ顔を向けてきた。
「なになに~? 気になるのぉ?」
まあ、そうだな。本当は気になっているのは俺じゃなく、九条なんだが。
「別にぃ。ていうか、三十代の男が平日の昼間から猫と散歩って、どうなんだよ」
「あー、確かに。でも、夜の仕事かもしれないし。土日出勤の仕事かもしれないし」
なるほど、そういう考えもあるか。
「え、つーか、水商売っぽい感じなの?」
「いやー? 水っぽくはなかったかな。どっちかっていうと、むしろ純文学って感じ。何かちょっと、育ちが良さそうっていうか。何かこう、綺麗だった。ベンチに座ってるだけで絵になる、みたいな」
「いやいやいや、おっさんだろ?」
俺の反論に、麻美はふふんと鼻を鳴らした。
「わぁかってないわねぇえ。これだから、お子様は」
「いやいやいや、お前と同い年だよ。何なら俺のほうが誕生日、早いし」
「そぉじゃないっての。感覚がお子様って言ってんのよ。年上の、大人の魅力ってのがこう、きらきら光って見える感じなのよねぇ。っていうか、あれだけイケメンなら年なんか関係ないっしょ」
「マジか」
面食いの麻美がこうも太鼓判を押すとか、どんだけだよ。つーか、九条もその見た目にやられたクチなのか? もし、同一人物ならってことだけど。
「じゃあさ……そのイケメンが無職のニートでも、やっぱ好きになるか? すっげーイケメンなんだろ? んでもって、知らねーけど、例えば性格も頭も良かったとしてさ」
「頭も性格もいい、完璧なイケメン……」
夢見るように、麻美はうっとりと呟いた。
「そうそう、でも無職」
夢から覚めたように、麻美はにっこりと微笑んだ。
「うん、ないわ」
「まあ、そうだよな。お前にも少しは真面なところがあったんだな。安心した」
おかげで、九条のことが余計に心配になったんだが。
「でも、すっごい資産家だったりしたら、いいかも」
拳を握った麻美に、俺は現実を突きつけた。
「そうだな。でも、そんな奴まずいないし、そもそもお前を好きになったりしないだろ」
「失礼な!」
「そうだよー。わたしは麻美ちゃん、大好きーっ」
「ルリルリ……!」
またしても茶番が始まろう、というところで、教室に先生が入ってきた。実際、あと少し遅かったら、九条は教室を飛び出していただろう。探し人がすぐそこにいるかもしれないのに、気真面目過ぎて先生の前では堂々とサボれないとか、あいつらしくてホント、涙が出そうだ。
授業中、やきもきしている背中を俺に晒し続けていた九条は、チャイムが鳴った瞬間、脱兎のごとく教室を飛び出した。さすがに想像以上の瞬発力に驚くが、行先はわかっている。俺は、これまた急いでベンチのイケメンのところに行こうとしている麻美を横目で見つつ、ルリにそっと囁いた。
「──ダッツ」
鞄に荷物を入れていたルリは瞬きを一つし、囁き返した。
「──ラジャ」
「できるだけ長く、麻美をここに足止めしてくれ」
そして俺の言葉が終わるより早く、ルリは机の上からペンケースを落とした。バラバラと中身が散らばる音を聞きながら、ルリが麻美に泣きつく。
「麻美ちゃーん、待ってぇ! 落としちゃったぁ~っ」
今にも教室から走り出そうとしていた麻美は、急いでルリのところに戻ると、一緒になって散らばったペンを拾い始めた。
「も~う、ルリルリはドジっ子なんだからぁ~」
しかめっ面をしているが、麻美は本気で怒ってはいない。俺は素早く身をひるがえした。
「じゃ、俺はサークル行くから」
「はいはい」
すたすたと教室から出て、あいつらの視界から消えた瞬間、俺は全力で走り出した。スタートにハンデがあるとはいえ、恐らく九条は無駄の多い正規のルートで進むはずだ。俺のほうが足も速いし、ここは何としても出し抜いてやるぜ。ダッツという出費のためにも! ←重要。
入口方面とは反対の階段を一気に降りると、俺は一階の裏側の窓から外に飛び出した。そのまま例の雑木林の中を突っ切り、最短ルートでベンチの背後に向かう。人影に気づいた俺はペースを落とし、足音を殺すと、近くの茂みに身を隠した。
いやぁ、スパイごっこマジ最高。すげー楽しいわ。やってることは友人のストーカーだけどな。
何とか息を整えていると、ちょうどベンチの人影の前に九条が走ってきたところだった。おお、ぎりぎりセーフだ。
九条は息を切らしたまま、間髪入れずベンチの人影に向かって手を差し出すと、言った。
「お願いです。何も聞かずに、今すぐ俺と一緒に来てください」
ええ~、何そのイケメンな台詞。
さらに驚いたことに、ベンチの人影は一瞬の躊躇いもなく、差し出された九条の手を無言で握って立ち上がると、そのまま一緒に走り出した。
ちょっ……え~っ? 何? 駆け落ち? これは駆け落ちなの? 確かに、何も聞かずに今すぐ一緒に来てくださいって言ったけど。普通、戸惑うだろ。何なの、その躊躇いのなさは。そもそも、逢う約束をしてたわけじゃないよね。っていうか、戦乱中の禁断の恋人とか、そういうヤツなのか?
混乱して一瞬わけのわからないことを考えたものの、俺はすぐに気を取り直した。茂みからそっと顔を出し、九条たちが駆け込んだ建物を確認する。念のため、ベンチから少し離れた場所で雑木林を抜け、近くの校舎の中を通って裏側から侵入した。やばいな、俺、探偵とか向いてるかも。
一階に九条たちがいないのはわかっていた。建物に入ってすぐ、入口近くの窓から見えなかったからだ。それに、誰かから隠れるのに一階は心理的に選ばないだろう。
俺は足音を忍ばせて階段を上り、身を屈めると、二階の教室に耳を寄せた。……何も聞こえない。やはり、階段からすぐの教室でもないよな。心理的に。
慎重に隣の教室まで進むと、ドアの向こうから僅かに人の声が聞こえた。だが、内容までは聞き取れない。俺は少し考え、身を低くしたまま教室の真ん中あたりまで進むと、足元の小窓をゆっくりと開けた。そしてその横の冷たい床に、そっと腰を下ろした。
*
「……あの、本当にすみません。いきなり」
「いや……大丈夫。でも、理由は聞いても、いい?」
イケボだな。それが猫の王様に対する、俺の第一印象だ。はっきり言って、さっきも背中しか見ていないから、イケメンかどうかはわからない。だが、まあ、イケボだ。そして抑揚があまりないというか、淡々と話す奴だなと俺は思った。
「それは……えっと……」
何て説明するつもりなんだ? あいつは。まさか、友達の女の子に会わせたくなかったとか、真っ正直に答える気じゃあないだろうな。と俺が思った瞬間。
「と、友達の女の子に、あなたを、会わせたく、なくて……」
おいおいおい、言っちゃったよ。なになになに、このまま告っちゃう感じなのか? ハラハラしている俺とは裏腹に、淡々としたイケボが言う。
「大丈夫、君が誰かと一緒にいるとき、俺は声をかけたりしない、から」
ちょおーっと、それはどういう意味だっ! 壁の向こうで憤る俺に構わず、猫の王様は続けた。
「君に、迷惑、かけたり、しない」
え、あ~、そっち? っていうか、これは思ってた以上にコミュ障っぽいな。ネガティブだし、陰キャっぽいし。ぼそぼそした喋り方のせいもあって、何かすげー残念なイケボだ。
一方、九条は別の意味で憤っているようだった。
「迷惑、とかじゃないです! そういう、意味じゃなくて……っ」
おお、頑張れ頑張れ! 俺の心の声援が届いたのか、九条は意を決したように言った。
「っ……、俺、あなたのこと、好きです! だから自分のこと、そんな風に言わないでください! いくらあなたでも、俺の好きな人のこと、悪く言ったら許しません! 俺、あなたのこと、本当に好き、だから……っ」
言ったぁー! 俺は思わず拳を握った。
「……、ありがとう。君に、そう言ってもらえると、嬉しい」
……ああ、うん。これ、届いてないヤツだ。さすがに九条もわかったらしい。次に聞こえてきた友人の声は掠れていて、何だか痛々しかった。
「そういう意味じゃ、ないです……! 俺、広瀬さんと同じ男だし、気持ち悪いかもしれないけど、でも、俺、あなたが好きなんです……! れ、恋愛として!」
次に聞こえてきた声は、さっきまでと同じように淡々としていたのに、心なしか冷たく響いて、俺は胸がひやりとした。
「──俺は、君よりずっと年上だ」
「わかってます!」
「仕事もしてない」
「わかってます!」
「引きこもりの、どうしようもない人間だ」
「わかってます! それでも俺はあなたが好きです! 俺が困ってるとき、ずぶ濡れで、体中痛くて、惨めな思いをしているとき、あなただけが俺に声をかけてくれた。一緒に泥だらけになって、助けてくれた。あなたはいつも優しくて、傷つきやすくて、自分を大切にしない。そんなあなたのことが嫌いです。嫌いだけど、心配で、悔しくて、一緒にいたい。俺は、あなたのことが好きです!」
沈黙の後、鼻を啜る音が聞こえてきて、俺はぎゅっと唇を噛みしめた。……何だかなぁ。あいつのことが心配で、こんな盗み聞きまでしちゃってるけど、俺は一体どうなればいいと思っているんだろう。男同士だし、年も離れてるし、実際ニートだったし。やめたほうがいいとは、今でも思っている。それでも、好きな人に振られるのは辛いよなぁ。
不意に、衣擦れの音がして、少しくぐもった九条の声が聞こえた。
「広瀬、さん……?」
「勘違いだ。それは、君の勘違いだよ」
「勘違い、なんかじゃ……」
「勘違いだよ。俺は少しも優しくないし、今も君を傷つけている」
淡々とした声は最初からずっと変わらないのに、今聞こえる拒絶の言葉はどうして優しく響くんだろう。俺は壁を隔てて息を吐いた。
「それは、俺が、勝手に……。だったら、こんな風に慰めないでください。ちゃんと、気持ち悪いって、男なんか無理だって、はっきり言ってください」
友人の声が涙で揺れるのを聞きながら、俺はただ静かに身を縮めた。
「……君は、気持ち悪くなんか、ないよ」
「でも……俺、男です」
「うん」
「俺、広瀬さんに、キスしたいって……思ってるんですよ?」
「うん」
「恋人に、なりたいって意味の好き、なんです……男なのに、本当に、気持ち悪くないんですか?」
沈黙が広がり、壁を隔てて俺が悶えていると、ようやく残念なイケボが残念な感じに口を開いた。
「……何ていうか、男とか女とかいう前に、そもそも俺、人間が好きじゃないっていうか……」
そこ? そこからなの? まずは人間やめろって、そういうことか? このコミュ障、想像以上に斜め上でムカつくな! こんな奴のどこがいいのか、改めて九条を問い質したい気分でいっぱいだ!
