鼓動の音

赤川凌我

第1話 鼓動の音

鼓動の音   赤川 凌我

上. Ryoga Disorder 

私はある中産階級の家庭に生まれた。父親は背の低い公務員で母親は背の低いパートタイマーだった。生まれた瞬間の記憶は稀に記憶している人間もいるらしいが、私にはその記憶はなかった。

最も最古の記憶で覚えているのは幼稚園の運送バスの中での記憶だった。年上の児童と仲良くしたり、同い年の児童と仲良くしたりしていたものだ。他にも私が幼稚園では誰か他の児童を突き飛ばして、彼がその衝撃で遊具に頭をぶつけ、血を流していたのを覚えている。私はおそらく小学校の二年生頃まで暴力漢で、友人も多かった。また言語の発達にも何の問題もなく、子供同士の遊びの中で幼年期を過ごした記憶が鮮明にある。最も脳機能の一環で不案内な部分は都合よく捏造されている可能性も否めないが、確率としてはそれも高くないだろう。

また一切記憶していないのだが同い年の女子児童から頬っぺたにキスをされたりしていたのも追記しておく。私は幼年期から美形であった事と、それが原因かは知らぬがモテていた事を示しておく。

またこの時の超自然的と言うべきか、不可思議な経験がある。私は当時の私の住居であったマンションで疲労の為に昼寝をしていた時、何か脳内のイメージなのか眼球の裏の効果なのかは知らないが、白色の光が見えた。私はその光に圧倒されていると光から何か言葉が聞こえて(残念な事に何を言っていたかは失念している)、その途端に私の知覚、神経全てが揺さぶられるような感じに襲われたのだ。私はこの経験を「神域からの貸与」と読んでいる。なぜならこれほどまでに神聖で、しなやかで、何かを与えられたような衝撃はそう命名するに値するものだろうからだ。

さて、小学校にあがると私は入学に伴う環境の変化に著しく当惑したが、それも時の変遷とともに次第に薄らいでいった。途中までは上手く勉強もしていたし、人生にも満足を感じていた。しかしある時を境に人生は薄汚く、不安と恐怖と嘲りに満ちた様相を呈するように見えていくのだった。

そのある時とは、二年生か三年生か忘却してしまったが、野球に興味を持つようになり地元の野球クラブ、リトルリーグとでも言うべき集団への加入を果たす時であった。入ってすぐにこれは駄目だと私は確信した。無論立場上、支配的な指導者は時代錯誤的な低俗にして、非文明的な発想の持ち主で、練習場にスパルタ的緊張感を与えていた。またプレーヤーも愚昧極まる連中で、非効率的で過剰にストイックな練習環境、さしあたり対外ストレスと呼ぶべきストレスに屈服し、それどころか喜んで未熟な英雄的精神に隷属していたのだ。のみならず、肌の変色しやすかった私の事を(当時の私の肌は黒に近い褐色)黒人、またはNHKの子供向けアニメに出てくる「ガングロ玉子」と言うキャラクターに着想を得て、そのままガングロ玉子と私を読んだ。日本人同士の、身体的特徴を風刺したレイシズム的ジョークに私は呆れ返って言葉も出なかった。こいつらは精神遅滞の、別次元の存在なのだと感じた。その点で差別のない、平等な大人達の提唱する国際平和など全体的には上っ面のいかさまで、同時に偽善である事をひしと感じた。人は平等などであっては愛も十分に得ることも出来ず、差別がなければ、自分が駄目ではないと、即時的な優越感に浸る事が出来る事を私は悟った。そして私は元来徳の高い人間である事を直に意識するのであった。

しかしそれでも同調圧力は酷いもので、仲良くなるためには彼らの残虐無道な様子を真似しなければならなかった。なので、人が私を迫害したように私も人を迫害した。これは後に野球を辞めてからも精神的安定を図るための共感重視の求愛行動となって私を更に堕落させた。

野球の男女両者共に気狂いにしか思えなかった、肥溜めのような環境を離れるべく、私は父親に辞めたいと迫った。しかし、彼は「一度やると決めた物事は最後まで続けてこそ後の人生にいい影響を残す」という詭弁にも似た格言及び信念を持っていたので簡単にはやめさせてもらえなかった。かといって軋轢もなかったが。最後には私のエゴが壊れそうになり、泣き落しで辞めさせてもらったのだが、あんな暗黒期間は読書や勉強でもしておいた方が遥かに後の人生に良い効用をもたらす事は知れていただけに、激しくトラウマ的で後悔した出来事である。

