「お兄ちゃんの鎧」その2
バスから降りると俺は脇目も振らず、家に向かう。
道路の窪みには所々に小さな水溜まりがあって、滑りやすくなった路面に足を取られる。
が、そんな逆境の中でも、俺は歩を止めなかった。
今日も兄としての責務を果たすために。
「お帰り、昌」
「兄ちゃん、ただいま」
「洗濯物取り込んでくれたか?」
「え、だって今日は干しっぱなしにするって言ってたじゃん」
「そうだったっけ?」
小降りだと踏んでいたのに、予想以上にどしゃ降りになった。
事前に連絡を入れておけば昌もしまっておいてくれただろうに、俺は自分の落ち度を棚上げした挙句、曖昧にして誤魔化そうとする弟を責める。
昔は昌にも手伝ってほしい気持ちがあったが、家事に無関心な弟を数年も見ていると、何かやってくれとは期待しなくなっていた。
まぁ文句は言っても、用意した食事を食べないなどの我儘はしないだけよしとしよう。
我が家は2LDkの四人暮らし。
家賃約6万のオートロック付き、全32棟の巨大なアパートで、駅から10分程度離れてはいるものの大型スーパーも近くにあり、立地条件は悪くない。
とはいえ食料品が軒並み高いので、もっと遠出してワカバマートまで赴く羽目になるのだが。
チクショウ、もっとあそこまで近い家ならよかったのに……。
心の中で恨み節を唱えながら家の中を見渡すと、子どもの時は広かったこの家が窮屈に思えた。
特に子ども部屋は読みかけの週刊誌漫画やらが散乱していて、足の踏み場もない。
何より辛かったのは、性的な関心に目覚めた年頃だというのに、プライベートの時間がろくに持てないことだ。
一人部屋でない以上、どこにいても、お兄ちゃんとしての義務がつきまとう。
望んで兄弟になった訳ではないというのに、どうしてこうも面倒なことばかり押し付けられるのか。
兄としての責任から逃れられるのはトイレくらいなもので、用を足すでもないのに、あの狭い空間に安らぎを求めるようになってしまった。
「まぁ、いいや。兄ちゃん洗濯物しまうから」
「て、手伝うよ」
「いいよ、別に。それより窓、ちゃんと閉めたか見てきてくれるか。家に雨が入ってないか心配だからな」
「全部閉めたって~」
「トイレは?」
「あ~っ、確かめてくる!」
俺が指示すると、忙しなくドタドタ走り出す。
口が達者になってきて生意気さが増してきたが、まだまだ年相応な部分もあって、憎めない奴だ。
俺はというと洗濯カゴを抱え、窓の前で少しの間思案していた。
部屋干しするなら生乾きの匂いが気になるが、雨には空気中の埃が含まれていて、このまま放置は衛生上よくない。
どっちみち、また洗濯が必要そうだな。
水を含んだ洗濯物は重く、頭を悩ませている間にも、雨粒が肌に容赦なく突き刺さる。
適当にカゴに放ると、俺はさっさと窓を閉めた。
乾いたタオルで乱暴に濡れた身体を拭き取ると、なかなか思い通りにはいかない家事に、また一つ溜息をこぼす。
いかんいかん、これで今日何度目だ。
薄暗い部屋の中で、俺は無理にポジティブになろうと自らの頬を叩くも、一向に気分は良くならない。
別に学校も家も、嫌いではない。
でも何故だろうか。
誰にも感謝されない家事をしていると、実際に歳を取る以上に、自分自身が老化していくような錯覚を覚えた。
これから先、ずっとこの生活を送るのだと思うと、精神が腐っていくような気がした。
自分自身の感情や気持ち、感受性を日々の忙しさに埋没させながら、いつかポックリ死んでいく。
そのことに恐怖を覚えていたに違いない。
浴室にて
浴室に行くや否や、俺は洗濯機を回した。
不謹慎な表現だが、我が家の洗濯機は余命幾ばくもない。
なので逐次止まっていないか、確認する必要がある。
が、今は昌の見守りが優先だ。
時間は俺の事情など汲んではくれないのだから。