「……だから、そういう性別とか、俺にとっては別に関係ないっていうか……」
ん? あれ? まさかのいい奴着陸?
「人間なのに、俺がこんな風に触れられるの、君だけだから」
おい、ちょっと待て。今、何してるんだ? いや、まあ、大体の想像はついているけれども。ん~、何だかなぁ。これはあれか? 振ると見せかけて、実はすでにハピエンルートに突入してる感じなのか? 俺が混乱し始めたとき、猫の王様は残念じゃないイケボで優しく言った。
「だからね、俺はもう、ここには来ない。今日は、君に逢えてよかった。子猫のこと、きっと君が気にしているだろうと思って。でも、こいつは俺が引き取ることになったから。もう、心配しなくて大丈夫。今日は、君にそれだけ伝えようと思って、ここに来たんだ」
……おい、ちょっと待て。その先は……。
「……ごめんね。俺を好きになってくれて、ありがとう。……さよなら」
ある意味、俺が望んだ結末の一つではあったはずなのに、一瞬、体から血の気が引いて動けなかった。当事者でもないのに、俺が固まってどうする! と我に返ったときには、すでに教室のドアが開いていて、本当に、今でも後悔しているんだが、俺は反射的に音が聞こえたほうに背中を向けていた。要するに、おれは盗み聞きの罪悪感から、無意識に逃げの態勢を取ってしまったのだ。
あ~もう! 今からでもあの時の俺を張り倒してやりたい気持ちでいっぱいだ。そうだよ、どんなに粋がったところで、俺は所詮ただの良心的な小市民の一人だよ! 床に座ったままでいいから、自分のことは棚に上げて上げて上げまくって、思いっ切りあのイケボ野郎を睨みつけてやればよかった! 悔しいぃぃぃ!
だが、友人の甘酸っぱい青春の一部をストーカー紛いに盗み聞きしていたのだから、普通に考えて堂々とできる立場ではない。反対の立場だったら、恥ずかしさで死ねるレベルの会話の内容だよ。九条、ホント、マジでごめん。そしてそれ故、俺は猫の王様の顔を間近で拝むチャンスをみすみす逃した。しかも咄嗟に後ろを向いて顔は隠せても、存在を隠すスキルはなかったので、当然、猫の王様に盗み聞きしていたこともバレた。
猫の王様は教室から出てすぐに俺の存在に気づき、静かにドアを閉めると、まるで独り言のように小さく呟いた。多分、教室の中にいる九条に聞こえないように、だろう。
「──頼む」
チッと俺が舌打ちしたにもかかわらず、猫の王様は何故かふっと空気を和らげ、階段に向かって去っていった。俺史上、最高にムカついた瞬間だ。
結局のところ、俺は取り敢えず冷たい床から立ち上がり、冷えたケツの感覚が戻るのを待って、九条のいる教室に入った。
九条は俺に何も聞かなかった。どうやってここに来たのかも、どうしてここに来たのかも、いつからここにいて、何を聞いたのかも。
涙に濡れた赤い目をしていたくせに、あいつは俺が教室に入ってくるのを見ると、驚きもせず、ただ、静かに微笑んだ。
「……振られちゃった」
「……そうか」
「……でも、優しかったよ」
「……そうか」
「うん。やっぱり好きだなぁって思っちゃった。でも、もう逢えないって」
「……そうか」
九条はちょっとだけ、天を仰いだけれど、それでも涙がこぼれるのが見えた。
「連絡先、交換しておけばよかったなぁ。今度からは、ちゃんと中井の言う通り、仲良くなるために、早めに交換することにする」
「……そうだな」
それから、あいつの涙が止まるのを待って、俺たちは教室から出た。結果的に、俺は友人と仲直りするきっかけを得た。そして友人の将来が危険に晒されるのも回避された。はずだ。
それなのに、三週間経っても俺の心は暗雲が垂れ込めたままだった。
*
「あんたねぇ~、いい加減にしなさいよ。そんな不景気な顔してる奴が近くにいたら、こっちの運気まで下がるじゃないの!」
がみがみと耳元で喚く麻美に顔をしかめ、俺は力なく言い返した。
「うっせぇ、黙れ。お前の運気が悪いのは俺のせいじゃねぇ」
麻美は腰に手を当てて踏ん反り返った。
「お生憎様。私の運気は絶好調だし」
「はあ~? だったら俺に難癖付けてくるんじゃねえ!」
「付けるわよ。私はともかく、あんたの大事な友達が、運気下がってるじゃない」
麻美の視線を追うと、九条がルリと話しているのが見えた。楽しそうに笑っている。が。
「健気よねぇ~。どっかの誰かさんとは大違い。失恋した本人が頑張ってるのに、その友達が足引っ張るとか、ないわー」
「…………」
「ちょっと、舌打ちぐらいしなさいよ」
「……うっせ、黙れ」
わかっちゃいる。わかっちゃいるんだが。どうしたら心が晴れるのかわからない。俺は間違っていたのか? あいつを応援してやるべきだったのか? だが、あいつが振られたことに、俺は一切関与していない。そもそも応援できるような相手でもなかっただろ! 振られてよかった。よかったはずだ。それなのに、どうしても心が晴れない。
延々とこのループに嵌っている俺を見ると、麻美は如何にも無神経に嘆息した。
「あー、やだやだ。辛気臭いったらない」
そして麻美は少し離れたところにいるルリたちのところへさっさと行ってしまった。冷たい奴だ。いや、別にあんな奴、そばにいないほうがせいせいするし。
「二人とも、ちょっと聞いてよ~! 私、昨日、運命の人に逢っちゃったんだけど!」
不貞腐れている俺の耳に、麻美の声が無遠慮に飛び込んでくる。ほんっと声でけえな。
「え~、運命の人って何それ!」
ルリはけらけらと笑ったあと、不意に劇画調の漫画のようにショックを顔に張り付けると、抑揚過多な口調でわざとらしく慄いてみせた。
「麻美ちゃん、酷い! わたしというものがありながら……!」
「ルリルリ……! 違うの! 私が本当に愛しているのは、あなただけだから!」
「うん、知ってるー。麻美ちゃん、大好きーっ」
いつもの茶番を繰り広げている麻美とルリを見て、九条もくすくす笑っている。あ~あ、ホント俺、だっせぇな。確かに麻美に罵倒されるだけのことはある。
「それで? 運命の人って?」
いつもの調子に戻ったルリに、これまたいつものように麻美は言った。
「そうそう! 昨日、サークルの友達んとこ遊びに行ったんだけどさぁ。その帰りに! 逢っちゃったのよ! 運命の人に!」
「サークルの友達って、大学の近くで独り暮らししてる子だっけ」
「そう! ほら、駅前の線路を超えると、昔ながらの商店街があるじゃん! あの子、そっちのさらに先に住んでるんだけど、私、帰りに雨に降られちゃってさぁ」
ああ、と九条が頷いた。
「昨日、雨降ったよね。夕方だっけ。急に土砂降りになったから、俺も驚いた」
「それよ! あれはね、私があの人と出会うために、天が仕組んだものだったのよ!」
自信満々に教室の天井を指さしたあと、麻美は夢見る乙女のようにうっとりと続けた。
「……そう、それは商店街の一角にある古い喫茶店。突然の雨に誘われるように、軒下に駆け込む私。どうしましょう、と困っていると、不意に喫茶店のドアが開き、ふわりと漂ったコーヒーの香りとともに、彼が颯爽と私の前に現れたの。真っ白なシャツに漆黒のベストが最高に似合っていたわ。そして言ったの。『お嬢様。よろしければ、どうぞこの傘をお使いください』真っ白な手袋をした手で、恭しく私に傘を渡すと、彼は微笑みとともに店の中へと去っていった……」
手振り身振りに加え、声音まで変えて臨場感たっぷりに小芝居を終えると、麻美は余韻に浸るかのように静止した。
「……ウェイターさんかな?」
九条が小声で尋ね、ルリが頷いた。
「ウェイターさんだね、親切な店員さん。営業努力の一環だね」
身も蓋もないルリの言葉を堂々とスルーし、麻美はふてぶてしいドヤ顔になった。
「ここからが本題よ! 彼は何と、あのベンチの貴公子だったんだから!」
その瞬間、九条が時間停止の魔法にかかったのが、俺にはわかった。
何故なら、麻美がベンチの貴公子とくそダサいネーミングセンスで呼んでいる奴こそ、九条の失恋相手だからだ。
「えーっ、あの子猫の王子様!?」
……うん、ルリはルリでいろいろおかしい。何かこう、ニュアンスが違うだろ。こうなってくると、九条の猫の王様が一番マシに思えてくるから不思議だ。
俺はちらりと九条に目をやった。時間停止の魔法はまだ解けていない。それから、麻美の荷物に傘があるのを瞬時に確認すると、俺はわざとらしく大きな咳ばらいをし、口を開いた。
「あ~、麻美。お前、今日、その喫茶店に傘返しに行くんだよな? 俺も行く」
「何~? 気になるのぉ?」
意味ありげにニヤニヤしている麻美に、俺は舌打ちした。
「別に、そんなんじゃねぇし。つーか、九条はどうする?」
「えっ? あの、俺、俺は……」
魔法は解けたものの、おろおろと戸惑っていた九条は、意外にもすぐに決意を固めたように言った。
「い、行く! 俺も行く! い、いいかな?」
無駄に力の入った九条の言葉を、元気になったと勘違いしたのか、麻美は陽気に笑い飛ばした。
「おお~、よしよし。そういや、九条の失恋慰労会、まだやってなかったもんね。今日はパーッとやろう! パーッと!」
「お前、マジでやめろ。そういうの。デリカシーなさすぎだろ」
「はぁ~? あんたみたいに気にしすぎて、本人より暗くなるよりマシですぅー」
「っていうか、喫茶店で『今日は九条の失恋慰労会なんですぅー』とか、マジで言うなよ。ホント、ありえないから」
何しろ、失恋相手本人なんだからな。ぜってー教えねぇけど。
「言うわけないし。つーか、あんたこそ私の恋路を邪魔しないでよね。全力で猫被るんだから!」
拳を握った麻美の横で、ルリがくすくす笑う。
「猫被るとか言っちゃうんだもんな―、麻美ちゃん。でも、そういうとこも好きー」
「ルリルリ……」
ええー、そこで涙ぐむとか、ホント意味わかんねぇな。相変わらずの茶番を繰り広げている二人を尻目に、俺は九条に小さく手招きした。ててて、とやって来た九条に、小声で聞く。
「お前、大丈夫か?」
二度ほど、パチパチと音が出そうなくらい大きく瞬きをすると、九条はくしゃりと破顔した。あいつがこんなに無防備な表情を見せるのは、初めてじゃないだろうか。びっくりして言葉も出ない俺に、あいつは僅かに頬を染めて言った。
「大丈夫、ありがと。……俺、頑張る」
「お……おう、頑張れ」
ててて、と再び妙に可愛い足取りで九条が去ると、ルリが俺の前の席に座りながらニヤけた顔を向けた。
「相変わらず面倒見いいよねー。妬けちゃうなー」
「はいはい、どういたしまして。お前も行くんだろ? 喫茶店」
「行くよー。子猫の王子様、見てみたいし。いろいろ? 気になるし」
麻美と、それから九条にちらりと目をやると、ルリは楽しそうにほくそ笑んだ。
「いい性格してるよな。俺、お前のそういうとこ好きだわ」
「きゃあっ、いきなり告るとか、大胆!」
「というわけで、麻美のことはよろしく」
「ちぇー、中井くん、ノリ悪―い」
