最終話 優しい風
美弥は食材を買出しにスーパーに向っていた。
すっかり春だ――歩道脇の桜並木がやわらかな陽射しをうけて、ことのほか美しい。時折、光の中をはらりはらり――と踊るように舞う桜の花びらに美弥は見蕩れた―――。
『うちの武田観柳斎が斬られました。南アフリカ支社にご栄転です。伝説級の左遷です。噂では、役員をこきおろしてる音声データが、どこからか送られてきたそうです。それが事実ならタレ込んだ人は斎藤一ですね。そして、その斎藤一は……』
文末にニカっと笑った絵文字がついている。
藤堂から、そんなメールが来たのは、倉重の家を出て一ヶ月ほどネットカフェとカプセルホテルを渡り歩き、終わりの時まで後どれくらいだろうか―――と考えていた頃だった。
うまくいったんだ……、ネットカフェの個室で、美弥は一連の復讐劇を思い返した。
クリーニング屋の田所さんや洋食屋の旦那さんが、席を外した隙にデジカメをセットし、万が一、動画が流出した時のために、あの人たちにはマスクを着けてもらった。「このマスクをつけてもらえると興奮するんです……」そう言ったら、何の疑問も抱かずに着けてくれた。狂った自己愛だけで人格を形成している倉重はきっと、動画を即座に処分するだろうが、罪もない無自覚な協力者のために念には念を入れた。
そして倉重の日々の愚痴を録音した音声データは、毒の強いものを集めて、ダメ元で会社の代表メールに送った。最高の形で功を奏してくれたようだ。
おそらく倉重は、あの異常に誇大した自己愛と折り合いをつけるため発狂寸前のようになっているだろう。
茫漠のなか――ここに復讐は結実した―――。
―――その知らせから、藤堂とのやり取りが始まった。
『まさか奥さんはついていかないですよね?』という藤堂に、
『離婚届を置いて家を出て、もう1ヶ月ほどです』と返すと藤堂は驚き、意外に思うほど美弥を質問攻めにした。
美弥は、地獄に体半分あずけているこんな状況を聞かせるべきではないと思ったが、ごまかしきれずに現状について答えた。
――藤堂は、ただ一言、メシに行きましょうと言った。
藤堂の仕事終わりに待ち合わせ、その時はパスタ屋に入った。
そしてまだメニューも決まらぬうちに藤堂は開口一番「よかったら、うちでハウスキーパーをしませんか」と言った。
先だって訪問した時もそうだが、彼は、いつも本題から入る人のようだった。
藤堂曰く――、
割と冗談抜きに、エンゲル係数をどうにかしないと思ってて、ハウスキーパーの契約でもしようかと考えてたとこなんです。
もし行くところがないならボクのところで間借りという形で、家賃や光熱費、食費なんかでボクに月5万円ほど支払うとする。
その支払いの代わりに奥さんは、ハウスキーパーとしてボクの食費なんかを月5万円ほど減らす。
つまり相殺――奥さんはボクに1円も支払う必要はない。そんな生活はどうですか?
朝と晩の飯を作ってもらったら、後は自由にしてもらってかまわないです。掃除や洗濯は苦じゃないんで。
昼間、奥さんは自由にパートしたりでもなんでも。なんというか海外の通い兼住み込みのメイドのような……。いや、あくまで提案なんで奥さんの意にそぐわなかったら却下してください……。
自分が救いの手を差し伸べていることを悟られたくない――といったような不器用なやさしさを感じた――。
不思議と、愚かな結婚の時のような迷いやためらいは微塵もなかった。目には見えない何かが背中を押してくれるような気がした――。
美弥は、その不器用なやさしさに甘えた――。
ハウスキーパーの手始めとして、キッチンを調べると上等のテフロン加工の鍋やフライパン、様々な種類の包丁があった。料理に挑戦すると勇んで買ったものの、数回使っただけで仕舞い込んだという。藤堂の朝昼晩の外食やコンビニなどで使う食費は美弥には信じがたいものだった。
『貧乏料理道』を極めた美弥にとって、その馬鹿げた数字から5万円ほど減らすことなど造作もなかった。
美弥が作るものを、藤堂は旺盛な食欲で「うまいうまい」と言いながら食べてくれる。それがうれしい。
美弥が本などを読んでいると放っておいてくれるが、酔いが回るとニュースを見ながら何やらブツブツと言いだす。酔ってるのに、よくそれだけ色々考えられるな……と美弥は、感心してしまう。同時にそれを聞くのは、どこか楽しくもあった。
――暮らし始めて2週間。昨夜、初めて藤堂に抱かれた。これまで驚くことにセックスはなかった。もしかするとゲイなのかもしれない……と、ひそかに思い始めていた矢先だった。
今までと何が違ったのだろう――。何も感じないままに幾多の男と寝てきた美弥の、女としての核のようなものが、やわらかな熱を帯び仄あたたかくなった。そんなことは今まで決してなかった。
隣で気持ちよさそうに眠る藤堂を見ながら思った。恋愛ではない――でも、今までのような無機質なものでもなかった。
この人は、初めて私を私として抱いてくれたのかもしれない。そう思うと、ひとすじの涙が美弥の頬をつたった――――。
―――スーパーが見えてきた。赤信号にかかり、立ち止まる。
優さん、私ね……、今へんてこな暮らしをしてるよ。
ほんとは倉重の家を出て、行き詰まったら優さんのとこに行こうと思ってたんだけどね……。
藤堂さんはね……少し変わってるけど、いい人なんだろうと思う。この暮らしがいつまで続くのかわからないけど……。
来週から、またほか弁の仕事するんだ。
大学に通うのはやっぱり難しいけど、心理学の専門書なんかを読んで、自己流で勉強してみようと思ってる。
私ね、もう少しこっちで頑張ってみるよ……。
いつかそっちで会えたら、また色々話そうね。
それまで見ててね――。
そう、美弥は心の中で、優里に語りかけた―――。
―――信号が赤から青に変わった気配に、美弥は顔を上げた。
立ち止まったまま空を見上げ、胸いっぱいに新しい春の息吹を吸い込んだ―――。
視界の靄が、不思議に澄んでいく――――。
前を向き、歩き出す――――。
どこからか春をはらんだ優しい風が、美弥を包みこむように舞い―――、
そっと頬を撫でた―――――。
(了)
茫漠の日々の果て 雨月 @ugetu0902
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。