一零の露

@Lunatic_Artist_Team

一雫の露

 日中は暖かく、夕方から少し肌寒い、そんな季節が今年も顔を覗かせている。

 樹木の間から刺さる暖かい日差しが、瞑っている瞳の上をチラつかせ、水流の音が囁いてくる。僕のお気に入りの場所だ。

 何より一番のお気に入りなのは、僕の心を惹かせる香りが漂う、一輪の花だ。

 風に揺れる度に放たれる妖艶な香り。

 この季節、この場所で、なぜか一週間だけ咲く。

 数年前、携帯で地図を見ながら目的地を目指していた僕は、正確であるはずの電子機器の地図を使っているにも関わらず、迷子になってしまい、気づいた時には森の中にいた。

 そこで出会った虫や鳥、様々な生き物が怯えた顔で僕を見つめていた。

 人間が入ってくるのは珍しい、怖い、そんな感情が胸に刺さってきた。

 ゆっくりと歩んでいると、凄まじい勢いで飛び付いてきた虫にとびきり驚いてしまった僕は、三十センチメートル程の崖で足を踏み外し、崖下に落ちてしまった。

 そう、僕は虫が嫌いだ。

 なぜ迷った時に引き返さなかったのか後悔した僕は恐る恐る周りをゆっくりと見渡した。

 そして見つけたんだ。

 あの一輪の花を。

 その時から、花の隣で過ごす一週間は、僕にとっての生きがいになった。

 だが僕は、これがどういう花でなぜ一週間で枯れてしまうのか、謎に包まれている妖艶な花に惹かれて、三百六十五日を四回ほど回った。

 この花の隣で寝ている時だけ、必ず同じ夢を見る。

 名前も顔も知らない、ブラウス姿に黒のパンツ、ジャケットをひざ掛けの用に被せている女性が出てくる。

 女性はこちらを振り返り、知り合いのような挨拶を交わしてくる。


「よっ、元気にしてたかい?」

「はい…そこそこ…」


 見ず知らずの女性に声をかけられても、どう反応していいかわからず、モゴモゴとした返事しかできなかった。

 誰なのか考えている間も彼女は笑みを浮かべ、青年を見つめている。


「あの、何か付いてますか…?」


 頬や唇、目元などを洋服の裾で拭ってみたが、何も取れず、慌てていた。

 彼女は、段々と笑いがこらえられなくなり、吹き出してしまった。

 恥ずかしくなり、近くの水流に顔を突込み、付いている何かと顔の熱と一緒に落としていた。


「あはは!ごめん、何も付いてないよ」


 折角落とした顔の熱が再び現れ、羞恥心のあまり顔を上げられなくなった。


「ちょっと抜けてて、でも純粋な心を持ってる。私はいつまで経っても、君を忘れられないなぁ」


 不思議な事を言う彼女に驚き、気付いた時には顔を上げ目が合っていた。

 風で流れてくる彼女の香りが鼻をくすぐる。


「はぁ…いい匂い……」

「えっ…?!」


 思った言葉がつい漏れていた。

 何を隠そう、僕は匂いフェチだ。

 好みの匂いが香ってくるだけでキュンとしてしまう体質なのだ。

 だけどこの香り、どこかで一度嗅いだことがあるのを身体が覚えている。


「すいません、好みの匂いだったので心の声が…」

「あはは、そうだったんだ!そんなこと言われたのは人生で二度目だよ〜」


 彼女の言葉が鼓膜から脳に届くまで一瞬のはずなのに、なぜかその時は数分経っていた気がする。


「僕と同じ好みの人がいるなんて奇遇ですね。友達になりたい」

「友達になれるよ〜!むしろ本人だったりして!」


 有り得ない。彼女とは初対面で話すのも初めてなのだから。

 そう自分に言い聞かせているが、身体がそわそわしている。


「そうだったらまだ一回目ですよ」

「あ、ほんとだ!じゃあ一回目、初めてってことにしとこうかな〜。」


 初対面とは思えないほど話しやすく、過去の思い出、自分の身の回りの事、何でも話してしまう自分がいた。

 不思議な感覚。まるで心の中を次々と引き抜かれているかのようだ。


「こんなこと聞いていいのか分からないんですけど、お姉さんは普段何をされてる人なんですか?」


 質問をした直後、彼女が少し固まったように見えた。


「ん〜、好きな人がいるんだけど、その人と会えなくなってからずっと探してるの!」


 数秒前の彼女が嘘のように、少女のような表情で少し照れながら言った。


「その好きな人ってどんな人なんですか?」


 彼女は「気になる?気になる?」とここぞとばかりに話してくれた。


「近所に住んでた男の子なんだけど、何考えてるかわからなくって、でも好奇心旺盛で気になることがあったらなんでも試したくなるようなチャレンジャーだったの!」


 懐かしそうに話す彼女は、まるで青春を謳歌している女子高生さながらだった。


「でね!その男の子と両想いになれたの!すごくない?!」

「すごいですね。告白はどっちからしたんですか?」


 その質問に、僕の方を見ながら静かに答えた。