「また、今度な。つーか、先生来たぞ。前向け」
「は-い」
しぶしぶ黒板に向き直ったルリの背中を見ながら、俺はシャーペンをくるりと回した。
何かまた、面倒なことになって来たな。
*
そして待ちに待った放課後。俺と九条、それから麻美とルリは、件の喫茶店の手前まで来ていた。どうしてまだ中に入っていないのか。それは麻美が傘を握り締めたまま、深呼吸を繰り返しているからだ。ついでに言うと、その麻美の背後では、これまた九条が胸を押さえて青い顔をしている。何なんだ、この異様に乙女率の高いパーティーは。
が、隣で一人わくわくしているルリが目に入り、俺は自分の考えを訂正した。いや、そうでもないな。
「ねえ、今、何か失礼なこと考えたでしょ」
「ルリ、お前、真顔マジ怖い」
「何それ! 女の子に失礼しちゃう! もう、麻美ちゃん、行こーっ」
まだ心の準備が……っ、とか何とか泣き言を言っている麻美の背中をぐいぐい押し、ルリは喫茶店の中に消えた。ふわふわした見た目と言動で誤魔化しているが、ルリは実際かなり……。
喫茶店のドアから無言のルリが顔を出し、俺は慌てて一番の乙女、もとい九条の背を押した。
「ほ、ほら。俺たちも行くぞ」
「わ、わかった」
鞄の肩紐をぎゅっと握り締めると、九条は恐る恐る喫茶店のドアをくぐった。そのすぐ後ろから俺も中に入る。店内はほんのりと薄暗く、コーヒーのいい香りがした。入ってすぐのところにあるレジから目を転じると、少し先で、ちょうど麻美がウェイター姿の背の高い男性に傘を渡しているところだった。
おお、あれが猫の王様。まだ店内の薄暗さに慣れていない目で近づこうとした俺は、入り口で立ち止まったままの九条にぶつかり、我に返った。そういえば、こいつの面倒も見てやらないといけないんだった。つーか、また固まってるし……初っ端から大変だな。
感動とショックの入り混じった顔で時間停止している九条の肩をつつき、俺は小声で覚醒の呪文を唱えた。
「おい、大丈夫か。取り敢えず、中に入るぞ」
「わ、わかった」
俺たちが麻美とルリに合流すると、ウェイターは俺と九条の顔を見て、爽やかに微笑んだ。
「それでは、四名様ですね。ただいまお席にご案内いたします。どうぞ」
……爽やかだ。そしてイケメンだ。確かに、イケメンだ。何アレ? あれで同じ人類とかないわ。もはや本人とかどうでもいいから、創造主にムカつくレベルだよ! じゃなくて。
ちょっ、何アレ何アレ何アレ。何なの? あの爽やかボイスは? 全っ然、残念じゃないんだけど! えっ? アレ、こないだと同じ人? いや、まあ、確かにイケボだったよ? 確かに、聞き覚えのあるイケボだったよ? でもさぁ、こないだと全然違うじゃん! もっと小声でぼそぼそ喋るコミュ障の陰キャだったじゃん! あの時の残念なイケボを返せ! 返せよぉ!
つーか、ちゃんと働いてんじゃん! 誰だよ、無職のニートだって言ったヤツ! 本人だよ! この嘘つき!
何食わぬ顔で案内された席に着き、洗練された所作で広げられたメニューを眺めながら、俺は内心、混乱気味に喚いていた。ちなみに麻美は熱に浮かされたようにふわふわした面持ちでウェイターを見つめており、ルリは思ったより普通だった。ルリももっと目の色を変えるかと思ったんだが。
「今、お水をお持ちいたしますね」
ウェイターはテーブルの一人一人に爽やかな微笑みを残し、すっとした立ち姿でカウンターのほうへ戻っていった。
……ええ~、何アレ完璧じゃん……。あれは絶対、三週間前までコミュ障のニートだった奴の動きじゃない。そもそも、客を席に案内しただけなのに、何であんなに美しいんだよ? 美しいとか、普段、俺の使わない形容詞が自然に思い浮かんじゃうくらいの美しさだよ。確かに三十歳くらいだけど、アレはおっさんと形容するモノじゃない。さすがにそれは俺にもわかる。
ようやく少しだけ気を取り直し、店内に目をやれば、席は老若の女性客で満杯だった。程度の差こそあれ、皆一様にあのウェイターの動向を目で追っている。喫茶店の外見は昔ながらの落ち着いた雰囲気だったのに、中に入ってみれば客のお目当てはあのイケメンのウェイターだったという、ね。
「ねえねえ、これ超可愛くない? めっちゃ映える!」
メニューを覗き込んでいる麻美とルリの声に、俺は注意を戻した。
「え? なになに、俺にも見せて」
「ほら~、このパンケーキめっちゃ可愛い! プレートのデコとかマジ可愛い! アイスとかクリームとかフルーツとか、たくさん乗ってる~! おいしそう!」
「……おー、そうだな」
まあ、確かに飾りつけは可愛い。プレートにチョコソースで描かれたよくわからん模様とかもお洒落っぽい感じはする。うまそうはうまそうだ。けど、結構高いな。絶対、口に出しては言わないけど。
「デコレーションは最近始めたんですよ。飾りつけは私がやらせていただいています」
水とお手拭きを置きながら、ウェイターが言った。女子、特に麻美の目がキラキラ輝く。あ~、これ、そういう手口のヤツですか。と俺が冷めた目で思った瞬間。
「でも、本当においしいのはパンケーキ本体なんですよ。生地がふわっふわで、オーナーの特製なんです。温かいうちにアイスと一緒に食べると最高に幸せです」
それこそ最高の微笑みを浮かべたウェイターを前に、俺は目が眩みそうになった。え? 何この人。天使? マジ天使なの? そういう商法なのかもしれないけど、ここまで来たら、何か、もう、許す……(昇天)。
「じゃあ、私、このパンケーキのセットで」
いつもより澄ました声で、麻美が言った。
「ありがとうございます。お飲み物は如何いたしますか?」
「紅茶でお願いします」
「かしこまりました」
終始、いつもより三割増しのにこやかさで麻美が注文を終えると、ルリが小さく手を上げた。
「わたしもパンケーキのセット、紅茶で」
「かしこまりました。そちらのお二人はお決まりですか?」
うーむ、完璧な微笑み。男にも女にも寸分違わぬ丁寧な対応は、もはやプロとしか言いようがない。
「俺はコーヒー。日替わりの」
つまり一番安いヤツ。それなのに、ウェイターは本日初めて見せる、光輝く笑顔になった。
「かしこまりました」
そして、ウェイターはさっきまでと同じデフォルトの微笑みを九条に向けた。
「お客様は如何いたしますか?」
ええ~、何それ。その、一瞬の光輝く笑顔の説明はなしですか? 俺と、女子二人の胸のもやもやを知ってか知らずか、九条は物言いたげな切ない眼差しでウェイターの顔をなぞった。それから目を伏せ、少し強張った顔でたどたどしくメニューを口にした。
「あ、の。ハーブティー、子猫の、夢……」
うわー……、男が口に出すにはちょっとハードルの高いヤツだ。何で敢えてそれ選んだんだ? いや、まあ、九条の様子が普段と違う理由は知っている。知っている、けど、何故、今、そのチョイス?
俺の戸惑いをよそに、ウェイターは変わらぬ微笑みを浮かべた。
「かしこまりました。それでは注文を繰り返します……」
特にこれといったリアクションもなく、注文の確認をしているウェイターの声を聞き流しながら、俺は九条が必死に普通を装っているのを横目で見た。わかっている。この喫茶店に入ってから、ずっとだ。ずっと九条が耐えているのに、俺は気づいていた。
理由は言うまでもない。目の前のウェイターは猫の王様だ。間違いない。九条の様子が全てを物語っている。九条とは知り合いだ。それなのに、最初に目を向けたときでさえ、全く気付いた素振りを見せなかった。一瞬の動揺とか、微かな驚きとか、瞬き一つでも隠しきれない心の何かが、普通は出るだろ!
大体、いくら振った相手でも、完全に、完璧に知らないふりを貫き通すとかありえない。そもそも理由がわからない。多少気まずいにしても必要ないだろ! まさか覚えていないのか? まだあれから三週間だぞ? 知らないふりにしても、目を逸らして見ないようにするとか、心持ち態度が冷たくなってしまうとかなら、まだわかる。けど、他の客に対するのと全く変わらない微笑みを向けるとか、普通はできない。できない、はずだ。それなのに……。
「……あ~、何か、腹立ってきたな」
去っていくウェイターの背中を見ながら、思わず漏れた俺の呟きに、麻美がふわふわした面持ちで頷いた。
「わかる~。何かお腹空いてきちゃった。パンケーキ楽しみ~」
いやいやいや、お前ホント、人の話聞かねえな。いつもより拍車がかかっている。俺はチッと舌打ちし、注文が終わったあとも熱心にメニューを眺めているルリにちらりと目をやった。と、すぐにルリから意味深な笑みが返ってきて、俺は目を瞬いた。え? 何? これ、声に出していいヤツ? それぞれに恋する二人に、俺が戸惑い気味の眼差しを向けると、ルリは如何にも無邪気にメニューを見せてきた。
「ほらほら~、何か新しいメニュー多いね。紙とか写真とか、新しい」
「……へえ、確かに」
そういえば、さっきのパンケーキもデコレーション始めたのは最近だって言ってたな。ざっくり見たところ、新しいメニューは盛り付けが可愛かったり、お洒落だったりするのが多い。改めて店内のテーブルを見渡してみると、新しいメニューの写真に載っているものを注文している人が多いことに気付く。老若の女性も、ただ単純にイケメンのウェイターだけが目的というわけではない、ということか。
とはいえ、俺は別にこの店の経営戦略についてレポートが書きたいわけではないのであって……? という視線を俺が送ると、ルリは更に新しいメニューの一部を指さした。
「これ、さっき九条くんが頼んだハーブティー、この店のオリジナルブレンドなんだって。何が入ってるか書いてあるし、味のイメージがわかりやすいから、あまり失敗しないで選べそう。名前も可愛いし、種類も多いし、おいしそ~! わたしも今度これにしよっかなっ」
……オリジナルブレンド、もしかして……。
「是非、いろいろ試してみてください」
微笑みを湛えたウェイターの声に、俺は顔を上げた。ウェイターは紅茶のティーポット二つとハーブティーのティーポット一つ、それから温かいティーカップ三つを、すでに稼働している砂時計とともにそれぞれの場所に配置し、俺の前には湯気の立てているコーヒーを置いた。
「ハーブティーのブレンドは、私がやらせていただいているので。感想も頂けたら嬉しいです。参考にさせていただきます」
やっぱりか。九条の奴、以前、何かそういう話でも聞いてたのか? これはアレか? 九条なりの精一杯のアプローチ、みたいなヤツだったりしたのかな。わかりにくすぎて、もはや哀れみすら感じるレベルだけど。
とはいえ。俺はにこやかなウェイターに目をやった。さっきのパンケーキと違って、九条が注文したとき、ウェイターは今の説明をしなかった。今だって、ウェイターが説明しているのはあくまでもルリに対してだ。やはり、少しは九条のことを意識しているのか?
