外伝

Maison de la sorcière

※本編ネタバレあり。本編連載に伴って非公開にしていたものを改題して再掲。


   ◆◆◆ ◆◆◆


 丘の上には魔女の館があるらしい。


 魔女の住まいと言ったら、知佳にもだいたいどんなものか想像がつく。壁面をツタが覆い、煙突からは絶えず煙が立ち上るレンガ造りの洋館。カーテンで覆われた窓からはときおり、魔女が鍋をかき回す影が覗く。


「館と言うと誤解するかもかもしれないけど――」


 操緒は知佳の想像を遮るようにして言った。魔女が住んでいるのは、ありふれた高層マンションの最上階だという。マンションにはおしゃれなフランス語の名前がついているが、それを日本語にすると魔女の館になるそうだ。


 操緒の言うことだから、端から信用するつもりはなかった。きっと絵本か何かの受け売りだろう。一〇歳ともなれば魔女や吸血鬼が存在しないことくらいはわかる。操緒だってそうだろう。このませた双子の弟はわかっていてこういうことを言うのだ。


「魔女なんていない」と言ったところで、少しも動じない。「どうしてさ」そうおもしろそうに問い返すだけ。口がうまい操緒に対して魔女の不在が証明できるとも思えない。知佳は素直に話の続きを聞くことにした。


 魔女は毎日せっせと手紙をしたためる。それが彼女の魔法だ。絵本の魔女がトカゲの尻尾や猫の髭を使って怪しげな薬を作るように、その魔女はありったけの悪意と根も葉もない噂、それから少しばかりの真実を混ぜ合わせて手紙の文面を考える。宛先はほとんど無差別だった。ちっちゃな女の子から、余生を楽しむ老人まで、手紙を受け取った人間は例外なく疑い深くなり、友達や家族とぎくしゃくしはじめ、しょっちゅう喧嘩するようになった。おかげでこの街では刃傷沙汰が絶えないという。


「魔女はどうしてそんなことをするの?」


「さあ」操緒は興味なさげに言った。「楽しいからじゃないかな」


「みんな喧嘩してるのに? そんなの全然楽しくないよ」


「お姉ちゃんは優しいんだね」


 生まれたのが数分違うだけで姉も弟も何もない。操緒が「お姉ちゃん」なんて呼ぶのはからかってるときだけだ。だから、知佳はこう返す。


「その呼び方はやめてって言ってるでしょ。


 知佳はため息をついた。追い打ちをかけるようにして、空っ風が吹き下ろしてくる。短い髪が風に乱れ、顔にかかった。


 晴天の昼下がりとはいえ、寒気が衰えることはない。ダッフルコートの襟に頭まですっぽりと埋めたい気分だった。


 一方の操緒はというと、男の子だからだろうか、平然としている。ダウンジャケットの前が開いたままで、見てるこっちが凍えそうだ。口笛なんて吹いて馬鹿みたい。同級生がしばしば疑うように、双子でもなんでもない気がしてくる。


 操緒の誘いはいつも唐突だった。「家出しよう」その一言で知佳を連れ出し、気の向くままに街をほっつき歩く。何も本気で家出がしたいわけじゃないのだろうが、操緒はそういう劇的な言葉を使うのが好きだった。近所の墓地、オートロックのマンション、橋の向こうの街。そんなところに足を踏み入れては、ひやかすようにして去って行く。それが、その日はたまたま近所の丘であり、魔女の館だった。


 坂を上りはじめたのが一五分前。背後を見下ろすと、上り口にある私鉄の駅舎がずいぶん小さく見える。それでも、まだ丘の頂上はうかがえない。車道と小川を挟んで、線路がどこまでも続いている。


 正月だけあって、車はほとんど通らず、電車もがらがらだ。通行人よりむしろスズメやハクセキレイの姿が目立ち、ちょっとしたゴーストタウンの様相を見せている。それでいて、民家の軒先には門松や注連飾りが律儀に並んでいるのがかえって不気味だった。


 歩いているうちに、線路の向こうに、学校が見えてきた。坂の上にある私立大学の付属高校だ。学生の客を当て込んでか、線路を挟んでこちら側にも飲食店が目立つ。大学前駅まで来ると、あたりは商業施設ばかりになった。さすがにいくらか人通りがある。中には学生のような若者の姿もあった。遮断機が下りた踏切の前で、グループになって談笑している。