「…だよ」


 急に風が吹き、僕の耳に重要な部分は聞こえなかった。


「すいません、風で聞こえなかったのでもう一回お願いします」

「あれ〜、どっちだっけなぁ。昔すぎて忘れちゃった」


 照れ笑いしながら彼女はそう言った。

 気になったが、しつこく聞いてはいけない。

 そんな気がしてそれ以上は何も聞けなかった。

 静けさが一瞬通り過ぎると、彼女は僕の方を向き話を続けた。


「もっと話してもいい?その子はね〜、頼み事とかする時、すっごい甘え上手だから、つい、いいよ〜って言っちゃってたの!それが何回もあってね〜」


 すごく幸せそうに好きな人との楽しかった思い出話をする彼女は、とても幸福感溢れる笑顔だった。

 まだその時間を生きているかのような、過去の話をしているようには思えないほどに。

 様々な話をしている彼女の盛り上がりとは裏腹に、草木が突然音を鳴らさなくなった。


「彼が言ったの。卒業式の一週間前だったかな。好きな人が死んだら、どんな気持ちになるのか気になるって」

「……」


 それほど気温も低くないはずなのに、僕の身体は急激な寒さを覚えた。

 彼女は笑っているが、とても冷たい。

 目の前にある川が凍ってしまうのではないかと、そう思わせる程に冷たい声色をしていた。


「馬鹿だよねぇ、そんな願い誰も聞いてくれないに決まってるのにね〜!」

「あ…それなら無事に断れ……」


 彼女は僕が言葉を言い切る前に、言葉を発していた。


「受け入れたよ。下を見たら森があったから、そのまま飛び降りたの」


 ドクン。


 身体に電撃が走ったように鼓動が強く跳ね上がる。


 ドクンドクン。


 体温が上昇していくのがわかる。

 凄く身体が熱い。


 ドクンドクンドクン。


 あの時から僕は何か気づいてたのではないだろうか。

 出会った時に嗅いだことのある匂い。

 次々と溢れてくる思い出。


 何故今まで何も思い出さなかった?


 一緒にいると落ち着く感覚。

 何でも話してしまうのはなぜだろうか。


 初対面で少し話しただけでそんな落ち着けるか?


 空っぽだった僕の脳内に、津波のような勢いで流れてくる記憶。


 そうだ、あの時僕は彼女に、遠回しに''死んで欲しい''と言ってしまった。

 僕の軽率な発言のせいで、彼女は死んでしまった。

 後悔した。なぜあの時そんな言葉を発してしまったのか。

 彼女は笑いながら、冗談交じりに断ってくれると期待していた。

 だが現実は理想とは違い、彼女は''分かった''その一言だけを発して、目の前から居なくなってしまった。


 帰ってきて。いなくならないで。ごめんなさい。許してください。どこにも行かないで。


 その言葉たちは乱雑に頭の中に流れ続ける。

 どんなに願っても彼女は帰ってこない。

 死んでしまったら、もう何の願いも叶わないのに。


「どうして泣いているの?」


 彼女から発せられた言葉で我に返る。

 頬を伝う何かが、地面に吸い込まれる。

 彼女の顔を見ると、一滴だった何かが、零れ落ちてくる。

 彼女の名前も、どんな人だったのかも全て思い出した。


「その表情、やっと思い出したんだね、棗」

「ごめん、愛華。何もかも思い出した。どんなに酷いことをしたのか、謝っても許されないのは分かってる。けど、それでも、ごめん」


 僕…いや俺はずっと記憶に蓋をしていた。

 愛華を死に追いやったのは俺だ。

 俺の身勝手な発言で愛華を殺してしまった。


「いいよ、私は棗が好きだから答えたんだよ。だから顔を上げて」


「愛華……。愛華はずっとここに、こんな人気のない場所にずっと一人でいたのか…?」


「そうだよ。ここにしか居られないんだ。私の最後の場所だから」


 愛華は少し寂しげに言ったが、なぜか表情は少しだけ懐かしさを感じさせるように微笑んでいた。

 周りを見渡すと、あの日愛華が飛び降りた高台があった。

 そうか、ここに落ちて、最後を迎えたんだ。

 記憶が戻ったことで、脳への負担が強く、段々と意識が朦朧としてくる。


「ねぇ棗。最後にお願いがあるんだけど、いいかな?」


 愛華は満面の笑みを浮かべながら、俺の耳元で囁いた。


『これからもずっと一緒にいたいな』


 目が覚めると、そこには愛華はいなかった。

 隣を見ると、花から露が垂れていた。


「なんでお前が泣くんだよ」


 この時、俺はこの花が愛華だとわかった。

 花は枯れ、次の季節がやってくる。

 来年もまた、愛華は現れるだろうか。

 あの花が咲けば分かる。

 そう願わずにはいられなかった。


 次の一週間が来ることは無いのに。

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