すると、ウェイターはまるで俺の考えを否定するかのように、九条に微笑みかけた。
「砂時計が落ちきったら飲み頃ですので」
「あ、はい……」
「コーヒーもお替りできますから、よかったらどうぞ」
だが、それ以上の笑顔を俺に向け、ウェイターは去っていった。えええええ……さっきから、あのコーヒー推しは一体何なんだ。
「コーヒーは、ここのオーナーが入れてる看板メニューなんだって」
「は?」
麻美にしては珍しく、まるで俺の考えを読んだかのように口を開いた。
「昨日、傘を貸してくれたとき、言ってた。よかったら今度、コーヒーを飲みに来てくださいって」
「営業か」
「営業だわ」
俺とルリに畳みかけられ、麻美は頬を膨らませた。
「営業じゃないもん! っていうか、営業でもいいもん!」
「うわあぁあ……可愛くねえぇ……」
「本気で引くな! 嫌がるな! 私だってさすがに傷つくんだから!」
「悪い……」
「本気で謝られるのも、それはそれで傷つく……あ、砂時計」
くだらないやり取りをしながらも、砂時計が落ちきったのを確認すると、三人はそれぞれティーカップにお茶を注ぎ、俺はコーヒーに口を付けた。
「……おお、確かにうまい」
思わず呟いた俺は、九条がティーカップの湯気の向こうをぼんやりと見つめているのに気づいた。視線の先を追って、同じくウェイターの背中を眺めながら、俺は内心ため息をついた。
まったく、どうしてこうなっちゃったかな。向こうが知らないふりをするにしても、こっちからさっさと声をかけちまえばよかったのに。だが、まあ、今更だ。さすがにちょっとタイミングを逸し過ぎた。あああ、でも麻美も一緒だし、知り合いだとバレたら、それはそれで面倒ごとが増えるよな。多分、九条の場合、ただ怖気づいただけのノープランなんだろうけど。
こちらが物思いに耽っている間も、ウェイターは微笑みを絶やさず仕事を続けている。ちょうど近くのテーブルにティーポットを運んできたウェイターは、常連らしい若い女性に話しかけられ、ひときわ大きく微笑んだ。同じテーブルの誰かが冗談でも口にしたのか、その女性は笑いながら隣のウェイターの腕に軽く触れようとした。
瞬間。ウェイターは驚くほど素早く、且つ自然に、流れるような動作でその接触を回避した。普通なら回避された本人しか気づかないであろう、洗練された動きだ。しかし彼はこの喫茶店の中において、いつでも、誰よりも、注目されている的なのだ。ほぼ同時に、店内全ての人間が今のささやかな事件に気がついた。そして空気が止まったように見えた、瞬間。
「綺麗な方に触れられると、緊張してしまうので」
公衆の面前でありながら、まるで秘め事のように唇の前に人差し指を立て、ウェイターはその女性に微笑んだ。その様子は、あたかも小さな少女の可愛らしい悪戯を、茶目っ気たっぷりにたしなめる紳士のようだった。
それにより、ウェイターに触れようとした女性は、公衆の面前で拒絶されたショックやら恥ずかしさやら悔しさやらに、艶やかな微笑みが上書きされ、聞こえのいい台詞一つで頬を染めた。
一部始終を見ていた店内の女性たちも、抜け駆けしようとした女性に対する非難が、失敗した瞬間に嘲笑に変わったものの、ウェイターから優しくたしなめられたことで留飲を下げた。と同時に、女性からの好意を無下に拒否したウェイターに対する、敵意未満の冷めた感情までも、甘く溶かしてしまった。
一瞬で氷解した店内で、俺は熱々のコーヒーをゆっくりと啜った。いやぁ、これはコミュ障どころの話じゃない。あんな芸当が咄嗟にできる奴なんて、そうはいない。少なくとも俺にはできない。
何しろさっきの出来事は、単に事態が収拾したというだけではない。結果的に、ではあるが、この喫茶店においてウェイターは不可侵である、と身をもって告知したも同然だからだ。いくら優しくフォローされるとわかっていても、わざわざ身を切られに踏み込んで行く馬鹿はそういない。
麻美のほうをそっと窺うと、憑き物が落ちたようにすっきりした顔をしていた。間接的に振られたようなものだから当然か。多分、いろいろな意味で夢から覚めたのだろう。しばらくして件のウェイターがパンケーキを運んで来ると、さっきまでの澄ました態度が嘘のように、元気に食べ始めた。
結局。
「パンケーキ、本当にすっごいふわふわでおいしかったです! 今度はコーヒーを飲みに来ますね!」
一番に会計を済ませると、麻美はそう言ってウェイターに手を振った。
「……お前、本当にまた来るの?」
入口のところで俺が小声で聞くと、麻美は喫茶店のドアを押し開けながらにっと笑った。
「パンケーキおいしかったし、イケメンに会えるしね! 保養保養!」
まあ、あの様子なら麻美のほうは大丈夫だろう。次に会計を済ませたルリが外に出るときに無言で視線を交わし、俺はレジの前に立つ九条の横顔を仏頂面で見守った。
「それではご注文はハーブティー、子猫の夢ですね。お会計は七百円になります」
九条は財布から千円札を出し、ウェイターに渡した。
「では、千円のお預かりで、三百円のお返しになります」
ウェイターはお釣りとレシートを九条の手に乗せ、デフォルトの微笑みを向けた。
「ありがとうございました」
以上。
って、ちょーっっと待てーい! いくら何でも、何もなさすぎるだろ! マニュアルの練習じゃねーんだぞ! 最初から最後までそわそわそわそわしていたくせに、九条てめえ、一体何してやがんだ! 千円札を渡したときも、お釣りを受け取るときも、物言いたげに口を開いては閉じ開いては閉じを繰り返し、潤んだ瞳をゆらゆらゆらゆら彷徨わせた挙句、何も言えずに終わるとか! じれったいにも程がある!
俺はぐぐっと拳を握り締めた。今しかないんだぞ! 麻美もルリもいない。客席から少し離れているレジの会話なら、誰にも聞かれない。ウェイターだって、俺があの時、教室の外で盗み聞きしていた奴だと気づいているはずだ。行動を起こすなら今しかないんだぞ!
俺の脅しにも近い祈りが届いたのか、九条は不意に決然と顔を上げ、受け取ったお釣りをぎゅっと握り締めた。
「あ、の! また、来ても、いいですか……っ?」
九条にとっては精一杯の言葉に、ウェイターは瞬きを一つし、デフォルトの微笑みを向けた。
「はい。お待ちしております」
俺は思わず額に手をやった。
乙女か! お前は乙女なのか! お前はいつになったら夢から覚めるんだよ! 魔法が解けてないの、はっきり言ってお前だけだぞ! 馬鹿なら馬鹿らしく、潔くわざわざ身を切られに踏み込んで行けよ! この馬鹿野郎!
今度の俺の罵倒は届いたかもしれないが、九条の実行には至らなかった。さすがに悄然とした様子でレジから離れた九条と入れ替わるように、俺はレジの前に立った。静かに、だがカウンターに身を乗り出すように千円札を置き、下からねめつけるように低く唸った。
「……おい、俺の友達に中途半端なことしたら、許さねえぞ」
ウェイターは少し驚いたように瞬きを一つし、それからデフォルトじゃない微笑みを大きく浮かべた。
「はい」
……いやいやいや、意味、ちゃんとわかってる? 何でそんな嬉しそうなのよ? 自分で言うのもナンだけど、俺、今、全力で脅してるつもりなんだけど。え? 何? 威力が足りないの? 一応、精一杯頑張ってるけど、ただの小市民でヤンキーじゃないから、効果がないの? 俺、泣いちゃうよ?
俺の心の声を知ってか知らずか、ウェイターは何事もなかったかのようにレジを打ち、お釣りとレシートを俺に渡すと、爽やかな微笑みとともに俺を店内から送り出した。
「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
くそっ、二度と来るか! と内心喚きながら、俺は仏頂面で店を後にした。喫茶店から少し離れたところには麻美とルリがいて、何やら楽しそうに喋っている。ルリに目をやると、にこっと笑って言った。
「わたしと麻美ちゃんはこれからカラオケ行くけど、二人はどうする?」
「俺はいい」
九条と一度ちゃんと話をする必要があるからな。じっとりと視線を投げると、九条は妙に上気した頬で、落ち着かなげな眼差しを返してきた。
「俺も、今日はいいや」
「了解。じゃねー」
「おう」
ひらひら手を振りながら去っていく二人の後姿を見ると、あっちの心配は本当にもう要らないだろう。麻美のことはルリに任せておけばいい。で、だ。
俺は改めて、仏頂面で九条に向き直った。淡く染まった頬、緊張に潤んだ瞳、忙しなく繰り返される瞬き。何でまたそわそわしてるんだ? さっきまでの悄然とした様子はどうした? ほんのちょっと目を離した隙に、一体何が起こったわけ?
俺の疑問に応えようとしてか、九条は大きく深呼吸して、言った。
「今からちょっと、時間いい?」
*
九条はこの後バイトがあるということで、俺たちは駅前の小さな広場の隅にあるベンチに座っていた。改札に向かうルートから外れているから人もあまりそばを通らないし、曇ってはいるが寒くもない。手短に話をするにはちょうどいい場所だ。
「で、何があったか、ちゃんと説明してくれんだよなぁあ?」
「ちょっ、中井、顔怖い……」
「誰のせいだ、ああ?」
「すみません……」
身を縮めた九条に、俺は肩を竦めて見せた。
「で、何? お前あんま時間ないんだろ? 俺は今日、大丈夫だけど」
九条は瞬きを一つすると、微笑んだ。
「……中井って優しいよね」
「うん、知ってる。それで?」
九条はくすくす笑った。
「面倒見いいし、面白いし、かっこいいし」
「何? 惚れちゃった?」
「うんうん、ずっと前から惚れてるよ」
一拍置いてから、九条は茶目っぽく付け加えた。
「友達としてね」
「おう、よく知ってる。それで?」
いよいよ本題に入るのか、九条は緊張したように瞬きをした。
「えっと、俺もまだ、ちゃんと見てないんだけど、メモ、みたいの、もらった……気がする」
……気がする、のか……。もはや何とも言えない顔つきになった俺に、九条は慌てて言った。
「レシートの下に小さな紙があったの、財布に入れようとしたとき、気づいて……でも、びっくりしすぎて、誰かに見つかったらいけないし……急いで財布に入れたから、まだ、見てない……」
「なるほど。それで今では、そのメモの存在すら自分の妄想ではないかと心配している、と」
神妙に頷いた九条に、俺は叫んだ。
「いいからさっさと確かめろよ! ほら!」
「わ、わかった!」
あ~、もう、本当に手がかかる奴だな。まあ、確かめるのが怖い気持ちもわかるけどな。
ため息をついている俺の横で、九条はいそいそと財布を手にすると、一瞬、祈るように目を瞑ってから、レシートの下にあった小さな紙片を取り出した。
「……あった……!」
「あったな」
勘違いじゃなくて、本当に何よりだ。まあ、一番の問題はそこに何が書いてあるか、なんだけど。
緊張した面持ちで俺のほうをちらっと見た九条に、俺は軽く手を振った。
「俺はそっち見ないから。適当に中身確認してくれ。で、言いたいことができたら呼んでくれ」
俺が横を向くと、九条が大きく息を吸い込むのが聞こえた。少しして、二つ折りの紙片をゆっくりと開く気配が伝わってくる。さて、俺に求められるリアクションは何だ? できれば、慰めるようなものじゃないといい。
「……何ていうか……」
沈黙の後、意外とすぐに戸惑った声が聞こえ、俺はゆっくりと振り返った。取り敢えず、呼ばれていると思っていいのか?