さて、小学校の交友関係には触れてなかったが、私は中学までは人気者で友達はかなり多かった。毎日誰かと遊んではへとへとになって家に帰宅していた。

しかし学業の方は野球のせいもあってまともに集中出来ず、当然振るわなかった。それでも塾に通わせてもらっていたのだが、どうにもならなかった。

中学校に入ってからは一念発起して、今までの自分のステレオタイプを砕き壊そうと勉強に熱を入れ始めた。また中学校に入っても親からは運動部に入らなければ家に入れないと言われていたので、仕方なく最も楽だと言われていたテニス部に入るのだがこれには熱を入れず、遊びのつもりでやりたかったのだが、やはり部活となるとストイックな練習がつきものなのでそこでもかなり苦労した。が、野球の経験程ではなかった。

私はとにかくがり勉と呼ばれようがノリが悪いと言われようがただひたすら、自らのステレオタイプを払拭し、より高次のものへと変革するために努力した。休み時間は専ら読書に勤しんだ。自然科学の本やギリシア文明の書物、伝記、哲学書、心理学書、そして何故かスティーブジョブズなどの自己啓発本などを読み漁った。また中学校の美術の時間では自らの芸術の才能も周囲に対し、これ見よがしに見せつけた。わざとピカソのような絵画スタイルで絵を描いたり、自らの独創性と関心の並外れている事を顕示しつくした。

そうしていく内に周りも段々と私に高い評価をするようになり、「天才」の名を欲しいままにし、また高知能の名も欲しいままにしたのだった。特にクラスメートからは「何か持っている」とか「IQ130以上」とか言われていた。私の所感としてはこれは当然の評価であったし、中学校での努力は努力というより単なるデモンストレーションと呼ぶべきものだった。

そして順調に人生を進めていった。中学三年生までは。中学三年生になり、部活も終わり、周りが勉強にフォーカスをあてはじめた時、私はもう勉強とか努力とかいったものには完全に白けてしまっていた。「今まで上手くいっていたことが急に上手くいかなくなる」のは統合失調症の潜伏期の症状だと後で知ったが、ここでは単に燃え尽きた、ともとれるので統合失調症の発症がここからなのかは現時点でも正確には把握できていない。とにかく白けてしまってからは夜更かしに興じるようになった。まるで痛ましい昼の生活から逃げるように私は夜に意識を向けていき、不眠も多くなっていった。

そのまま進路も投げやりに考えるようになり、ただ偏差値が高いからという理由だけである特殊な工業高校、高専への入学を望み、ろくな勉強もせずに入学した。

入学前は泣いた。後悔と自分への情けなさで一杯だった。専門科目にも興味はなかったのでおそらく勉強も振るわず、留年するだろうと思っていた。入学してからは自宅から通うのも手間がかかるということで、寮での生活が始まった。寮では勉強をしなかった。その上引き込もってネットサーフィンをしていた。大浴場ではよく涙を流していた。そんな中でも私を気にかけている者たちもいた。私が実家に帰るとき、荷物もちを手伝ってくれた時には嬉しかった。素直に、嬉しかったのだ。しかしそれでもあの時は自閉的でそんな気前の良い、優しい人とは友人にならなかった。

私は何も自信がなかった、華々しい中学時代の栄光も私を励ます原動力にはならなかった。またこの頃から同時にアニメからの剥離が起こってきて、オタクの多い高専の学生の話題にはついていけなくなった。授業中は「僕は何をしているんだろう」とよく思っていた。それほどまでに空虚で、また日常生活が的外れに思えた。私はそんな生活を継続する中、ある出来事が起こった。

主任の教員が海外に出張に行って代わりに違う教員が担当しているホームルームの朝、それは起こった。何が目的かは知らないが当時はスピーチなんてものを一人一人順番に行っていた。端的に言うと私はその時間中、芥川のある阿呆の一生を読んでいたのだ。それが教員にばれ、「おいお前、前に出てこい」と言われた。私は逆らう訳にも行かず渋々教卓の前に出た。そして私はこう言った、「何を言えばいいんでしょうか?」、彼は「何を言うんでしょうね?」と疑問文に疑問文で答えたので私は苛ついて彼の言葉をおうむ返しした。そして然る後に、とりあえず「すみません」と緊張感と圧迫感から涙声で謝った。すると彼に「席に戻れ」と言われた。私は即座に自分の席に戻り、ホームルームは教員指導のもと、再開し、気を取り直してまた芥川を読み始めた。

