校門

「お前らも早く帰れよ。んじゃ」

 クラスメイトの挨拶に俺は手を挙げて返事した。彼も俺の動作を見て、真似るように手を挙げる。


「こんなことをして何になるっていうんだ」

 改めて俺に向き直った彼が、机越しに訝しげな視線を投げかけてきた。

 5時になっても外は依然として明るく、校庭の木の葉は、いずれ迎える秋のために俺たちの見えないところで赤を身に纏う支度をはじめる。電気は消され、 全開の窓から外の光をそのまま取り込む。この時期、この時間帯の教室は一年間で最も幻想的に見える。以前そんなことを中学時代の友人に話したら、「ポエマーかよ」と嘲笑された。

 教室の電気を必要とせず、ただ外からの光だけで十分に照らされる机というのは、それでもやはり見ていて心地の良いものであった。


 彼と俺に挟まれた机には、便箋と封筒、シャーペンが置かれていた。俺が置いた。

「想いを伝えるにはやっぱり手紙が1番だ。手間がかかるし、筆跡で書き手の人間性も窺える。ベタだからといって侮るなかれ。貰って嬉しくないやつなんかいない」

「僕はまだ何もすると言ってない」

 わざとらしくため息をつき、ペンケースの中から赤いボールペンと青い蛍光ペンを取り出して、彼の前でひらひらと動かしてみせる。

「あのな、アイツに彼氏の居ない今しか出来ないことなんだ。想って終わりじゃねえんだ。お前の言う『特別な感情』、そいつを試行錯誤して相手に何らかの形で伝えて、んで相手からも自分への正直な気持ちを打ち明けてもらう。それがうまくいけば2人は見事結ばれ、ついに隣を歩く権利を頂戴できるんだ。この一連の流れを人は恋愛っていうんだ。お前としてもさ、菜種との関係がこのままで終わっちまうのは虚しいだろ」

 小学生の頃に告白出来ず泣きながら中学に入学した俺が言うのは、どこか罪悪感を感じざるを得ないのだが。

「大体、どこからこんなものを……」

「ん、便箋これか。そりゃあ、……この前家から持ってきたんだ。俺がいつか使おうと思ってさ」

「君に告白したい相手がいたのか?」

「え、まあ、そうだな。いつかできた時のために、……さ」

 じっとこちらを睨みつける彼の視線が痛い。目を逸らそうとするが、それを許すまいとする彼の静かな、人間のような力を感じて。

「……書けば君は満足してくれるのか」

 彼はシャーペンをゆっくりと持ち上げた。

「ああ、満足する」

 やや食い気味に応える。これが俺の本心なのは間違いなかった。

 そういえばコイツはいつの間にやら、自分が恋をしているという俺の半ば強引な押し付けを否定しなくなっているな。


 お互いに椅子を引き、机と距離を縮める。

「よしいいか、お前が相手に思っていることを正直に、紳士的に、かつ詩的に書くんだ。そうだなまずは、お前は菜種のどこに惹かれたんだ?」


 早速、ペンが止まった。


──────


 「まずいな、そろそろバド部終わる頃だ。菜種、帰っちまうぞ」

 太陽が沈みはじめ、空が木の葉を追い越して赤く染まった。普段なら写真の1枚でも撮っていたのかもしれない素敵な光景だが、今はただ時間に追われる俺たちを煽るのみだ。

 それからしばらく、彼と話し合った。菜種の顔、性格、髪型、体型。彼が彼女のどこに魅力を感じているのか、俺はおろか彼すらもはっきり分かっていなかった。ただ、「彼女は特別なんだ」と呟くばかりで。