「何だよ?」
拍子抜けしたような顔で、九条は小さな紙を俺に見せた。
「……電話番号と、時間が書いてあった」
ああ、うん、確かに。って、これ……。
「固定電話の番号!? 携帯じゃねぇの!? 何で!?」
俺の驚きに、九条は平然と笑って答えた。
「ああ、だって広瀬さん、携帯持ってないって言ってたから」
えええ、今時? 今時、携帯持ってないって……。ああ~、何か今になっていろいろと謎が解けた気がする。九条が妙に確信をもって広瀬さんを無職だと思った理由。いくら九条がのんびりしているとはいえ、連絡先を交換していなかった理由。そして俺はハッと顔を上げた。
「まさか、店の番号じゃねぇだろうな!?」
俺の疑心暗鬼ぶりが面白かったのか、九条は笑いながら紙のカードを財布から出して見せた。
「さすがに違うよ。ほら、喫茶店の番号じゃないし」
「……っていうか、何それ」
「ん? 喫茶店のショップカード。レジのところにあったから、一枚もらってきた」
いつの間に。いつの間にそんな芸当を。こいつホント、広瀬さんのことになると急に一部分だけポンコツじゃなくなるな。ギャップがありすぎて、いっそ怖くなるレベルだ。しかも自覚なしとか、怖すぎる。
「あ~、えっと、それじゃ自宅の番号ってことでいいんだな。よかったじゃん」
気を取り直し、俺が話を進めようとすると、九条は再び、最初に見せたきょとん顔になった。
「よかった、のかな?」
「よかっただろ? 少なくとも連絡していいってことだし。さっきも、お前のこと忘れてたとか、完全に無視してたわけじゃないってことになるだろうし」
まあ、改めて振られる可能性は残ってるけどな。それでも、もう一度ちゃんと話をしようと思ってくれたのなら、ずっといい。ま、だからって俺としては、喫茶店での仕打ちを許すつもりはないけどな。
「連絡……広瀬さんに、電話……」
ぼうっとした様子で呟いていた九条は、不意に、そしてようやく、全ての意味を理解したようにぼっと赤くなった。そうか、こいつ、頭に理解が追い付いてなかったのか……。こういうところはいつも以上にポンコツで、ホント心配になる。
「な、中井……! ど、どうしよう、どうしたら……!」
パニックというものを改めて体現している友人に、俺は淡々と諭した。
「いいから落ち着け。大きく息を吸って、吐いて」
俺の言うとおりに深呼吸をした九条に、ゆっくりと進言した。
「ここに電話しろ。この時間、19時から21時なら本人が出られるってことだろ、多分。実家なら家族が出る可能性もあるけど、そこは何とか乗り切れ」
「わ、わかった」
「今日はバイトあるって言ってたけど、電話、間に合いそうなのか?」
「八時半までだから、ギリギリだけど間に合う。と思う。今日は絶対、定時で上がる。最初に、店長に全力でお願いする」
「お、おお。それがいいな」
半端ない気合の入れように圧されつつ、俺は同意した。まあ、こいつの場合、普段がお人好しすぎるから、これくらいでちょうどいいだろう。
「中井、あのさ」
「うん?」
「ありがと。本当に」
目元を淡く染めた九条に、俺はにっと笑い返した。
「おう! また振られたら慰めてやんよ。その代わり、昼飯一回お前の奢りな」
「何か矛盾してない!?」
「してないしてない。正当な労働の対価だろ」
ぷーっと膨れた九条に軽く手を振り、俺はベンチから立ち上がった。
「じゃあな、頑張れよ」
はっきり言って、この時の俺は何も期待していなかった。精々、次に会う約束をしたとか、最悪、もう一度きっぱりと振られたとか、そんなもんだろうと。
だからその翌日、俺はあいつが泣きはらした目で登校してきた場合を想定し、教室のドアをくぐった。
*
で、結果。
「おはよう! 中井」
初めて見るような、眩しい笑顔の九条に迎えられ、俺は戸惑いを隠せなかった。
「……おう、はよ」
「昨日は本当にありがとう。全部、中井のおかげだよ」
上気した頬でキラキラした眼差しを向けられるほどに、俺の不安は募っていった。なになになに、一体どうした。よくわからないけど、お前、絶対騙されてる。
さすがに俺の不信感に気づいたのか、九条は俺を教室の隅に引っ張っていくと、少し恥ずかし気に報告してきた。
「あの、何ていうか……その。広瀬さんと、つ、付き合うことに、なった……っていうか」
「はあっ?」
「ちょっ、声、大きい……」
耳を押さえてよろめいた九条を見ながら、俺の不信感は更に膨れ上がるばかりだった。
「いやいやいや、お前、絶対騙されてる。お前、大丈夫か? いや、大丈夫じゃない!」
半ば混乱気味の俺に、九条は慌てて口を挟んだ。
「待って。ちゃんと話聞いて。大丈夫。俺は大丈夫だから」
それでも当然のことながら不信の目を向けた俺に、九条は必死の眼差しでもう一度言った。
「大丈夫。本当に、大丈夫だから」
もちろん、そんなので俺が信じるいわれはない。だが、話くらい聞いてやろうと思うほどには、落ち着きを取り戻した。とんだ超展開だよ。まったく、ありえない。多分、ずっと彼氏もいないと思っていた娘が急に結婚すると男を家に連れてきたら、父親はこんな風にパニックになるのだろうと、突然、思ってしまった。それくらいびっくりした。
九条は、俺が一応おとなしくなったのを見ると、静かに言った。
「あとで、ちゃんと説明する」
これじゃあいつもと正反対だな。自分に向かって苦笑すると、俺は九条に頷いた。
「わかった」
ちょうど先生が教室に入ってきたのを見て、俺たちはそれぞれ席に着いた。前の席に座るルリが情報過多な眼差しを向けてきたが、俺は瞬き一つで応酬した。ルリは目をちょっと見開いて見せると、すぐに前を向いた。
やれやれ、空気を読み過ぎる奴ってのも大変だ。麻美と違って、ルリを誤魔化すのは難しいからな。っていうか、本当に誤魔化せたことは一度もない。実際は誤魔化されてもらってるだけだ。俺は内心ため息をついた。
教科書を開き、俺はノートを取り始めたが、授業の内容は少しも頭に入ってこなかった。
*
「……で、何があったんだ?」
前にもこんなことがあった気がする。この、中庭の雑木林の周りにある全く同じベンチに座って、昼飯を食いながら九条を問い質した記憶は、まだそう遠くない。
九条はゆらりと視線を泳がせたあと、躊躇いがちに口を開いた。
「……昨日、電話したんだ。広瀬さんに」
「おう」
「ちゃんと、店長が定時で上がらせてくれたから、八時半に終わって、すぐ着替えて、店の外に出て……四十五分くらいに、電話した。昨日は自転車じゃなかったから、帰り道、歩きながら」
「おう」
「それで……電話したら、すぐに広瀬さんが出てくれた。いつもみたいな話し方で……。えっと、その、つまり、喫茶店にいたときの広瀬さんは、全然、俺の知ってる広瀬さんじゃなくて、あの時はそのこともびっくりしちゃって、何も言えなくなっちゃって……でも、電話の声は俺の知ってる、いつもの広瀬さんだったから、少し、ほっとした」
「あのさぁ、それは俺もちょっと引っかかってたんだけど。喫茶店のウェイターはこう、何ていうか、笑顔も喋り方も、全身何処にも隙がないって感じでさぁ。黙って立ってるだけですげー目立つし、めちゃくちゃイケメンだし、イケボだし、残念な要素が一つもなくて、ホント完璧だったじゃん」
「そ、うだね」
少し照れ気味に、九条は同意した。一応、俺はまだ認めてないけど、付き合ってる奴が手放しに褒められたら嬉しいのはわかる。が、何かムカつくな。
「でも、前に話を聞いた感じだと、もっと存在自体が地味っていうか。コミュ障のニートって感じだったじゃん」
「コミュ障のニート……」
「いや、まあ、実際、コミュ障でもニートでもなかったわけだけど……」
俺が慌てて言いかけると、九条は遮るように頷いた。
「確かに、あの時はそうだったみたい、だけど。でも、そうなんだよ。俺が好きになったのは、コミュ障でニートの広瀬さんだったんだ」
「え……」
いいのか? そこ、認めちゃって本当にいいの? 何か、いろいろと人間として大丈夫か?
