第66話 寿退社は

「次はこの棚なー、さっさとしろー」


 さて、いろいろなことがあったわけだが、今日も今日とて龍山と知佳をこき使っているから、化学準備室の清掃はすこぶる捗っている。


 今日は午前中で授業が終了。


 下校直前の彼らを呼び出し、こうして化学準備室の片付けをしてもらえているおかげで、私は昼間っから職場でおいしいビールが飲めるというわけだ。


「ほらどうした? 早く終わらせないと私が酔っ払ってしまうだろうが」

「だったら手伝ってくださいよ!」


 棚の中を雑巾で拭いている龍山が生意気なことを言ってきたので、私はビール片手に近づいて行って、空いている方の手で肩をチョンチョンと叩く。気の抜けた顔で龍山が振り返ったところを思い切りデコピンしてやった。


「ったぁああ! なにするんですか?」


 しゃがみこんでおでこを抑えた龍山が、涙を浮かべながら恨めしげに私を見上げている。


「うっせぇ。生意気なこと言った罰だよ」

「友梨ねえやめてよ。辰馬大丈夫?」


 しゃがんでいる龍山に知佳が近づいて、赤くなった彼のおでこを優しくさすり始めた。そのせいで龍山の顔は真っ赤に染まり、もうどこにデコピンしたかわからなくなってしまった。


 クソがこいつら。


 ちょっと隙を見せたらすぐこれだよ。


 私の前でイチャコラするなんて、冬のエベレストに裸で登山するのと同じだからな。よほど死にたいらしい。


「あー、いますぐ辰馬にフッ化水素酸ぶっかけてぇな」

「なんでそうなるんですか? あといちいちかける液体名かえて化学教師であることを暗にアピールするのやめてください! におわせは嫌われるって数々のおバカ芸能人たちが証明してきたじゃないですか」

「なに? お前たちバカップルはそんな行為もしてたのか? だったら私が世間に代わって成敗してやろう」

「ネットにはびこる自称正義マンよりたちが悪い!」

「ほとんど冗談だよ。気にするな」


 私は高らかに笑ながら二人から離れて、さっきまで座っていた椅子に腰掛け直す。


「ほとんどって……」


 龍山の呆れたような顔を見ながら、ビールを一口飲む。


 ああ、他人をからかった後のアルコールは最高だ。


 ってかお酒に酔っているにもかかわらず、『龍山には他にかけたい液体があるんじゃないのか? 特に女に』というえげつない発言を慎んだ私を褒めて欲しい。


「そもそもなんでまだ俺たちをいじめるんですか? 中本先生にも素敵な彼氏がいるじゃないですか? もう逆恨みする必要ないじゃないですか?」

「は? 私がいまあいつと会えないのを知っての発言か?」

「でも彼氏がいることに変わりはないでしょう」


 実はいま、私の彼である桜坂雄心はアメリカに行っている。実力を高めるために半年ほどアメリカに武者修行の旅に出たのだ。


 だから、いつでも好きなときに会えて、好きなときにイチャコラできるこいつらにムカつくのは当然だと言えよう。


 ま、お互いの好きを応援するために離れることを選ぶのは、不幸ではなく幸せなことだと知れたから不満はないのだけど。


 それに離れているのは物理的な距離だけで、彼とは心でつながっている。時差の壁を乗り越えて、テレビ通話しながら焼酎やら日本酒やらバーボンやらを飲むリモート飲み会も毎日のようにしているし。


