第19話 日没(3)

 太祖20年(1225年)、チンギス・カンの周辺では、西方の噂が飛び交っていた。耶律阿海が73歳で死去してから、連絡が少なくなっている。中央アジアから来たというマングト部族の者が、ジョチ様は病気だ、足が痛いと言って出かけようとしないが、その実、お気に入りの鷹を手に狩猟に明け暮れていると、言いふらしていたという。ところが、そのマングト部族の男の名を、誰も知らなかった。

 こうした偽情報を流すというのが、大規模な軍事作戦の前触れであることを、モンゴル軍の幹部たちは知っていた。ジョチが言うことを聞かないという理由で、ジョチ討伐の軍を編成することになったが、実際には、反覆常ならぬ西夏にとどめを刺す戦役準備のための偽装工作だったのである。

 ジョチは多忙だった。サマルカンドにいる故・耶律阿海の子メンスゲに後方支援を求めつつ、イラン方面での軍事作戦の補給をホラズム総督チンテムルに行わせるため、ウルゲンチからカスピ海に至る街道シャフリスターナ道を整備させていた。

 ガズナ総督マフムート・ヤラワチにも徴税や治安維持のための兵力を割くことでインド方面ににらみをきかせた。

 北西はバシコルト族と交渉しつつ、西方の大国ハンガリーの動静をうかがい、キプチャク草原西部の挟撃作戦の可能性を探っていた。そのため、ジョチの天幕にはラテン人、具体的にはイギリス人の元修道士まで出入りしていた。

 チンギス・カンはジョチからの要請で、ブルガル方面への、ククテイとスベテイを主将とする探馬軍2万の派遣を決定していた。探馬軍とは、各部族から一定の割合で集められた混成部隊で、戦時には先鋒を務め、戦後は国境警備に当たる非正規兵団だった。また、イラン方面に派遣する、チョルマグン率いる探馬軍4万の編成も決まっていた。

 太祖22年(1227年)春、ジョチは突然落馬した。そして、そのまま帰らぬ人となった。享年45歳。チンギス・カンはジョチの跡目を次男バトに継がせ、ジョチの持つ4個の千人隊の内、長男オルダがゲニゲスとフウシンの2個、バトがシジウトとフウシンの2個を継承し、他のジョチの妻子は2人で分けるよう命じた。

 同年、西夏王の降伏目前で、六盤山においてチンギス・カンは崩御した。チンギス・カンは自身の後継者がジョチであることをほのめかしてはいたものの、明言はしていなかった。しかもジョチは亡くなっていた。また、次の君主を誰にするのかはクリルタイ(国会)で決めることであり、先帝の遺言は参考意見にすぎない。

 チャガタイは小躍りした。強大な軍事力を持つジョチはすでにいない。チンギス・カンの家産の大部分を継承する末子トルイが、次の皇帝の最有力候補だが、国会で多数派を形成すれば勝ちだ。発言権を持つのはチンギス・カンの嫡子と弟だけである。弟の内、三弟カチウンは早世し、次弟ジョチ・カサルも亡くなっている。弟を始祖とする三王家の長は末弟テムゲ・オッチギンであり、彼を引き込んで、三男オゴデイを推せば、3対1で勝てる。チャガタイは、ジョチの死を、心の底から感謝した。

 太宗元年(1229年)、オルダやバトを含む王侯全員一致して、オゴデイを皇帝に推戴した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る