不安げな俺をよそに、九条は改めて納得したように言った。
「昨日、俺、喫茶店で完璧に格好いい広瀬さん見て、本当にすごいなって思ったんだけど、それ以上に気後れしちゃったっていうか……。全然、俺には手が届かない人で、話しかけたり、まして男の俺が好きになったりしちゃいけないんじゃないかって。でも、それと同時に、俺が好きになった広瀬さんとは別人みたいで、本当にどうしたらいいかわからなくなっちゃって。だから、電話の声がいつもの、俺が知ってる、俺の好きな広瀬さんの喋り方だったから、嬉しかったんだ」
……う~ん、まあ、好みは人それぞれだし? 喫茶店のキャラが一般受けするのは間違いないけど、きっと本来の広瀬さんは、九条の好きなコミュ障のほうなんだろう。だとしたら、この二人は俺が思っているよりずっとお似合いなのかもしれない。いや、俺はまだ認めてないけどね。
「それで、結局どういう感じで付き合うみたいな話になっちゃったわけ?」
俺が話を元に戻すと、九条はぽっと頬を染めた。
「それは、あの、何ていうか……俺が、喫茶店に来てくれて、嬉しかったって、広瀬さん言ってくれて。でも、あそこで声をかけたら俺に迷惑がかかるからって。そんなことないって、俺、言ったんだけど、とにかく、俺を知らないふりしたことも、ちゃんと謝ってくれて……」
九条は本当に気づいていないようだが、俺は理解した。それは広瀬さんが正しいわ。女性がちょっと触れようとしただけで、店内が一瞬凍りついたんだぞ。確かに広瀬さんが避けたことでの出来事だったけど、あれは避けなくても面倒なことになってたはずだ。モテるってのも想像以上に大変だな。こうなると、広瀬さんの陰キャは結構、闇が深いかもしれないな。
「どっちから告ったの?」
身も蓋もない俺の質問に、九条はますます顔を赤くした。
「ひ、広瀬さんが……一緒にいたいって。こ、恋人として」
「ふぅ~ん……」
明後日の方向を見ながら焼きそばパンを齧りだした俺に気づくと、九条は真っ赤な顔で憤った。
「だから! どうしてそこで急に興味なくすんだよ!」
「何か、そこはかとなくムカついた」
「ムカつかないで!」
妙に切実な声音に、俺は思わず噴き出した。
「あー……、やばい。焼きそばちょっと飛んだ」
「もう、きったないなぁ」
「誰のせいだ、誰の」
顔を見合わせると、今度は二人して笑い出した。取り敢えず気が済むまで笑うと、俺は言った。
「よし、それで? 今度はいつ逢うの? まだ約束とかしてないわけ?」
「え? あの、今日、放課後。広瀬さん、ちょうど仕事休みなんだって。俺もバイトないし。電話じゃなくて、ちゃんと逢いたいって、その、言ってくれて」
すぐに発火する友人を見つめながら、俺はにぃっと笑みの形に唇を歪めた。
「オッケー、俺もちょうどサークル行きたくない気分だから、一緒に行くわ」
「え、いや、何で……」
「一緒に行く」
「ちょっ、えええ……」
こうして俺は友人の快諾を得て、初デートに同行することになった。
*
「あ、広瀬さんだ」
放課後。待ち合わせ場所の、大学近くの大きな公園の一角にある広い池の端に着くと、九条はぱっと顔を明るくした。
「え、いや、何処よ?」
近くにあるいくつかのベンチに目をやるが、見つからない。もっと遠くか? きょろきょろしている俺に構わず、九条はててて、と浮かれた足取りで一番近いベンチに駆け寄った。
「広瀬さん! すみません。待ちましたか?」
いやいや、そいつは違うだろ、と俺が思った瞬間。まるで急に日が差したかのように、そいつの存在が明るく照らし出された。さっきまでシルエットしかないモブみたいな存在だったのが、いきなり特大の羽根飾りを背負って大階段を下りてくる宝塚のトップスター並みの存在感で、俺の目に飛び込んできた。が、思わずぎょっとした俺に向こうが気づいた途端、その存在感がしゅるしゅると萎み、あっという間に元のモブ状態に戻った。
「あ、サンテグジュペリ、連れてきてくれたんですね」
九条は今の現象に全く気付いていないのか、広瀬さんの手から嬉しそうにアメリカンショートヘアの子猫を受け取ると、無邪気に笑いながら抱っこしている。
いやいやいや、今の何? オーラの出し入れ、半端ない! しかも超無表情! はっきり言って怖すぎるんですけど! 九条は何でそんな普通なの? おかしいだろ!
「あれ? 中井、どうしたの?」
鈍感すぎる友人に慄きすら感じながら、俺はしぶしぶ二人に近寄った。あ~、やだ。何かもう、おうち帰りたい……。今日こそは猫の王様に言いたいこと全部ぶちまけてやるぜ、と意気込んできたのにこの体たらく。情けなくても構わない。猫の王様は、想像以上に得体が知れなかった。
めちゃくちゃ気が進まないまま、俺は猫の王様であり、喫茶店の完璧なウェイターであり、コミュ障のニートである広瀬さんの前に立った。
「……どうも」
仏頂面でガンを飛ばした俺を見ると、完璧に無表情だった広瀬さんは一瞬だけ、ほんの僅かに微笑みを浮かべた。
「昨日は、店に来てくれて、ありがとう」
「いえ」
マジで昨日とは別人だな。さっきの突然のオーラ放出にも驚いたが、今は目の前にいるのに、存在が儚すぎていつ消えてもおかしくない雰囲気だ。ちゃんとよく見れば昨日と変わらないイケメンなのに、一体どうしてだ。無表情だからか? せっかくのイケボも以前盗み聞きした時と同じ、ぼそぼそした喋り方のせいで聞き取りにくい。間違いなく九条が好きなコミュ障バージョンだが、これのどこがいいのかさっぱりわからん。
ふと、隣から強烈な視線を感じ、俺は九条に目をやった。
「……何だよ?」
「べっつにぃ」
膨れっ面でぷいっと横を向いた友人に、俺はびっくりして目を瞬いた。何? 何なの? つーか、ぷいって何だ。ぷいって。子供か! お前は子供なのか!
「悪いけど」
「はい?」
急に話しかけられ、俺は戸惑い気味に広瀬さんを見た。やばい。目の前にいるのに本気で存在を忘れかけてた。つーか、間近で見るイケメンの無表情、怖い。
「先に少しだけ、九条くんと話してもいい?」
「え、あの、はい」
わざわざ俺に断りを入れるとか、一体何の話だ? 訝しく思いながらも、広瀬さんの真正面に立っていた俺は、九条と入れ替わるように数歩その場から離れた。
九条が前に立つと、広瀬さんは無表情のまま少し首を傾げた。ホント、つくづく表情ないな。昨日は表情筋ちゃんと生きてただろ。好きな奴がそこにいるんだぞ。もっと嬉しそうな顔しろよ。九条的にはこれでいいわけ? コミュ障のときは、無表情がデフォなのか?
もやもやしながら俺が見ていると、九条は少し残念そうな顔で頷き、広瀬さんに子猫を返した。
「また、あとで抱っこしてもいいですか?」
広瀬さんが微かに頷く。
ん? 何か今、一瞬場面がスキップした? 子猫を返せって台詞あった? 何でわかるんだよ。首を傾げただけだろ?
俺の疑問には構わず、広瀬さんは当然のように受け取った子猫を隣のキャリーバッグに入れた。何だ? 俺の勘違い、気のせいか?
更なるもやもやを抱いている俺の前で、広瀬さんは九条の手をそっと握り、ベンチから立ち上がった。そしてそのまま九条の前に跪く。
「昨日も言ったけど、電話越しじゃなくて、ちゃんと君の顔を見て言いたかったから」
うえっ、ちょっ、一体何を始める気だよ? 言っとくが、ここは外で公共の場だ。少し離れたところでは老人や母子が平和に散歩している真昼間だよ? にも関わらず、無表情なコミュ障イケメン野郎は、俺の目の前で友人の手を取り、語り始めた。
「昨日、君が店に来てくれて、嬉しかった。本当はもっと、自分が君に相応しくなれたと思えるようになってから、逢いに行きたかった。俺は君よりずっと年上だし、仕事もしてなくて、どうして君がこんな俺のことを好きになってくれたのか、わからない。でも、俺は君と一緒にいた時間、いつも幸せだった。一生懸命で、不器用で、優しい君のおかげで、俺も頑張ろうと思えるようになった。まだ、君には全然敵わないけど、それでも、君と一緒にいたい。君が、もういいと思うまで、俺と、ずっと一緒にいてほしい」
広瀬さんに手を握られたその瞬間から、ただひたすらにその眼差しを見つめ、その言葉に耳を傾けていた九条は、息もできないような顔で、その続きを聞いた。
「君のことが好きです。俺と付き合ってください」
瞬きをした途端、九条の瞳から大粒の涙がこぼれた。
「──……は、い……。こちらこそ、よろしく、お願いします……っ」
広瀬さんはすっと立ち上がると、握っていた九条の左手の薬指に軽く唇を落とした。九条の頬がふわあっと桜色に染まる。広瀬さんは愛おしげに目を優しくたわめると、恋人をそっと抱きしめた……。
っていうことが、俺のすぐ目の前で展開された。
ちょっ、えっ、俺、何で今ここにいんの? いや、確かに、九条と話をするって断りは入れられたけど! 別に、二人きりにしてくれとは言われなかった。だろ? 何? これは見せつけられてんの? それとも俺の存在、忘れられてる?
もはや身動きしてもいいのかもわからない状態で俺が立ち竦んでいると、ゆっくりと九条を腕の中から解放した広瀬さんと、不意に目が合った。あまりの気まずさに言葉も出ない俺を見て、広瀬さんが不思議そうに小さく首を傾げる。
ああ~、うん。これ、後者だったわ。見せつけられるよりはマシだったけど、いくら何でも俺の存在なさすぎじゃね!? 例え無言でも、今のは俺にも聞こえたぞ。てめー、俺のこと見て、誰だっけ? って思っただろ! 九条は九条で、慌てて広瀬さんの後ろに隠れようとしているし。今更恥ずかしがってるんじゃねえよ! 恥ずかしいのはこっちのほうだ!
さすがにイラっとして九条を睨みつけると、広瀬さんが庇うように立ちはだかる。過保護か! まったく、どいつもこいつも……。呆れすぎて怒りも消え失せる始末だ。
「おい、九条……」
話にならん今日は帰る、と思って俺が声をかけたとき、ようやく背中から顔を出そうとした九条の前に、再び広瀬さんが立ちふさがった。
ん?
もう一度、反対側から九条が顔を出そうとすると、やはりすぐに広瀬さんが壁になる。
ん? 何だ? 何が起こってる?
最初はタイミングが合わないのかと思ったが、そうじゃない。広瀬さんがじっと俺を見ているのに気づき、その理由に思い至った。
あ~、何コレ、そういうこと? 無表情のくせにわかりやすすぎだろ! 何かもう、逆に可愛いな!