すると数秒後、後頭部に強い衝撃が走った。脳に直接硫酸を浴びたかのような鋭い痛みに耐えかねて、私は上を見上げた。すると例の教員がいた。「おいお前舐めとんのか」、頭への強い衝撃から分かるように彼は全霊の力を持って私を叩いたのだろう。この事からも彼が私の挙動によって自尊心を傷つけられ、怒り心頭な事は明白だった。勿論私は彼を舐めていたし、のみならず、自分を苦しめる社会すらも舐めていたが、更なる体罰は遠慮願いたかったので、「もう(ホームルームが)終わったのかと」と言うと、彼は「まだ終わってないわ」と言い、ホームルーム終了と同時に「お前後で俺の部屋にこい」と言われた。しかしながら、私は彼の部屋は勿論の事、彼の名前すら知らなかったので行けなかった。そして行く気もなかった。彼の顔などは二度と見たくなかった。まあもし行くのだとすれば殺人の名目で、だろうが。

この日を境に私の心は完全に病んでいった、あの場、私が叩かれたあと、「すっきりしたわ」とか「笑ってしまったわ」とか言っている生徒もいた。私はあの教員と互いの自尊心を刺し違えたのだ。最も、立ち直り方が分からず、精神病あるいは抑うつ症が深刻なため、私の方が予後が悪かったのだが。それでも己を変革出来ず、静かな絶望感の中過ごすのは耐えられなかったので、私は次第に学校を退学する事を考えるようになった。理由は学校に馴染めないのと、専門科目が私には(主観的には)不適合だったからだ。

そして学生寮も退寮して、実家からの通学になってもやはり意思は変わらず、遂に私は高専を退学した。退学した後も学習は続けたかったので、私は公立の高校に入り直した。日高高校と言う高校だった。

新しい高校に入学してからは上手くいっていた。高専は男子が多かったので忘れていたが私は美形だったので、女性にはモテた。それに勉強も学年でトップクラスだった。所属していた部活では(山岳部)、「エース」だと言われていた。七月頃からは身長185cmの友達に影響されて、バレー部にも入った。バレー部の連中は非常に良い連中で、私はすごく安心感を覚えた。しかし、病気は更に悪化していった。自分には相応しくない(少なくとも自分にはそう思えた)栄光を手にいれて、白けてしまった。上手くいきすぎて辛い、という謎の情動だ。

そして八月の夏休み中、男女共同でバレー部の練習をしていると、ある女子が笑っていた。「キモイ」とか言いながら、よく見るとどうやらこちらを見ているらしい(裸眼)。私は自分の事を言われている気分になった。その日から私に対する主に悪口と悪意のある表情の合わせ技による迫害は始まった。

電車でも私を迫害する、道路でも、店でも、自宅でも、そして無論、学校でも。それが続く中、私はまともに学校に通えなくなった。しばらく引きこもり、四六時中携帯でネットサーフィンをしていた。しかしそれを続けていく内にこれでは駄目だと思いたち、八月からの一連の私に対する迫害は精神病、神経症のいずれかであると推理した。即ち、迫害は迫害妄想で、悪口は被害妄想ではないかと、自らの知覚そのものを疑ったのだ。デカルトは「コギトエルゴスム(我思う、故に我あり)」と述べたが、この時の私は「我思う、故に病苦あり」だった。

私は始めに日高高校の近辺にある心療内科を訪れて、診察で自分に起こっている事を述べた。そこから主治医は私に異常がある事を察し、向精神薬を処方した。私はその日から向精神薬を飲み始め、学校にも通い始めた。しかし太る一方で迫害は止まなかった。足がむずむずしたりもしたが、結局本質的な改善には至らなかった。それでも毎週足繁く病院に通った。また、母の勧めで占いにも行った。占師、ヒーラーと呼ばれる占師は私について、「頭が良すぎて生きにくい」とか「普通の人には思い付かない事を思い付く」と述べた。今の私はこの事に同意するが、当時は占師の言葉に懐疑的だった。現実では負け犬な私がそんな尊大な存在だとは思えなかった。

病院は結局一年生の二学期後半まで通ったが、地元の方が色々と便利だろうとの事で田辺市の精神科に通い始めた。最初は一番目の精神科と同じだったが、途中で良い薬をみつけた。ルーランという薬だ。この薬のおかげで頭のざわめきは収まり、幻聴(この頃は私の病は統合失調症だと断定されている)も収まった。また主治医も老年の好人物で、趣味もあった。彼は私の人生ではじめて出来た、「親友」であり、「恩師」になった。学校での陰鬱な生活とは裏腹に彼との診察は楽しかった。私は毎週、彼との診察を楽しみにしていた。病院以外では、占いもカウンセリングもした。そこでも私が高知能であることは再三再四、言われていた。それでも自信がつかなかった。そんな中でも時は過ぎていく。

