乗車前の願い

三嶋要

乗車前の願い

 「ごめんなさい。もう、時間が来てしまいます」

 ポォーっと高い声で鳴く汽笛の音が、早くしなさいと僕を急かしてくる。もう少しだけ、もう少しだけですからと、駅員さんにお願いすると、彼は少し困ったような顔をしながらも、「本当に、あと少しですよ」と微笑んでくれた。

 ありがとうございます、と一礼をして、最後に向かうべきところへと、急いで駆けていく。四本の短い脚を、精一杯回転させながら。


 僕の目の前には、苦しそうに嗚咽しながら泣き腫らしている主人の姿がある。

「嫌だ、嫌だ」と切なげな声を漏らすあなたは、衰弱しきった僕の身体を抱きしめながら撫でてくれる。その姿が、熱い体温が、僕の胸をより切ないものにする。だから、正直なところ、やめてほしい。そんなことをされると、僕まで正気を保てずに泣き出してしまいそうになるから。最後くらい、いや、最後だからこそ、笑顔でいてほしい。最期だからこそ、いつものように笑って、いつものように話しかけてほしい。最後の思い出があなたの泣き顔になってしまうなんて、そんなの、あんまり嬉しくないのだ。

 しかし、そんな僕の思いとは裏腹に、あなたの泣き声はおさまるばかりか、より強くなる一方だった。そして、当然のように、僕の胸もより一層切なさを増していくのだった。


 だから、もう仕方がないと割り切って、伝えなきゃいけないことを伝えるんだ。苦しそうな泣き声を聞いて、揺らぎそうになっている心を落ち着けようと、深く息を吸った。すると、いつも嗅いでいた、あの慣れ親しんだ大好きな匂いが鼻を通り、身体の内側へと染み渡った。大好きな日々が次々と思い出されて、胸がキュッと締め付けられるような感覚がした。思わず、熱い、熱い水滴が溢れてしまいそうにになった。それじゃだめだと、吸った息を吐こうとするが、震えてしまってあまり上手に吐くことはできなかった。けれども、もう心は決まった。伝えるんだ、僕の一番大事な人に。


 ごめんなさい。残念だけど僕はもう、あなたのそばにいることはできない。

 名残惜しいとか、もっと大事に生きればよかったとかの後悔はあるけれど、残された時間でできることなんかない。だとすれば、僕は最後の最後に、伝えたいことを伝えるだけ。


 生憎と、僕は人間の言葉は喋れないし、こんな物もろくに掴めないような手では、文字で書き表すことさえできない。

 だから、あなたには上手く伝わらないかもしれない。でも、あなたと過ごした時間を信頼して、気持ちだけで伝えるよ。きっと、他の誰でもない、あなたには伝わってくれると思うから。



 主人。いつもそばにいてくれてありがとう。


 あなたは、どうしてそんなに優しいの?僕が怖くて眠れない夜は、「こっちにおいで」と、決して広くない布団に、僕を入れるスペースを作ってくれた。喜んで入っていくと、あなたは顔をくしゃくしゃにして笑って、僕のことを撫でてくれたね。

 そのおかげで、僕は沢山あったかくなることができたんだよ。あなたと一緒に包まった蒲団の中は、いつも幸せで溢れていたよ。僕の大好きな場所のひとつだよ。あなたの暖かい胸は、感情が豊かなあなたの心の暖かさを映し出しているようで、とっても心地よくって落ち着いたよ。ありがとう。


 そんな、優しいあなたに、僕は一度、取り返しのつかないことをしてしまったよね。それについて、謝らせてほしい。


 あなたの身体が今よりずっと小さかった頃。僕とあなたが出会って間もない頃。イタズラが大好きだった僕は、あなたが大事にしていたクマのぬいぐるみを引っ掻いて裂いてしまった。あのとき、あなたは初めて本気で僕を叱ったよね。

 あれが、僕の一生のうちでの、一番の後悔だよ。いつも大事に抱えていた、お気に入りのぬいぐるみを壊されたのだもの。怒られない方がおかしいよ。

 でも、その頃からあなたの心優しさは、姿を色濃く見せていたね。ぼろぼろになってしまったぬいぐるみを見て、一通り僕を非難したあとに、

「今から、あなたが私の一番大事な宝物だからね」

 と言って、僕を抱きしめてくれたんだったよね。

 ああ、なんて僕は幸せ者なのだろう…… そのとき、僕は心底そう思った。震える身体には、怒りとか悲しみとかの感情はまだまだあったのに、それでも必死に僕を許そうと、強く抱きしめてくれたことは、深く心に刻まれているよ。申し訳なさが沢山募っていく一方で、こんなに優しい人が、僕を一番の宝物にしてくれるなんて、最高の幸福以外の何物でもないなと感じていたよ。あのとき、僕を許してくれてありがとう。宝物にしてくれてありがとう。