「街の人たちは魔女がやってることに気づかないの」


 知佳が問うと、操緒は前を向いたまま答えた。


「いや、たぶん気づいてる」


 操緒はどんどん先に進もうとする。知佳は追いすがって、


「なら、どうしてそのままにしておくの」


「魔女は誰の心にもいるからさ」


「どういうこと」


「人間が喧嘩するのに魔女なんて必要ないってこと」操緒は言った。「ニュースを見てればわかるでしょ。魔女がいたっていなくたって人間は喧嘩する。憎み合い、殺し合うんだ。それよりはまだ魔女一人が悪いんだと考えた方が救われる。いつか魔女さえいなくなればこの街は平和になる。そう考えてた方が希望が持てる」


 駅を発った電車が二人を追い抜いていく。乗客は相変わらずまばらだった。知佳は電車を見送ってから、尋ねた。


「ねえ、うちにも届いてるのかな。魔女の手紙」


「さあ」操緒は言った。「でも、どっちにしても変わらないと思うよ。お母さんもお父さんも」


「そっか」


 次の駅から、沿線の雰囲気が変わった。閑静な住宅街だ。操緒によると、このあたりはむかしから高級住宅街として知られるらしい。イギリスの田園都市をモデルに造成されたそうだ。


 駅の近くに噴水を中心とした円形の広場があり、そこから放射線状に街路が伸びている。坂道にへばりつくのは、いずれも広々とした敷地の一軒家だった。


 日が傾きかけている。歩いて帰るなら、もうそろそろ引き返さなければならないだろう。進退を考えるためにも、二人は広場でいったん足を休めることにした。


「あーあ、疲れた」操緒はベンチで足を伸ばしながら言った。「丘を切り拓いて街を作るなんてどうかしてるよ」


「操緒が言いだしたのに」知佳は口を尖らせた。「坂を上りたいって」


「知佳も反対しなかったでしょ」


「どうしてとは訊いたよ。そしたら来ればわかるって」


「そうだね。僕も来ればわかると思ったんだけどなあ……」


 操緒は水が止まった噴水をぼーっと眺めていた。三段式の台座。クピドを思わせる半裸の少年たちと、鳩の彫刻。そこに何か深遠な意味を見出そうとするかのように。


「他人事みたいに」知佳は呆れながら言った。「魔女の館に行くんじゃなかったの?」


「うーん」操緒はうなった。「そもそも魔女の館に行って何をするつもりだったんだろうね、僕は」


「知らないよ」


 二〇分ほど休んで、また坂を上りはじめた。坂の上に、もう一か所噴水の広場があるらしい。とりあえず、そこを次の目的地にすることにした。


「むかしはもっとたくさん噴水があったんだ」操緒は言った。「魔女もよく広場で手紙を書いてたらしいよ、なにせ、近所の人たちが集まる憩いの場だからね。手紙のネタを仕入れるにはもってこいなんだ」


 明治時代まで、この国には魔女がいなかったという。長い鎖国が、魔女を寄せ付けなかったのだ。開国に伴い、外国からの船が来航するようになり、ようやく魔女はこの国の地を踏むことができた。宣教師がキリスト教を広める傍ら、魔女は魔女で各地に弟子を作って回っていたのだ。


 丘の上の魔女は、この街に住む実業家の娘だった。幼い頃から礼儀作法を厳しくしつけられ、一〇歳になるかならないかの頃にはもう結婚相手が決まっていた。父と懇意にしていた貿易商の息子だ。


 決められたレールの上を走る人生に嫌気がさした娘は、魔女に誘われるまま弟子となり、表社会から姿を消した。それ以来、この丘で手紙を書き続けているという。


 魔女がこの街について知らないことはない。竹林を切り拓いて住宅地が造成されて以来、都心部のベッドタウンとして発展していく過程をその目で観察してきた。


「もしかしたら魔女はこの丘から人を追い出したいのかもしれないね」


「どうして?」


「魔女っていうのはエコロジストだからね」操緒は言った。「海外のセレブでよくいるでしょ。環境活動家とか、ヴィーガンとか。ああいうのは全部魔女なんだよ。魔女も、きっとこの場所を元の竹林に戻したいんじゃないかな」


 二つ目の広場はなかなか見つからなかった。あっという間に西日が差しはじめ、スズメたちがやかましく鳴きはじめる。


 坂の上り下りを繰り返すうちに、神社の参道に迷い込んだ。初詣の幟が立っている。操緒の気まぐれから立ち寄ることになり、知佳は恐る恐る階段を上り、境内に足を踏み入れた。