 それもこれも、こいつらには関係ないので教えてやらないけど。


「彼氏がいようがいまいが、目の前でバカップルがイチャコラしてたらムカつくに決まってんだよ! 他人の幸せは徹底的に排除したい人間だからな」

「思ってたよりはるかに最低な理由だった。いますぐ桜坂さんにお伝えしないと」

「ほぉ、お前は本当に命を捨てにきたんだな」

「いやだなぁ、冗談に決まってるじゃないですか」

「ま、あいつは私のどんな一面も受け入れてくれるから、好きにしていいけどな」

「先生だってかなり惚気てるじゃないですか! それ自称正義マンの粛清対象ですよ!」


 龍山にそう指摘され、思わず私は苦笑した。


 我慢していたのに知らぬ間に惚気てしまったか。


 この私が。


 大切な人がいるというのは、人間のなにもかもを変えてしまう可能性を秘めているんだなぁ。


「私の幸せをアピールしてなにが悪い。幸せはお裾分けするもんだろ」

「だったら他人の幸せを認めてください」

「ははは、そのうちな」


 笑いながら、またビールを一口。


 やっぱ昼間っから飲むビールは最高だ。


 いまごろ雄心はなにをしているのだろう。


 時差的にアメリカは……頭が全然働かねぇからもういいや。頑張ってるということで。


「そのうちって、でもなんでついて行かなかったんですか? 寿退社しないんですか? 彼氏ができたらいますぐこんなクソブラック職業辞めてやる! が口癖だった独身貴族のアラサー教師だったのに」

「おい最後の方もういっぺん言ってみろ」


 即座に睨みを効かすと、龍山は額からだらだら汗を流し始める。ちょっと威圧しすぎたか? 知佳が笑ってるからまあいいか。


「やだなぁ、美人でナイスバディでクールな妖艶な魅力を持った教師だって言ったんですよ」

「へぇー、私なんかより辰馬はそういうのが好みなんだ」

「ち、違うよ。俺が好きなのは知佳だけだから」


 龍山が知佳の手を取ると、知佳はぽっと顔を真っ赤に染めた。


 それを見て龍山も口をモニョモニョさせる。


 なんだこいつらほんとに。


 知佳がからかったんだから、相手からなに言われても照れるなよ。


 龍山もなに言ったって照れるなよ。


「ったくほんとにお前らは」


 顔を真っ赤にしている二人を見て呆れつつ、私はまたビールを飲む。空になったので新たなビールのプルタブをカシュっと引き上げる。


「いまのお前らこそが、私がここに残った理由なのによ」


 少なくとも私は、お前らを置いてどっか行ったりはしないよ。


 お前らは私の恩人だ。


 だからもしこの先、私がお前らの先生である間くらいは、お前らのために働かせてくれ。


 寿退社はそれからでも遅くはない。


 彼もそれくらいは待ってくれるだろう。


 なんたって私たちは恋の十年戦士なのだ。


 それに、化学に携われるいまの環境に不満はないし。


「え? 俺たちが理由ってどういうことですか?」


 ようやく落ち着いたらしい龍山が問うてくる。


 知佳もこてりと首を傾げた。


 二人の傾げた首の角度が同じなのがすごくお似合いで、すごくムカつく。


「ああ、それはだな」


 私は一度言葉を止める。さっき思ったようなことを正直に言うのはクソ恥ずかしいし、こいつらがつけ上がりそうだし、柄じゃないので。


「お前らのイチャコラの邪魔をすることが私のストレス発散だからだよ!」


 悪態をついている私も、きっと彼なら愛してくれるだろう。


「くそぉ! やっぱりひどい先生だった!」


 最愛の教え子のツッコみを聞きながら飲むビールは、やっぱり格別だ。

 

 化学者を目指していた高校生の私がいまの私を見てどういう感情を抱くのかはわからないが、それでも少しは過去の私に誇れる私になれたのかもしれない。


「あぁ! その言葉もういっぺん言ってみろ? 誰がひどい先生だ誰が!」


 だって私は化学教師に、彼らの教師になれたことを、すごく嬉しく思っているのだから。





 ~恋と青春の残り香~ 完


 これにて、サイドストーリー『恋と青春の残り香』は終了です。

 ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

 評価、感想等いただけるとすごくすごく嬉しいです。


 田中ケケ

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童貞をからかわれたので彼女がいると嘘をついたら、車椅子に乗った美少女が彼女になってくれた件 田中ケケ @hanabiyama

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