 それなのにさっきから俺ばかりがひたすら焦っている気がする。

 沈黙を代行して俺のひたすらカチカチと鳴らすボールペンのノック音が、たまに発せられる俺たちの一言一言を繋いでいる。


「君はどうしてここまでして僕に手紙を渡させたいんだ?」

 ふと彼が尋ねてきた。

「どうしてってそりゃあ──」

 顔を上げた俺は目の前の光景に意識をとられ、はっとして再び顔を便箋に戻した。


 本当に時間がなくなってきている。


 返答の代わりに俺は後頭部を雑に掻き回した。

 考えろ、何かないか。彼が彼女に好意を伝えるための、最適な言葉。

 俺はともかく、なんでコイツまで現代文苦手な設計にされたんだよ。


「お前は、本当に菜種が好きなのか?」苛立ち紛れに何気なく訊いた。


 雫が落ちる直前のような静寂。


 彼の目が大きく見開かれる。初めての形式の質問だからだろうか。

「好き……?」

 俺の頭の中で、真っ白な糸が繋がれたような気がした。

 ああ、そういえば。そういえば俺たちの今までの会話で「好き」という単語は1度も出て来なかったではないか。

 彼は俺を真正面に見て、いつものように、落ち着き払った声で、まっすぐに呟いた。

「ああ、僕は菜種未知が好きだ」


──────


「いた! ほらあの木のとこ! あそこ歩いてるの間違いなく菜種だ」

 階段の踊り場の窓から外を指さして声を上げた。

 今ならまだぎりぎり間に合う。隣には封筒を持った彼もいる。

「君はどうしてそこまでして今渡したがる? 明日も学校は、あるじゃないか」

 怪訝な顔で彼は足を止めた。

 俺が事を急ぐ理由、それは──

 ぐにゃりと姿勢を崩したかと思うと、派手な音を廊下いっぱいに撒き散らし、彼がその場に倒れた。俺が手を差し伸べる前に、よろよろと立ち上がる。

「お前、本当に大丈夫なのかよ」

「何を、言っているんだ君は。僕は、至って正常、だからして心配の必要はないぞ」

 彼から発せられた言葉は、文法といいテンポといい、先程までの彼からは想像もつかないほど覚束ないものとなっていた。

 くそ。こうもいきなり『その時』が来ちまうのかよ。気づけば俺は肩で息をしていた。一刻も早く彼を菜種の隣に送らなくてはならなくなった。

「大丈夫なんだな、本当に大丈夫なんだよな。とにかく、早く外に出るぞ」

 急にも程があるだろうよ。くそ。くそ。

 視界が揺らぎ、足元がふらつく。大丈夫じゃないのは、どうやら俺も同じらしい。


「あそこに見えるだろ。そうあれが菜種だ。ここからは俺は一緒には行けない。お前1人で、手紙それをアイツに渡してくるんだ」

 玄関から出て校門の向こう、俺が指さす先に、菜種の姿があった。随分と遠くにいるが、まだ誰なのか判別できる程度の距離にはいる。急げば彼でもなんとか追いつけそうな距離だ。

「君が」

 前を行く彼がふと、こちらを振り返った。1人焦る俺は「進みながら話すぞ」と彼の背中を押した。

 動かない。

「おい何してんだって。早く──」

「君が居なかったら、僕は、おそらく何も残せないまま、何も、残らないままいた」

 もはや俺は返答すらまともに出来なくなっていた。

日渡ひわたり」俺の苗字だ。

 ただただ彼を見つめるしかなかった。

「日渡、ありがとう」

 そういう彼の左目は半分閉じかけていて、膝も中途半端に曲がっていた。

 だが今、彼が俺に初めて見せたこの笑顔は、故障でもバッテリー切れのせいでもないと、信じたい。

「……俺は背中を押しただけだろが」

 俺の腕から彼の背中が離れた。それから彼はこちらを振り返ることなく前進していった。

 しっかりやってこいよ。

 声には出せず、その代わりじっとその背中を見つめた。


 理不尽だ。

 何が『2年もてば万々歳』だよ。ちくしょう。きっかり3年もつバッテリー作ってから送り込みやがれ馬鹿野郎共がよ。の青春に、『バッテリー切れのため1年半でクラスメイトとサヨナラ』なんてイベント、組み込まれていいはずがねえだろうがよ。

 少子化がどうのこうの偉そうに語ってるくせして、当のガキ共の都合一切無視しやがって。

 結局、17にもなってまだ俺たちは向こうの好き勝手に振り回されるのかよ。

 んだよ、大人って。

 そうやって、また奪ってくのかよ。

 くそが。


 1つ、また1つと歩を進める。彼女に追いつく必要があるため、その速度は少しづつ上がってゆく。

 何の拍子もなしに、彼がまた膝から崩れ落ちた。

 起き上がろうとするが、その姿は死にかけの子犬のように弱々しい。数分前から急激に限界に近づいていることを、痛々しいほど物語っていた。

 だが足はそれでも前に動こうとしている。顔は真っ直ぐ彼女の方を向いている。沈みかけの太陽に半身を照らされて、前に前に進もうとする。生まれてきてこの瞬間ほど、1人の友人がここまで格好よく見えたことはなかった。


 校舎から黒スーツを着た男が急ぎ足で飛び出てきた。

「もう限界か……残念だが。君、今日まで彼の面倒を見てやってくれてありがとう」


「は?」

 何を言っているこの男は?


