第21話 読者の皆様へ
チンギス・カンは、長男ジョチがきわめて有能だったことから、利用しつくし、また自身の後継者だと考えていた、というのがこの短編の前提であり、ジョチを扱った古今東西の説話や小説とは最も異なる点になっている。
ジョチに関する記録は、信ぴょう性のないものばかりである。
その最たるものが、ジョチの本当の父はチンギス・カンではないという、出生にまつわる疑惑である。母ボルテが敵のメルキト部族に拉致された後に生まれたことから、井上靖『蒼き狼』をはじめとして、小説の題材となってきた。この話は『元朝秘史』の記述による。もっとも、『元朝秘史』では、誰の子かはあいまいにされている。
これに対して、ラシードゥッディーンの『集史』では、次のような話になっている。テムジンの天幕がメルキト部族に襲われ、妊娠中のボルテが連れ去られた。ケレイト部族長トオリルがメルキト部族と交渉した結果、ボルテはテムジンの下へ戻ることとなり、帰路、産気づいて男の子を生んだ。この男の子はジョチ(客)と名付けられた。
ラシードゥッディーンはチンギス・カンの玄孫ガザンの家臣であるため、テムジンがトオリルの配下だったことを、明確に描いてはいけない立場だった。そこで、トオリルをテムジンの良き協力者に仕立てたのだった。
おそらく、トオリルのおかげでボルテを取り戻せたというより、トオリルのせいでボルテはさらわれたと言った方が正しい。
メルキト部族長トクトア・ベキはトオリルの娘婿であり、トオリルが西遼派だった頃に婚姻関係が結ばれたのであろう。西遼から見ると、従属部族同士の関係が密になることは歓迎すべきことだった。
ところが、1181年、トオリルが西遼に対し不穏な動きを見せはじめると、西遼はナイマンとメルキトに出兵を命じた。トクトア・ベキはトオリルの娘と離婚はしなかったものの、側室に格下げした。1177年に耶律チルクが西遼のグルカンとして即位したが、国内情勢は不安定で、1181年になってようやく草原に介入できたのだろう。
テムジンがトオリルの配下だったのは、2人とも西遼派だったからである。ところが、トオリルが金朝派に鞍替えしたので、テムジンもまた金朝派と見なされたのである。この時点で、テムジンはモンゴル部族から離れてしまったことになる。若き日のテムジンには自主性などなく、大国に翻弄される草原の牧民の一人でしかなかった。
メルキト部族からすれば、裏切り者のトオリルを攻めた時、たまたまボルテを捕えたが、彼女はコンギラトのデイセチェンの娘である。コンギラトもまた同じ西遼派であり、コンギラトとの関係悪化を避けたいメルキト部族はボルテを送還した、というのが事の真相であろう。
ボルテが強姦されてジョチができたというのは、ほぼ考えられない。それゆえ、ジョチの出生に関する話は、この小説ではまったく除いた。
1207年の第1次、1217年の第2次「森の民」遠征におけるジョチ軍の進路については、完全に創作である。ただし、一見無関係なブリヤト人の民族形成説話にジョチが登場するものがあるらしく、そこで、ジョチがバイカル湖東岸のバルグジン・トグム地方からミヌシンスク盆地に侵攻し、その過程でカンガス(カマシン人)やトカス(トファラル人)などを従えたのではないかと想像した。また、現在のカザフ人やウズベク人はジョチ朝の子孫であるが、彼らの中にバイト(エネツ人)やタス(セリクープ人)などシベリアの少数民族に由来する氏が残っており、ジョチに下った「森の民」の分布は、北極圏にまで広がっていたと考えられる。
最後に、読了していただいたこと、感謝申し上げます。
令和2年12月
函館にて
作者識
民の主 土屋和成 @tsuchiyakazunari
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