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木野春雪

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 黒田と白井さんの時間は帰りのバスが来るまでの五分間だけだ。

 白井さんはいつも友達に囲まれていて、トイレに行く時も誰かと一緒でなければ気が済まない性格らしく、ただクラスメイトであるというだけの黒田にいつも、五分間の雑談を強要する。


 内容はアイドルが出ているドラマの話とか、化粧品のメーカーの話とか、「LINEで告白する奴ってないよね〜」とか。どれも黒田には縁のない話だ。正直言ってつまらない。


 それでも無理矢理愛想笑いを作って、白井さんが不快にならないよう程度に相槌を打ってしまうのは、白井さんが黒田より上のカーストの人間であるという侘しい意識があるからだ。

 生来の性格と言ってしまえばそれまでだ。けれども、あまりにも惨めだ。


 何が惨めかって、五分が過ぎてしまえば白井さんは黒田のことなんて忘れるだろうに、黒田は家に帰ってからも悶々とひとりで考えてしまうのだ。


 ーーーーあの時、きちんと返事できていなかったな。顔ちょっと引きつっていたかな。喋る前に「あ、」って言っちゃった。白井さん、コミュ障だって思っているんだろうな。心の中で、笑っているんだろうな。


 決めた。

 明日は白井さんを無視しよう。

 イヤホンを突っ込んで、本を開いて、白井さんが来ても気付いていない振りをしよう。


 「あー黒田さん、聞いて聞いて。昨日の夜、私の弟がうざかったんだけどさ…」

 白井さんの甲高い声が、心臓の血管を圧迫するようだった。振り向きたい衝動を抑えて、本に集中する。文字は眼球の表面を滑って、ちっとも頭に入ってくれない。


 「黒田さんってばぁ、人が喋っているのに読書なんて礼儀知らずだよ!」

 ひょいと本を奪われた。

 「あ」

 「黒田さん、こんな字の細かい本読んでるの?国語の宿題?うわー難しそー面白いの?」


 いつになく嘲るような口調に流石にムッとした。

 人の勝手でしょう、と言おうとしたところを寸のところで思い直して、

 「面白いよ」

 と言った。声が震えていなかったか、気がかりだった。


 「ふうん」

 白井さんはつまらなそうに呟いて、本をペラペラとめくった。返してくれない。白井さんはペラペラとページをめくり続けた。

 そして一番初めのページに戻って、じっと目を落とした。

 「ねえこれ、この漢字なんて読むの?」


 その日から五分間強制雑談は、白井さんの五分間読書タイムへと変わった。しかし白井さんは静かにはしてくれなかった。


 白井さんはとにかく漢字が読めず、慣用句の知識もなく、自分の胸ポケットの中にある超便利通信機器の使い方を知らないのか、分からないことがあるといちいち「ねえねえ」と小煩く黒田に尋ねた。


 これまで強制雑談を拒めなかったように、黒田は白井さんの質問にいちいち答えざるを得なかった。雑談と違い、これには新しい発見があった。


 「ねえねえこれなんて読むの?」白井さんが指し示した文字は「破綻」だった。「はじょう?」


 黒田は信じられない気持ちで白井さんを二度見したが、確かに「破綻」の「たん」はテレビのニュースのテロップでも「破たん」と書かれて出ることが多い。とはいえ常用漢字ではあるはずだ。


 しかしまさか、同程度の学力の子供が集められたはずの同じ高校のクラスメイトが「破綻」を読めないとは。

 白井さんは学力が破綻しているのでは?!と黒田は思った。もちろん口には出さず、「はたんだよ」と教えてやった。


 白井さんは、

 「へー!黒田さん、頭いいね!」

 と花が咲くように笑った。


 その笑顔に、黒田の心は掴まれた。「頭がいい」と言われたことが単純に嬉しかった。

 それに、白井さんがたとえ一瞬でも単なる暇つぶし以上の価値を見出してくれたことに、心が躍った。

 

 黒田は内心その躍動を否定し、抵抗したが無駄だった。その夜、黒田はなかなか寝付けなかった。

 何度も何度も、白井さんの「頭いいね!」が頭の中で再生され、黒田の心をくすぐった。


 黒田は自分の情けなさに涙が出そうになった。この程度の褒め言葉なんて白井さんの中では、いいや白井さん以外のクラスメイトの間でも当たり前にやり取りされている日常会話だろう。

 それなのに自分は、まるで告白でもされたかのように過剰反応している。黒田の胸のたかぶりは、たしかに恋をしたときのときめきに似ていたかもしれない。もっとも黒田は、恋をしたこともないのだが。


 翌朝、学校にて。

 教室に入ろうとした黒田は白井さんと鉢合わせた。二人はクラスメイトであるから鉢合わせてもおかしくないのだが、黒田はにわかに緊張した。


 動揺からか、黒田は普段とは違う行動を取った。

 「おはよう」

 と白井さんに挨拶をしたのだ。実際はもっと吃っていて

 「おおおおおおおはよう」

 となっていただろう。しかし黒田にとっても白井さんにとっても、それは細やかな問題だった。


 二人は普段、すれ違っても挨拶をするような関係ではない。なぜならカーストが違うから。二人は友達ではないから。

 白井さんは長い睫毛を瞬かせて、珍しい虫を見たような目つきで黒田を見つめた。


 白井さんは、

 「ああ、うん、おはよう」

 と軽く返事をして、廊下に友達を見つけてさっと黒田の横を通り過ぎた。


 「ねえねえ、昨日のドラマの話なんだけどね…」

 快活な白井さんの声を背中に聞きながら、黒田は教室の中に入り、自分の席に着いた。

朝のクラスメイトの喧騒が、普段よりも大きく黒田を攻めた。


 吐きそうだった。

 息が苦しくなり、目眩がした。


 白井さんにとって黒田は、五分間の暇つぶしの相手でしかない。一体黒田は何を期待していたのだろう。


 ーーー白井さん、わたしのこと、馴れ馴れしい自意識過剰な奴だって思ったかな。


 しかし黒田のこの考えこそ、自意識過剰なのだった。

 白井さんは廊下にいた友達とドラマの話で盛り上がって、黒田の挨拶のことなどすでに頭から消えていた。


 黒田は一通り後悔してし、羞恥に苛まれた。

 それである程度は落ち着いて、鞄から本を取り出し、開いた。いつも通りの黒田の朝だ。

 白井さんのことを、すぐには頭から追い出せないが、やがて忘れる。

 黒田はそう自分に言い聞かせた。言い聞かせ続けながら、文字を追った。もう何度も読んだ小説なので、読みながら考えごとができた。


 今日から、バスの時間をずらそうと黒田は思った。

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分別 木野春雪 @kinoharuyuki

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