サヨナラ、私の恋心
詩村巴瑠
サヨナラ、私の恋心
愛梨の付き合っている彼氏は
「俺はただ、欲に素直に生きてるだけだ。一体なんだって、人間ってのは理性が偉いって錯覚しちまったんだ?」
そんな信哉と愛梨が出会ったのは作家と編集者という職業の縁からである。愛梨はその当時、ある大手出版社の新人編集者だった。そこに打ち合わせにやってきた信哉に、社内のカフェテリアで休んでいるところを連絡先の書かれた名刺を渡されて、お付き合いする運びになったのだった。初対面の人にいきなり連絡先を渡してくるような輩、やめといた方が良いことなどわかっていた。それでも、愛梨は付き合うことにした。それは、作家という人間と恋愛をしてみるのも悪くないと思ったのと、信哉の顔がタイプだったからだ。
付き合ってみてわかったのは、作家という人間なんて存在しないということだった。作家が全員、信哉の様な感じだったらおしまいだ。作家というのは職業であり、肩書であり、属性ではない。信哉の古くからの友人に会った時、同じ作家でもこうも違うのかと驚いた。その時、愛梨は気づいた。自分が信哉と付き合ってもいいな、と思ったのは作家という人間に対する憧れというよりも、作家という職業に対する憧れに近かったのだと。愛梨はずっと作家になりたかった。誰にも言ったことはないし、自分でも強く自覚したことはなかった。
中学一年生の時、ふと思い立って小説を書こうとしたことがある。頭の中では壮大な広がりを見せていた王国ロマンスは、いざ原稿用紙に書きだしてみると三百文字くらいで止まってしまった。頭の中で考える分には夢中になれたものも、文に書き出そうとすると自分の稚拙な文章に気分が沈んでしまった。愛梨はそこで、小説を書くことは向いてないと自分で決めつけた。今思えば、最初から上手く書ける人なんていないに等しいのだから、書き続ければ良かったのだ。そして、そこでもう一度書いてみなかったことこそが、作家に向いていないということなのだろう。
そんな少しの羨望と顔が好みだからという理由で始まった恋愛は育ってしまった。信哉のことがちゃんと好きだと気付かされたきっかけは最悪な出来事だった。一人暮らしの家に招いた日のこと、脱ぎ捨てられた信哉のコートをハンガーにかけようとすると、ポケットから何かが転がり落ちた。金属音がして、拾い上げるとそれは指輪だった。とてもシンプルな、捻じれのような優美な模様が施されたそれは、どう見ても結婚指輪と明らかだった。
「これなに?」
自分がそれを見てショックを受けていることが衝撃だった。だって、他に女がいることは薄々感じていたのだ。
「あっと、……。」
一瞬だけ、バツが悪そうな顔をした後、信哉はすぐにへらっとした笑みを浮かべる。
「結婚してたんだ。」
「嘘はついてない。」
「そうだね、嘘はついてないね。」
だってまさか、自分が知らない間に不倫に加担しているなんて思わないじゃないか。悪びれない態度の信哉と接していると自分が惨めに感じて辛くなった。その日は半ば、追い出すようにすぐに信哉を帰した。自分が傷ついていることに愛梨は驚いていた。信哉のことがいつからそんなに好きになっていたのだろう。好きなところより、駄目なところの方が数えやすいこの男をいつから、そんなに愛するようになっていたのだろう。彼のウィットに富んだ話し方や、悪い意味でも良い意味でも普通ではない人間性に気づけば惹かれていた。気づいたときにはもう遅い。愛梨は思った。私は好きになっては駄目な人を好きになってしまったと。それからも、愛梨は別れを切り出すことは出来なかった。一番は自分じゃないと思う度に胸が痛い。それでも、離れられない。一番でなくてもいいから、と縋ってしまっていた。
愛梨は目の前で揺蕩う海面を見つめた。まるで、今の私の気持ちのようだ。胸の奥底から湧き上がる感情をどうしていいかわからずに揺れている。今日、ここに信哉が現れないことを愛梨は知っていた。もう、彼には会いたくても会えない。彼は昨夜、交通事故に遭って死んでしまったのだから。ニュースサイトで知った。不倫相手は葬式に呼ばれない。だから、愛梨は予定通り、ここに来た。
「午後五時に水族館のベンチで。」
簡潔なLINEの文面を眺める。今日は葬式だ。私の信哉への恋を終わらせる日だ。私の恋心も今日、彼と共に燃え尽きる。愛梨は見つめる黄昏色の海は滲んでいく。
「遅いよ……。」
ぽつりと呟いた声も、同じように滲んでいた。
サヨナラ、私の恋心 詩村巴瑠 @utamura51
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