「宿題やるぞ~」
「これなんだけど」
そういうと昌は、ランドセルから一輪の花がでかでかと映った学習ノートを取り出す。
無地のノートを使う俺には、マス目の入った漢字練習帳はどこか懐かしい。
しかし兄弟で勉強嫌いな部分が似てしまうとは、両親も呆れて笑うばかりだ。
「できたーっ!」
「おお、綺麗に書けてるなー」
書き順に気をつけながら、漢字を一通り書き終えると、昌は自慢げに見せびらかす。
なるべくノート代を節約しようと小さく書かれた俺の文字とは対称的に、マス目いっぱいに描かれたヤンチャな文字を見て、弟が元気に育っていてくれている実感が沸き上がる。
昌や両親の苦労を俺が背負った分、昌が頑張ってくれている。
小さな努力の積み重ねが、この瞬間だけは報われた気がした。
「宿題はそれだけか? 隠すなよ~、やらないで困るのは昌なんだからな~」
「ちぇ~。あと算数のプリントあるんだけど苦手だし、兄ちゃんが……」
「バ~カ、甘えるな」
全てを言い終える前に眉間にデコピンすると、昌は唇を尖らせ不機嫌そうに、「は~い」と間延びした返事を返す。
算数も数学も、公式が理解できていないと、まず解けないのが特徴。
漢字やを暗記すればいいだけの国語や社会とは違い、まぐれでは正解はおろか、どこが間違っているのか、把握するのも困難だ。
反復の積み重ねが必要な問題の数々に、かなり苦戦している。
とはいえ小学生の問題というのもあって、プリントに書かれた問題はものの数秒で解けた。
じれったかったが、口出ししては昌のためにならない。
鋭い眼光で、テスト用紙に真剣に立ち向かう弟の邪魔にならぬよう、俺は黙ってその様子を見守った。
「う~んう~ん、わかんないよ~」
「フッ、唸ってんじゃねぇよ。公式理解できないなら、教科書かノート見直せよ」
「はーい」
小言や文句は多いけれど、昌は根は素直で純粋だ。
きっとこの子はいい師に恵まれれば、ぐんぐん伸びる。
偉そうに指図している自分は、友人のノートを当てにして、いい見本とは呼びがたい。
本当なら家事や遊びにかまけていないで、兄が勉学に励む姿を、弟にも見せてやるべきなのだろう。
昌がぐうたらなのは、俺にも一因があるな。
自分自身を俯瞰して、自嘲する。
ノートや教科書を眺めて暫くすると見当がついたのか、昌は問題用紙の余白に鉛筆の先端を近づけた。
と同時にピーッ、ピーッ、ピーッ、ガタガタガタガタ……。
洗濯機から、喧(やかま)しい機械音が鳴り響く。
「うるさいな、集中できないよー」
「ちょっと見てくるな」
その場を離れ、洗濯機の前まで着くと、「途中で止まるオンボロ機械が」と悪態をつく。
居間の昌に目を遣ると、あいつはしかめっ面をして、耳を塞いでいた。
この環境は俺は勿論、弟にとっても好ましくないかもしれない。
俺が小3、4の時に購入して5、6年は経っている。
そろそろ買い替えの時期だが、両親に頼んでもはぐらかされるばかりで、相手にしてくれない。
日用品なんだから、ポンと金くらい出せよな。
吝嗇家(りんしょくか)の親に苛立ちつつも、最初と同じ設定を、また入力し直す。
雨の日は一段と、洗濯物が面倒くせぇなぁ。
だいたい1時間やればいいか。
今は4時38分から1時間だから、5時40分に取り出そう。
洗濯が終わる大まかな時刻を忘れぬよう頭の中に刻み込むと、俺は再び昌の元へと戻っていく。
服はアイロンとドライヤーで1枚づつ乾燥させて、7時になったら食事の準備をしてと、やらなければならないことで頭をいっぱいにさせながら。
短編小説集「少年から青年へ、少女から女性へ」 ?がらくた @yuu-garakuta
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