第20話 日没(4)
チャガタイとは反対に、ジョチの民はみな、ジョチの死を悲しんだ。ジョチの下で働いているだけで、自身は昇進し、家産は豊かになるのである。戦闘もほとんど行わず、また戦えば必ず勝った。
ジョチの事績はほとんど明らかではない。特に晩年は、キプチャク、イラン、インド方面への軍事作戦の準備に費やされたため、これは軍事機密の塊であり、情報は残りようがなかった。
ただし、彼が存命中に企画・立案した軍事作戦は、その後すべて成功する。モンゴル帝国は、現在のロシア、東欧、イラン、イラク、トルコ、パキスタンなどを手に入れるのである。
オゴデイは自らをカアンと名乗った。カアン皇帝の下で、西方の総督に対し、チャガタイは徹底的に嫌がらせをした。ジョチの息のかかった人物を排除しようとしたのである。
イラン総督府については、初代総督チンテムルの死後、やはりジョチ家の官吏だったクルグズを総督にしたが、このクルグズはチャガタイ派、すなわち皇帝派に寝返った男だった。サマルカンドとブハラの総督もメンスゲから女真人の粘合重山に替えた。チャガタイは、アフガニスタン方面のヤラワチとその子マスウード・ベクとももめた。
チャガタイは、イリ河流域を遊牧本領とし、各地に宮殿を建て、アルマリクも自分のものにしてしまった。
太宗6年(1234年)に終わった伐金戦でも、真面目に戦ったのはトルイだけで、オゴデイもテムゲ・オッチギンも戦場で傍観し、チャガタイに至ってはモンゴル高原で留守番をしていたのである。
トルイの死直後の太宗7年(1235年)、チャガタイとオゴデイは、トルイの所領であったカラコルムを取り上げてモンゴル帝国の首都とした。
やりたい放題のチャガタイは、オゴデイと一緒にいることを好んだ。事実上の皇帝気取りだった。
太宗13年(1241年)、オゴデイとチャガタイはほぼ同時に死去した。ジョチ家の諸子にとって、西方回復の機会が訪れたのである。ジョチの子や家臣たちは、雌伏の時を有効活用し、相手が背中を見せた瞬間を狙い、一挙に事を決したのだった。
その後、ジョチのウルス(国)は、1806年まで続いた。
(完)
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