 小ぢんまりとした神社だ。夕方ということもあってか、人手は少ない。拝殿へと向かう行列をよそに、操緒は神社の裏へと回った。


 ほどなくして目の前が開け、街を見下ろす眺望台のような場所に出た。すぐ下は断崖になっている。


 吹き付ける強風から身をかばい、改めて目線を上げると、すぐ北のニュータウンから、川向うのビル群までが一望のもとに見渡せた。


 思わず息を飲む大パノラマだ。冬の澄んだ空気が、はるか遠くまで視界を確保してくれる。逆光でなければ、太陽が沈みゆく山々の山肌までもが鮮明に見えそうだった。


「見なよ、あれが魔女の館だ」


 知佳は操緒の指先に視線をやった。眩しさに一瞬、目を細める。そこだけこんもりと竹が茂った林の奥に、高層マンションが何棟か立っていた。そのどれが魔女の館かはわからない。しかし、あえて尋ねるようなことはしなかった。


「このあたり全部が竹林だったの」知佳は訊いた。「あのマンションも、ビルも、家も全部?」


「そうさ」操緒は言った。「人間がたった一〇〇年の間に切り拓いたんだ」


 知佳はしばらく街を眺めてから言った。


「少しだけわかる気がする。魔女の気持ち」


 操緒が振り向いた。


「竹ってね、花を咲かせるんだよ。でも、何一〇年、あるいは一〇〇年に一度くらいのことだから、知ってる人は少ないんだ」知佳は続けた。「竹は林全体で一つの竹なんだ。地下で全部つながってるの。だから、花を咲かせるときもいっせいに咲くんだよ。想像してみて。ここから眺める景色いっぱいに竹の花が咲くの」


 操緒はふたたび、街の方に目をやった。


「魔女はそれが見たかったのかな」操緒は言った。「一〇〇年近く生きてても、竹の花を見られる機会は限られてるんだね。もし、魔女が竹の花を見るより早く、この街が造成されていたとしたら――」


「うん、きっと残念だったと思う」知佳は、それから慌てて付け加えた。「もちろん、これだけ広かったら別の種類の竹も混ざってるだろうし、いっせいに花開くわけじゃないだろうけど」


 操緒はしばらく黙して街を見下ろしていた。まるで、そこに竹の大繁茂地を幻視するかのように。


 真竹の紫の花。


 孟宗竹や黒竹の、稲の穂先のような花。


 決して派手な花ではない。それに、咲いたら、その竹林はすぐに地下茎から枯死してしまう。地盤が弱くなり、大雨が降れば地滑りを起こす。花の実はノネズミたちにとっては格好の餌となり、大繁殖を誘う。こうしたことから、竹の花が咲くことは古来より凶事の兆しとして恐れられてきた。魔女の趣味にはぴったりだろう。黒猫、カラス、蜘蛛……不吉の象徴はみんな魔女の大親友だ。


 噂をすればなんとやらで、カラスのシルエットが視界を横切って行った。太陽が稜線に消えても、しばらくは明かりがある。仄明るい青の世界。鳥たちはねぐらに帰り、街には夕飯の匂いが立ち込める。一方、猫はらんらんと目を光らせ、魔女はいましも目覚めようとしているところだろう。


 夜と昼の境目で立ち尽くしたまま、知佳たちは動けない。


 この時間が長続きしないことはわかっていた。闇はもうすぐ背後まで迫っている。やがて世界をすっぽりと覆ってしまうだろう。そしたらもう帰れない。


 自分たちは魔女にさらわれて、丘の上で手紙書きを手伝わされることになるだろう。魔女のマンションには自分たちと似た境遇の子供たち、やがて魔女になる子供たちがたくさんいて、カラスや猫から集めた噂を元に手紙をしたためるのだ。学校の友達とその家族、顔も知らない人たち、そして自分たちの両親にも。


 それでもいい。そんな気がしてきた、そのときだった。


 知らず握っていた手がぎゅっと握り返された。はっとわれに返ると、操緒がこちらを向いて静かに言った。


「帰ろう」


 知佳はもう一度、街を見下ろした。それから、操緒に向き直り、ゆっくりとうなずく。


「うん」


 両親が離婚したのは、その二か月後のことだった。操緒は父親が引き取ることになり、知佳は母親と隣市のマンションに引っ越した。川を越え、都心部に少しだけ近づいた格好だ。マンションにコンビニ、それに各種診療所だけで構成されたような街で、大きな公園もなく、神社や寺の緑も物寂しい。さながら、コンクリートの檻だ。


 学校では、誰も操緒のことを知らない。ときおり、知佳自身も双子の弟がいたことを忘れそうになる。思い出すのは、音楽室の窓から丘の街を望むときだ。


 鬱蒼と繁る竹林。そして、魔女の館。


 竹の花はいつか必ず咲く。そのとき、わたしは何を思うだろう。双子の弟のこと、魔女のこと、最後の家出のこと。みんな忘れて大人になっているかもしれない。どこか遠い街にいるかもしれない。そんなことを思う。

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放課後のタルトタタン~穢れた処女と偽りの神様~ 戸松秋茄子 @Tomatsu_A_Tick

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