「……おい、九条。ちょっと広瀬さん借りるぞ」
「えっ?」
「いっすよね?」
俺が目の前の無表情を挑戦的に見上げると、全てを理解したように広瀬さんが頷いた。
「わかった」
「えっ、ちょっ、えっ……」
戸惑う友人に、キャリーバッグの乗った後ろのベンチを指さし、俺は言った。
「九条はそこで猫と遊んでて」
そして俺が再び広瀬さんに目をやると、無言で頷く。オッケーオッケー。話が早い。
「じゃ、そゆことで。お前はおとなしくそこで待ってろ」
「えええええ……」
不満げな友人をそこに残し、俺は広瀬さんを伴ったまま公園の広い遊歩道を横切ると、九条とは斜め向かいのベンチに座った。少し間をあけ、隣に広瀬さんが腰かける。九条と猫の様子は見えるが、普通に話す分には声が届かない、絶妙な距離感だ。九条は不貞腐れた顔でこちらを見ていたが、広瀬さんがキャリーバッグを示すと、文句を言いたいのに顔が緩んでしまうのを止められずに悔しい、といった複雑な表情で子猫を抱いた。
「……一応、最初に言っておきますけど。俺、九条に対して恋愛感情とか、一切ないんで」
俺の言葉を聞いた瞬間、隣の男は赤くなった顔を両手で覆った。うわお、図星か。というか、反応わかりやすいな。何だろう。思ってたのと全然違う。コミュ障バージョンも喫茶店バージョンも、一見すると取っつきにくそうだったけど、こうしていると何かいろいろと可愛いんだよな。
と、不意に向こう岸から殺意にも似た波動を感じて、俺はぎくりとした。やべぇ、九条がめっちゃこっち睨んでる。こっちっていうか、完全に俺だ。原因は一つしかない。俺は隣の男を極力目に入れないようにしながら、笑顔で九条に手を振った。またしてもぷいっと顔をそむけた友人にムカつきながら、俺は青筋を張り付けた笑顔のまま、小声で広瀬さんに言った。
「……すいません。マジで無表情に戻ってもらえます? あんたの恋人がめっちゃ俺のこと睨んでくるんですけど」
「──悪い」
そう言って上げた広瀬さんの顔は赤みも失せ、鉄面皮のような無表情に戻っていて、俺は安堵しつつも恐怖するという、滅多にない感覚を味わった。
「……何で、わかった?」
「いやいやいや、普通にわかりますよ。九条が俺に見られないように、全力で隠してたじゃないですか。好きな奴が赤くなって照れてるとこ、他の人間に見られたくないの、俺にもわかるんで」
一瞬、広瀬さんの視線を感じたものの、俺たちは互いに顔を合わせないまま、主に向こう岸の九条と猫を眺めながら会話を続けた。どうやら九条は、こちらの様子が気になって仕方ないにも関わらず、全力で気にしていないふりをしようと、頑張って子猫に意識を集中しているようだった。
「というか、俺としてはむしろ、あんたに聞きたくてここに来たんですけど。あいつのどこが好きなんですか? 失礼ですけど、もともと男が恋愛対象ってわけじゃないんですよね」
「……前にも聞いてるかもしれないけど、俺はあまり人間が好きじゃない」
「はあ……」
そういや、廊下で盗み聞きしてるとき、確かにそんなことを九条に言ってたな。多少、気まずい思いをしていると、広瀬さんは淡々と付け加えた。
「別に、厭味のつもりはない」
「そりゃどうも。それで?」
こいつ相手にいろいろと気を遣うのも馬鹿らしい、と俺は開き直ることにした。
「要するに、あんたは九条のことを人間扱いしてないってことですか?」
敢えて意地悪な言い方をした俺に、広瀬さんはあっさりと頷いた。
「そうだね。ちなみに今は、君のことも人間扱いしていない」
「なっ……!」
反射的に攻撃態勢を取りかけたものの、隣の男があまりにも穏やかな顔をしているのに気づき、取り敢えず矛を収めた。一つ息を吸い、冷静に尋ねる。
「……あなたにとっての人間扱いって、どうすることですか?」
そうだ。この人は俺の一般的な感覚とは異なる次元で生きている。表面上の言葉に惑わされると、意思の疎通ができないタイプだ。しかも今、こいつは自分の感覚と世間一般の感覚がずれているのを明確にわかっていて、わざと直さず俺に提示した。多分、俺は今、不本意ながらも試されているのだろう。それに乗ってやるのも悪くはない。逆に俺も試してやる。
広瀬さんは瞬きを一つすると、解説した。
「俺は昨日、君のことを人間扱いした。喫茶店にいる客、オーナー、もちろん九条くんのこともだ。大勢の人間の相手をしなければならないあの場で、一人だけ特別扱いすることはできない。何故なら、俺にとっての人間とは、物理的にも精神的にも、全力で回避する対象だからだ。笑顔も、聞こえのいい言葉も、優しい態度も、俺にとっては他人から適切な距離を取るための、ただの防御壁に過ぎない」
俺は耳から入ってきた、冷徹ともいえるこいつの人間観をゆっくりと吟味した。人間嫌いにとっての人間扱いとは、全力での拒絶、というわけか。喫茶店での柔和な接客には、俺も微笑みの壁みたいなものを感じていた。逆説的ではあるが、本質的な話をすれば、この人が人当たりの良い態度を取らないほうが、つまり人間扱いされないほうが好意的だということだ。まるで言葉遊びだな。
「……それじゃあ、どうして今、俺にその聞こえのいい言葉を使わないんですか? 気づいてると思いますけど、俺はどっちかっていうと、あんたのこと、あんまよく思ってないんで」
「そうだな。君は俺があまり好きじゃない。だからこそ、俺は俺のままでいても、常に君と一定の距離感を保っていられる。そこが安心だ」
俺はちらりと思案した。
「それはつまり、好意を向けられるのが苦手ってことですか?」
「そうなるね」
うわぁ、こいつ超面倒くさい奴だわ。基本、関わりたくないタイプ。ひねくれているにも程がある。どうりで、昨日も女性客からの接触を避けるわけだ。
「でも、九条からの好意はいいんですね。さっきも自分から触ってたし」
「そうだね。何でだろう。最初から、九条くんは怖くないんだよね」
怖い……嫌いは嫌いでも、そういう感覚なのか。
「俺のことは怖くないんですか? まあ、俺はあんたのこと好きじゃないですけど」
この人と話していると、感覚が違い過ぎて、時々、自分が何言ってるのかわからなくなってくるな。
広瀬さんは答えを探すように俺を見た。
「怖くはない。普通かな。俺にとって、君はちょうどいい」
「そっすか。全然嬉しくないですけど、どうも」
「それに君は、九条くんの大切な友達だから」
ほんの僅かな、しかし本物の微笑みを広瀬さんから向けられ、俺はドキッとした。
「昨日も、今日も。君は本当に九条くんのことを心配して来てくれた。ありがとう」
昨日、喫茶店のレジで、本来なら不快に思うはずの俺の態度に、広瀬さんがデフォルトじゃない大きな微笑みを浮かべた理由が、今わかった。と同時に、友人からの突き刺さるような眼差しを感じ、俺は顔を引きつらせた。が、まだ肝心の話を聞いていない。俺は友人を無視して話を続けた。
「え、え~っと、それじゃあ、どうして九条のことは好きなんですか? あなたにとって性別は関係ない。でも、九条は生物学的にも、間違いなく人間ですよね」
俺の問いに、広瀬さんは無表情に戻って首を傾げた。
「九条くんは、あんまり人間ぽくないよね」
「そうですか?」
「うん」
「どこらへんが?」
「何かこう、全体的に。可愛いよね」
今度は俺が首を傾げた。
「……見た目が、ですか?」
はっきり言って地味じゃね? つーか、良くも悪くも普通だよな。全体的に、目立たない感じ。
が、恋人の欲目なのか、広瀬さんはほわほわした面持ちで言った。
「見た目も、可愛いよね。だけど、中身も、可愛い」
「はあ……」
何だろう、この不毛な会話は。つーか、この人、急に馬鹿になったな。語彙力死んでるし。さっきまであんなに雄弁だったのに。
「じゃあ……九条のどんなところが好きなんですか? 具体的に」
遊歩道を隔てて九条を見つめる広瀬さんの目が、すっと優しくなった。
「──……九条くんは、いつも一生懸命だよね。自分のことより他人を優先するところとか、すごく、心配になる。以前、九条くんに、俺は自分を大切にしないから嫌いだって言われたことがある。でも、俺から見たら、九条くんだって同じなんだよね。俺は、九条くんのそういうところも好きだけど、そうして傷つくところは見たくない。優しくして、甘やかしたい。俺は、もしかしたら、九条くんに自己投影しているところがあるのかもしれないな。でも、九条くんは俺じゃない。俺よりずっと頑張って生きている。一人暮らしをしながら、大学に行って、バイトして。そういう人はたくさんいるし、もっと大変な人もいるだろう。でも、そういうことが全てというわけではなくて、俺にとっては、普通のことを普通に頑張っている九条くんが、特別なたった一人の存在なんだ」
そして広瀬さんは僅かな微笑みを引っ込めると、無表情に首を傾げた。
「何か、口では上手く説明できないな。もっとこう、いろいろあるんだけど」
「いや、もう十分です。むしろお腹いっぱいです。っていうか、俺からすると、広瀬さんのほうがよっぽど人間ぽくないんですけど。野生動物みたいっていうか……本当に、猫の王様みたいですよね」
「──猫の、王様……」
広瀬さんが思案するように、無表情に繰り返した。
んん? 何だ? 気を悪くしたか? いや、別にこの人にどう思われようと、俺は関係ないんだけど。と内心言い訳しつつも、俺は慌てて付け加えた。
「あ、いや。俺じゃないです。前に、九条がそう言ってたんです。広瀬さんのこと」
まあ、本当のことだし。
んが、その瞬間、広瀬さんが嬉しそうにほわあっと微笑み、俺はかえって友人からの眼差しに凍えるような思いをすることになった。
「あの、広瀬さん。ホントそれ、マジでやめてもらっていいですか? あいつの殺気、マジやばい……」
「ああ、うん」
広瀬さんは瞬時に無表情に戻った。まったく、イケメンは無表情でもイケメンだな。
その時、俺は向こう岸の九条がきゅっと唇を引き結んだのに気づいた。あ、まずい。いよいよ我慢の限界が来たらしい。俺はすぐに立ち上がれるよう、鞄を肩に掛け直し、辺りを軽く見まわした。うん、忘れ物はない。いや、あった。
「っていうか、一つ気になってたんですけど。広瀬さんて年、いくつなんですか?」
「三十九」
さりげなく腰をずらし、ベンチに浅く座っていた俺は、思わずのけぞった。
「うえっ、マジですか」
想像以上におっさんの年齢だ。アラフォーだよ。つーか、俺たちから見たら、ほとんど親の世代だよ。
瞬時に浮かんだ感想の中で一番マシなものを、俺は口にした。
「すげー若く見えますね……」
「よく言われる。アラフォーだし、普通におっさんだし、九条くんとは親子みたいな年齢差だよね」
うえっ、何、この人。すげー怖い。エスパーなの? 思ったこと全て筒抜けなんですけど。そういや九条も前にそんなようなこと言ってたけど、もっとほんわかした感じかと思ってた。
広瀬さんと会話しながらも、俺は向こう岸への注意を怠らなかった。九条は子猫をキャリーバッグに入れ、自分の鞄を掛け直している。これはそろそろマジでやばい。広瀬さんは九条の様子も俺の動きも見ているはずだが、自分には実害がないと踏んでいるのか、淡々と話し続けている。
「まあ、俺はちゃんと生きてこなかったからな」
「それはあの、ちゃんと働いてなかった……ってことですか?」
「うん。聞いてたよね? 廊下で」
「いや、まあ、聞いてましたけども! 廊下で!」
この人、実はドSなの? っていうか、俺、ホントは嫌われてる? この人、意外と当たりが強いよね。
向こう岸で九条が立ち上がったのを見て、俺もまたベンチから立ち上がった。九条がキャリーバッグに手をかけるのを見ながら、俺は広瀬さんに早口に聞いた。
「本当にずっとニートだったんですか? 昨日の様子を見てる限り、三週間前まで何もしてなかったとは思えないんですけど。大体、入ってすぐの奴に新しいメニューの開発を任せるとかないでしょ。あ、いや、もともとあったオリジナルブレンドの分量を、レシピ見ながら混ぜているだけってことも……でも、それだとブレンドしてるって言い方にはならないか……」
どうでもいいっちゃどうでもいいんだが、気になることも気になる。こんな機会はもうない。疑問はできる限りすっきりさせて、もう二度とこの人と会わなくて済むようにしたい。
キャリーバッグを持って遊歩道を横切ろうとしている九条が、ウォーキングの老人夫婦が通りすぎるのをじりじりと待っているときも、俺は現在の状況と自分の思考との間を忙しなく行き来した。考えをまとめる暇もないまま、半ば独り言のように口にした俺の疑問に、広瀬さんは律儀に答えた。
「接客を再開して、給料をもらい始めたのは、本当に一か月前からだよ。それが猫を飼う条件だったからね。それまでは気が向いたときに、帳簿とか仕入れを手伝ったり、裏方のことは少しやってたけど、別に給料とかはもらってなかった。まあ、実際ふらふらしてただけだしね」
「え? 接客を再開って……」
「前はやってたんだけど、ちょっと、潔癖症とか、強迫神経症とか、人間嫌いを拗らせちゃって。十年くらい、マスク着用が必須の生活をしてたからね……」
さすがに少し苦い表情を滲ませた広瀬さんと、いよいよ遊歩道を渡り始めた九条に目をやりながら、俺は率直な感想を一言述べた。
「うわあ、それは何か、マジやばいっス」
「うん」
広瀬さんは、如何にもどうでもいい俺の感想を気にした様子もなく、相槌を打った。その間に俺はベンチの後ろに回り込み、慌ただしく会話を続けた。
「でも、それじゃあ、あの喫茶店は……」
「オーナーはうちの近所に住んでいる人で、親ともずっと昔からの知り合いだから、いつも俺の我儘を聞いてもらっちゃってるんだよね」
「なるほど! いろいろ理解しました。じゃ、俺はこれで!」
九条が遊歩道を渡りきる前に、俺は会話を切り上げた。そのまま片手を上げて撤退しかけた俺の横顔に、広瀬さんは淡々と告げた。
「ルリルリによろしく」
「うえっ?」
脈絡がない名前の出現に、俺はぎくりと立ち止まった。硬直している俺のことを如何にも無表情に見つめながら、広瀬さんは言った。
「君の彼女、友達にそう呼ばれてたよね」
「かの、えっ、どうし……っ?」
パニクる俺に構わず、広瀬さんは首を傾げて言った。
「普通にわかる」
聞き覚えのあるフレーズに、俺は顔を赤くした。あああ、畜生! さっきの仕返しかよ! どんだけ負けず嫌いなんだ!