私は19歳、高校三年生になった。受験のシーズンが始まるとクラスの連中が徐々に勉強の準備を始める。そんな中、私は病気の都合上、長期間にわたり、重い負荷私は19歳、高校三年生になった。受験のシーズンが始まるとクラスの連中が徐々に勉強の準備を始める。そんな中、私は病気の都合上、長期間にわたり、重い負荷がかかる受験は向いていないと思い、教師に勧められたある大学を公募推薦で受けて、合格した。


下. The Tragic And The Sabbath

私は実家の和歌山県の南部にある田辺市から京都の障害者が成員で成り立っているとある精神科系列の支援施設であるグループホームに帰還した。実は私は正直グループホームにもその元凶であるデイケアナイトケアのケアシステムからも身を退きたいと考えていたし、現在進行形で考えてもいる。 私はトイレも、浴室も共同なのが第一に気に入らなかった。それに苦手な知的障害のありそうなメンバーと顔を合わせる機会の多い二階の個室で住むのは耐えられなかった。

私は大学二回生の夏休みが始まって即座に実家に帰省したが、和歌山県での生活にも業を煮やしたような、またほとほと呆れたような感情を抱き先週の水曜日、9月11日に京都に戻った。学業の為だ。私は夏休み中一旦京都に日帰りで来たとき、診療所に医療費を払いに行くのとホクホクと言う医療支援施設から医者に一人暮らししても良いかの許可を診察で貰うのを兼ねて現在も所属している診療所に訪れた。折しもそこでケースワーカーがいて、ならグループホームでは二階から一階に移動すればどうかの提案と、またデイケアナイトケアの食事も摂らなくて良いとの許可も出した。私はそれなら及第点でいいだろうと思い、そのベクトルで計画を推進していこうという意志を私はデモンストレーションをし、それが決まった。

そして先週の水曜日である。まず例のケースワーカーにあわなければいけなかったので診療所のデイケアに来訪した。すると昼ごはんはここで食べていけと勢いで言われて否応なしにそこで食べてしまった。昼ごはんは親に持たされていたのに。非常に屈辱的な、馬鹿にされている気分だった。そもそも私はケアシステムの独特の雰囲気が極端に苦手なのだ。京都に戻ってからはその日の内に二階の荷物を懇意な間柄のケースワーカーに手伝ってもらって一階に運搬した。そして百円ローソンに向かい朝ごはんのバナナと、ペットボトルの無糖コーヒー、それから惣菜を買い込んだ。それから浴室に赴き、お湯を張った。またそれから自然な流れで早めの入浴を済ませた。

次の日は金曜日、12日だった。私は朝、ケースワーカーの指示通り、デイケアに顔を見せたら、面目躍如にケアシステムのスタッフに「あ、赤川君」と言われた。正直の所顔を見せるのも嫌だったのに、気づかれるなんて生理的嫌悪感を感じた。もうこれだけでメンタル的には大ダメージだった。私はその後金閣寺に観光に行った。移動手段は自転車であった。参拝料金に400円を消費し、その日は屈辱の外食だった。私は京都に来たら昼は自炊して弁当にしようと思い、決定していたのに。日中の活動は大方終了し、また私は入浴を早めに済ませた。またこの時私はやや長期にわたる孤独感を感じていた。えもいわれぬような寂寥感に自分自身のエゴ、即ち障害者として扱われたくない、見られたくないとの強調するべき感情が沸点を越えそうになった。私は、グループホームの宿直の者から向精神薬を渡されたり、気持ち悪い程柔和な取り扱われ方に酷く気が滅入る情動に駆られていた。

その次の日、土曜日に私は一見悲劇のような脚本を道化根性で演じるコメディアンのような様相になっていた。私は点在する農協や郵便局をまだ訪れなかった。何故ならば親から持たされた何枚かの千円札があったからである。私は事実として年季のある言辞的技巧の寵児でもなければ、天才的な小説の構成能力、あるいは驚愕するようなどんでん返しの能力にも恵まれない、悲観と拘泥の象徴とも呼べる惨めな21歳の若者である。従ってこの手記を厚顔にも残滓として完成させるだけの資格などあるのか疑問を呈する所であるが、私は筒井康隆の岩波新書、『短編小説講義』を読んで筆を走らせるばかりである、従って筒井氏の著作がある種のモチベーションになっている事は否めない。将来的には万雷の拍手を持って人々に絶賛される何かを書きたい。私は作家志望なのだ。

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