「上から通達があった。彼は今日をもって卒業だ。これから回収にかかるから、最後に伝えたいことがあれば──」

 熱を帯びた苛立ちが口から漏れる。

「……かかよ」

「え?」

 拳に力が入る。

「馬鹿かよあんたは!? 見てわからないんすか!? あいつは今仕事をしている! ロボットとして! 高校生として! 1人の男としてだよ!」

「ちょ、ちょっと、少し落ち着い──」

「あんた保護者ならもっとちゃんと見てろよ! あんたの子供が今、いま……」

 目頭が急に熱くなる。息は惨めなまでに絶え絶えで、とうとう俺までもが膝から崩れ落ちた。でこぼこのコンクリートが手に食い込んで痛い。

「がんばってんだって……」


──────


「本当に申し訳ない事を言ってしまった」

「俺に謝らないで下さい。……いえ、こちらこそ。すんませんした。あんな大声で、みっともなく。恥ずかしいっす、ほんと」

 あれから、2人で校門の前で彼を最後まで見守るということで話は収まった。

 この先に道は真っ直ぐ続いており、菜種の姿もまだ辛うじて視界に入った。そろそろ角を曲がり、完全に影を消す頃だろう。

 彼は相変わらずふらつきながらも、着実に、確実に彼女に近づいている。時折バランスを崩して倒れる。その度に俺たちは思わず前のめりになるが、お互い動き出したい気持ちを必死に堪えてまた踏みとどまる。何度かこのやりとりが続いた。


「もしかしたら信じてもらえないかもしれないけどさ、ぼくも彼の勇姿は最後まで見届けたいと思っていたんだ。君の言った通り、親の1人として、ね。ただ、バッテリーが切れるその瞬間を君に見られるのだけはどうしても避けたくて。君はあの子が入学してから、ずっと傍に居続けてくれたからね」

 男の言わんとすることは俺にも分かった。さっきの言動は、俺のことを考慮してくれてのことだってのも。だが、

「だからこそ尚更見ていてやらなきゃならないんすよ。ずっと隣に居たからこそ。使命とかそういうのじゃないすけど……友人の1人、1人の友人として」

「……そうか」

 綻びかけた、でもどこか悲しげな顔で呟いて以降、男は何も喋らなくなった。


 もう彼の背中も随分と遠くに見えるようになってしまった。その手にはくしゃくしゃに潰れた封筒がしっかりと握られていることが、ここからでもはっきりと分かる。


 悪かったな、無理言って手紙なんか書かせて。でも言うの耐えられなかったんだ。

 お前がもう長くないかもしれないってこと。

 声の音質が以前から悪くなっていたこと。

 それが今日になっていつにも増して酷くなっていたこと。

 もう、声ではっきり想いを伝えるのは難しくなっていたこと。

 左手の薬指が変に曲がっていること。

 左目が少しづつ開かなくなっていたこと。

 それなのに、それなのにお前はどれ1つにも気づきすらしなかったこと。

 1歩、また1歩と彼が遠ざかってゆく。

 結局言いそびれたけどさ、ありがとうは俺が言うべき台詞だったんだぜ。ありがとうよ、俺の隣でいてくれて。高校に入ってから全然馴染めなくて、ずっとぼっちだった俺と一緒にいることを選んでくれて。

 呆れるほどありきたりな、だが小っ恥ずかしさは不思議と感じられなかった。

 胸ポケットに入れた、彼に貸していたシャーペンがほんのり熱を帯びた気がした。

 ようやくさっき収まったものが再び込み上げてきた。

 夕日はいよいよ沈み終えようと、最後の輝きを放っている。空を、町を、校舎を、木々を、彼を、余力の限り照らしている。

 瞬きする度に景色が歪んでゆく。

 左手でズボンを力いっぱい握りしめる。声が出そうに、叫び出したくなる口を右手で全力で押さえる。


 空が暗くなってゆく。

 光が収まってゆく。

 熱が消えてゆく。


 2人の背中が、近づいてゆく──。




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アンチマシーンの詩 亜木 @ago_0505

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