遊歩道を渡り切った九条を見て、急いで身を翻しながらも、俺は全力で言い捨てた。
「明日、九条の機嫌が直ってなかったら、マジで許さないんで!」
「あ、ちょっ、中井!」
寸でのところで逃げ切った俺の背後で、九条が広瀬さんを問い詰めている声が聞こえた。
「二人でずっと何を話してたんですか? すごい、楽しそうだったですけど!」
「ん? 九条くんのこと、いろいろ話してた」
「そ、んなこと言っても、俺、誤魔化されないですからね! ちゃんと、話、聞くまで!」
遠ざかりつつある友人の声を聞きながら、俺は安堵した。あ~、これは大丈夫なヤツだわ。広瀬さん、そいつは任せた! マジでよろしく!
振り返っても友人の姿が見えなくなったのを確認し、俺はようやく足を緩めた。やれやれ、まったく酷い目に遭ったな。約束の時間を確かめようと携帯を取り出したところでちょうど電話が鳴り、俺は着信相手の名前を見て小さく笑った。ホント、さすがだな。お前のこういうとこ、マジで好きだわ。
電話に出ると、俺は言った。
「おう、俺。ちょうど用事終わったとこ。……ん、わかった。すぐそっち行くわ」
電話を切ると、俺は待ち合わせ場所に向かった。
*
「悪い、待たせた」
「大丈夫。わたしも今、来たとこ~」
駅前の小さな広場にある時計の下で、ルリがぱっと花咲くように微笑んだ。友達と一緒にいるときには絶対に見せない表情だ。高校の時から、すでに一年以上は付き合っているんだが、二人きりで逢うときのこいつは本当に可愛すぎて、いまだに困る。今日、大学で逢ったばかりなのに、嬉しそうな顔しすぎだろ。ホントもう、誰にも見せたくないくらい可愛いよな。広瀬さんの気持ち、マジわかるわ。
思わず緩みそうになる頬を何とか自制し、俺は軽く咳払いした。
「そっちの用事は終わったのか?」
「うん。良さそうな資料いくつか借りてきた。後で圭くんにも貸すね」
「サンキュ」
この、二人のときだけ名前呼びするところとか、ほんとマジ天使。
「それで、どうだったの?」
いつも課題をするときに使っている近くのファミレスに向かいながら、ルリが尋ねた。
「ああ~、うん。取り敢えずは大丈夫っぽい、かな」
少し言葉を濁した俺に、ルリがちらりと目をやる。
「どこらへんは大丈夫そうなの?」
「すげーラブラブだった」
ルリが驚きに目を瞬く。
「九条くんが?」
「うん」
「子猫の王子様と?」
「ああ、うん。っていうか、その呼び方やめない? それ聞くたびに、王子の格好した子猫が思い浮かぶんだけど!」
瞬きを一つしたあと、ルリはけらけら笑った。
「何それ、可愛い! 本人と全然違う!」
「いやいやいや、普通に思い浮かぶだろ! 王子の格好した子猫!」
「ああ~、うん、そっか。それでいつも微妙な顔してたんだ」
まだちょっと笑いが残っているルリに、俺は念を押した。
「わかったら、その呼び方やめようぜ。マジで」
「じゃあ……、猫の王様? 何か、前に言ってたよね」
「いや、まあ、九条が前にな。って、もう普通に広瀬さんでいいじゃん」
「そっか。あ、っていうか、子猫は? 連れてきてた? 写真、撮らせてもらえた?」
キラキラした目で矢継ぎ早に質問してきたルリに、俺は思わず言葉に詰まった。これこそまさに、言葉にできない可愛さだ。が、それ以上に。
「あ~……、忘れた。悪い。つーか今度、九条に頼めよ」
目を逸らしてガシガシと頭を掻いた俺に、ルリがむくれる。
「も~う、楽しみにしてたのに」
「悪かったって」
「抱っことかしたの?」
「だから、それどころじゃなかったんだって」
ルリがぷうっと頬を膨らませる。何これマジで可愛いな。
「もう、九条くんに頼んで直接会わせてもらおうかな」
「あ~……、それは無理じゃね?」
「何で?」
「俺、広瀬さんとちょっと話しただけで、九条にめっちゃ睨まれた」
ルリが大きく目を見開く。うん、びっくりした顔も可愛いんだよな。
「あの九条くんが? マジで?」
「マジで。俺、最後、九条から逃げてきたんだぜ。明日、九条の機嫌が直ってなかったら、あいつ、マジで許さねえ」
ぐっと拳を握り締めた俺を見ると、ルリはふ~んと鼻を鳴らした。
「何だよ?」
「べっつにぃ? ま、九条くんは本当に大丈夫みたいだね」
はっきり言ってルリの判断基準は俺にもよくわからないが、ほとんどの場合当たっているから不思議なものだ。
「でも、喫茶店以外で広瀬さんに会うのは、マジでやめたほうがいい」
俺が真顔で言うと、ルリは何故か堪え切れないように唇を緩ませた。
「ええー、まあ、確かに格好いいよね。すごく」
「いや、っていうか、あの人マジ怖い」
「……何か言われた?」
同じく真顔になったルリに、俺は言った。
「……ルリルリによろしくって。あいつ、俺たちのこと気づいてた」
一瞬の間をおいて、ルリは全てを理解したように顔を引きつらせた。
「いや、でも、九条くん……はいまだに気づいてないし、麻美ちゃんもそんなこと言ってないし、えええええ、でも、喫茶店でそんな素振り、わたしたちしてないよね!?」
「怖いだろ?」
「怖い! あ、でも、カマをかけられただけとか」
「そういう感じじゃ……あ、待った。何かメール来た。九条からだ」
メールを開いた俺は、思わずその場に立ち尽くした。ルリは首を傾げると、俺の携帯を覗き込み、はしゃいだ声を上げた。
「あ、子猫の写真! 可愛い! アメショーだ。この、タイトルのサンテグジュペリって何?」
「猫の名前」
ルリは楽しそうにくすくす笑った。
「ええー、何それ。じゃあ、この子が本当の子猫の王子様だね。っていうか、九条くん、どうしたんだろ。いきなりこんなの送ってきて」
「ここ」
俺が指したところを、ルリが読み上げる。
「猫の王様より、ルリルリへ……って、これ!」
俺は張り付けた笑顔をルリに向けた。
「ああ、広瀬さんからお前にってことだな」
「え、写真のこと、何か言った?」
「いや、だから悪いけど、まるっきり忘れてたんだって」
「何で猫の王様って自称してるの?」
「それはさっき俺が言った。九条が命名したって言ったら、すげー気に入ってた」
「これからわたしと逢うって……」
「誰にも言ってない」
「……ヤバいね」
「だろ?」
俺は携帯をポケットに封印すると、何もなかったかのように言った。
「俺、今日は奮発してチョコレートパフェ食おうかな!」
「わたしも~!」
にこ~っと二人で微笑み合い、俺たちは再び目的地であるファミレスへと歩き出した。
しばらくして、俺は改めて口を開いた。
「……あのさ、ルリ」
「何?」
「今度、その、どこか遊びに行くか? たまには」
「いいよ。麻美ちゃんの予定、聞いておくね」
「いや、だから、そうじゃなくて。……デート、だよ」
少し赤くなった顔を隠すように、俺はふいとそっぽを向いた。
つられたように、ルリの頬も淡く染まる気配がした。
「ああ、うん、そだね。つい、いつもの癖で」
ちらりと俺が視線を送ると、ルリがふふっと嬉しそうに笑った。
「……デート、かぁ。楽しみ。久しぶりだよね。圭くん、最近ずっと九条くんのことばっかりだったからなぁ」
「お節介なのは、自分でもわかってるんだけどさ……」
歩きながら、ルリが俺の腕にぎゅうっとしがみつく。
「そうじゃなくて、妬けちゃうってこと!」
「おい、道の真ん中で引っ付くな。照れるだろ」
「照れるって自分で言っちゃうんだ。つまんないの」
「はいはい。それじゃあ放して」
ルリがぷうっと頬を膨らませる。ああ、もう、ほんとマジでやめてほしい。可愛すぎるだろ! 公共の場だぞ! 誰かに見られて、有象無象に惚れられたらどうする!
「……さっきの九条くんの写メ、送ってくれたら許す」
「マジか」
俺はすぐに、写メをルリに転送した。
ありがとう、サンテグジュペリ。いや……猫の王様。
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