 あなたは、あのときの言葉通り、僕をいつまでも大事にしてくれた。そう、今このときだって、あなたは、その暖かい腕で、僕を抱きしめてくれているのだ。周りのことなんて全く気にもせず、大きな声で泣きながら、もう満足に動かせなくなるくらいに衰えてしまった僕の身体を力強く抱きながら、「いっちゃやだ、いっちゃやだぁ」と繰り返すのだ。

 本当に、僕は幸せ者だ。汚れのない、透明であたたかい心を持ったあなたの横で、ずっと生きていくことができたんだ。素晴らしい主人に出会えて、本当に幸せです。この一生で、あなたに出会えたことが一番の幸せです。


 仕事で疲れた時も、苦しくて涙を流した時も、手放しに喜んでいる時も、どんなときでも、あなたは僕のそばにいてくれたよね。そして、どんなときも、眩しい笑顔で、「そばにいてくれて、ありがとう」って、ぐしゃぐしゃに僕のことを撫でてくれたよね。

 僕からもずっと言いたかった。

「主人、ずっとそばにいてくれてありがとう」


 そう、もうこれで最後。僕が今まででしてきた話は、全部過去の話。もう、ご主人の未来にはついていくことができない。

 ああ、苦しいな……

 残された時間の限界が近付いていると、身に染みてわかる。そのせいだ。さっきまでより、未練の念が強くなってきている気がする。


 もっと、沢山お話ししたかった。もっと沢山、あなたの表情を見ていたかった。もっと、大好きな匂いを嗅いでいたかった。もっと沢山、あなたに触れていたかった。あなたのあたたかい体温を感じていたかった。もっと、一緒に歩きたかった。いつもの散歩道も、これからのあなたの道も。もっと、もっと、もっと……

 願って叶うくらいなら、こんなに苦しくないのにね。でも、もっと苦しいことは、ご主人の死に顔を見ることだ。人間なんて、いつ死ぬか分からない。寿命は僕らより長いけれど、人間というものは、いつまでも綱渡りをしているかのように、危険と隣り合わせで生きているから。もし、あなたが、僕が死んでしまうより先に、綱から落ちたりしたら、きっと僕は耐えられなかっただろう。

 耐えられなくなる前に死ねるというのは、ある意味では幸せなのかもしれないね。でも、同じようにあなたもきっと耐えられないのかもしれないね。だとすれば、やっぱり不幸なのかもしれないね。ほんと、ごめんね。


 ねぇ、ご主人。最後に二つ、お願いがあるんだ。

 できるならば、僕を最後の最後まで幸せ者でいさせてほしい。わがままだけど、これだけは聞いてください。

 一つ。あなたは、自分の幸せを大事にして生きてください。あなた自身が思う幸せを、しっかりと守り続けてください。新しい家族、新しい環境を大事にしてください。どんなことがあっても、僕が惜しくて、あなたの思う幸せを手放すことだけはしないでください。あなたは優しい人だから、つい、僕のことを考えて、色々躊躇してしまうことがあるかもしれない。でも、あなたの幸せは、僕の幸せでもあるから。あなたが泣いたり、苦しんだりしている姿を見ていると、僕も悲しくなるんだ。だから、幸せでいてね、絶対に。約束だよ。


 そして、二つ目。もう泣かないで。泣き顔を見ながら死ぬのは嫌だ、なんて、僕のエゴだけれど、ご主人の笑顔を見て死にたいんだ。いつもと同じように、汚れのない笑顔で、僕のことをぐしゃぐしゃに撫でて。そう、ご主人……嬉しいよ、ありがとう……素敵な笑顔だよ。

 本当に、ありがとう……実体はないけれど、僕はいつでもそばで見ているからね……


「ありがとう。もう時間が来ちゃった。じゃあね。バイバイ」



 「もう、出発しますよ!」

 駅員が手招きをする。何とか間に合った。これを逃したら、危うくあの子のことを見守れなくなってしまうところだった。

「すいません……遅くなってしまって」

「ちゃんと、伝えてきましたか?」

「それは、もちろん……とってもきれいな笑顔をくれましたよ」

 私がそう言うと、駅員さんは「良かった」と微笑んで、ほんの少し涙ぐむのだった。そして、記念にどうぞと、一枚の写真を渡してくれた。

「もう、泣かせないでくださいよ……」


 汽笛が、また高らかに鳴いた。窓際の席に座り、ゆっくりと動く車窓の景色を眺める。ホームを通り過ぎ、真っ暗なトンネルを抜けると、綺麗に澄んだ青空が見えた。色とりどりの小さな屋根が沢山見えた。あのお家は、ここから見えるだろうか。


 汽車は、上へ上へと昇っていく。まばゆい光で包まれた、温かい楽園を目指して。さっきもらった写真をもう一度見る。そこには、無邪気な笑顔をした主人に撫でられる、幸せそうに頬を緩ませた犬の姿が映っていた。

 

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乗車前の願い 三嶋要 @misuzu_134

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