あした晴れたらいいね
まんぼう
第1話 介護保険申請
まだ世の中は「平成」だった。
今上天皇陛下が天皇の地位を退きたいと述べられて、新しい年号に変わることが政府から示された頃のこと。亜由美は夫の泰治に夕食後のコーヒーを入れながら話をし出した。
「ねえ、お義母さんだけど、家にばかり居るとボケちゃうから、デイサービスか何かに行かせた方がいいと思うの」
泰治はブラックのコーヒーを口に運びながら
「前にも話したのだけど、そのこと言うと良い顔しないんだよね」
泰治の母親の和子は今年米寿を迎える。昨年まで家業の飲食店に顔を出していたのだ。実際は何もしないのだが、お客が和子が居ないと
「女将さんはどうしたの?」
と一々尋ねて来るので本人も、それならと顔を出していたのだ。だがさすがに体力的にもキツくなり、ここ半年は家に閉じこもっていた。夫の茂雄は十年前に亡くなっていた。
「でも私の知り合いの姑さんは、いざ行って見たら気にってしまって、今じゃ楽しみにしてるそうよ。お義母さんも同じだと思うのだけど。それに家に居てボケたら私嫌だからね」
亜由美としたら、既に八十を過ぎた自分の母親の面倒を見なくなるかも知れないのに義母の世話までは御免だった。
「そうかぁ。そうかも知れないな。じゃあ介護保険の申請してみるよ」
泰治は翌日から介護保険の申請を調べてみた。すると、まず申請用紙を用意して書き込み、役所の老人福祉課に申請する。この課の名前は自治体によって変わる。
それには医者の「診断書」等が必要になる。これは掛かり付けに医師となっていた。
泰治は自分も係っている近所の医師に和子を連れて行き診断書を書いて貰った。申請すれば役所からこの医師の元に連絡が行き、意見書を書いて貰うことになる。
泰治は必要な書類を揃えると役所に申請をした。その後の流れは、少し経つと役所から判定員と呼ばれる人が派遣され本人の状態を確認する。その後判定会議を経て介護保険が使えるようになる。この時にケアマネージャが選定される。このケアマネージャとは基本的に、今後本人が亡くなるまで付き合いが続く。
自治体によっては申請用紙を役所のホームページからダウンロード出来る所もあり泰治の自治体でもそれが出来たが、泰治は申請にあたって何も知らないので役所の窓口で色々と尋ねたいので役所まで取りに行ったのだ。
申請から少し経って判定員が来る連絡があった。その後、本人から連絡があり日時の打ち合わせをする。やがてその日がやって来た。
基本的はこの判定員も何処かのケアマネージャーをしている人だそうだ。
「御免ください判定員の本庄と申します」
本庄と名乗った判定員は首から下げた名札を見せた。
「あ、宜しくお願いします。多田野泰治です。奥に座っているのが母の和子です」
挨拶を済ませると本庄判定員は家に上がって来た。そして和子にも挨拶をする。
「それでは始めましょうか」
この言葉で判定の為の審査が始まった。審査と言うほどのものでは無いが、それでも生活の上で色々な事を和子に尋ねてチェックして行く。その中には片足で立って三十秒立てるか? と言うような物もあった。この時和子は未だそれを何とかこなしていた。
「判りました。実際の生活はご家族にやって貰っているのですね」
そう言い残して判定員は帰って行った。大凡小一時間ほどの時間が係った。
「別にデイサービスなんか行かなくても良いからさ」
和子はそう言ってどうでも良いというような態度だった。
判定会議は月に一度なので今月は終わっているので翌月になる。だから判定員が来てからほぼ一月後に自治体から連絡があった。判定が通った事とケアマネージャが決まった事。そして判定が「要支援2」だったこと等が告げられた。翌日介護保険証等の書類が送られて来た。それと同時に新しくケアマネージャとなった和田陽子という人から泰治に連絡が入った。
「新しくケアマネージャとなりました和田と申します。お母様の今後について御相談をしたいので日時を調整したいのですが」
声からすると若い感じがした。物の言い方も悪くない感じだった。泰治は良い印象を受けた。
約束の日和田さんは泰治の家にやってきた。泰治の家は三階立てで一階を和子が使っていて二回を泰治夫婦が使っている三階はアパートとなっていて二所帯に貸している。泰治はこれまでは食事などは泰治が世話をして掃除などは妻の亜由美が行っている。最近になり洗濯も行なっていた。
「こんにちは。初めましてこの度ケアマネージャーになりました和田陽子です」
和田は小柄だが明るく人当たりの良い容姿をしていた。泰治は
『可愛い人だな』
という印象を持った。上がって貰って和子を含め話をする。制度上はこれは「介護会議」と呼ばれるのだそうだ。
「まずご希望を伺います。お母様の今後についてどのようなご希望がありますか?」
ソファにちょこんと座りながら和田はファイルを開いて色々と書き込んで行く。
「そうですね。週に何回かデイサービスを受けたいと思っています。このままだと人とも会わないのでボケてしまうのではと思っています」
泰治は最初の目的でもあるデイサービスのことを口に出した。
「お母様は家では手押しの車を使って移動なされたいるのですね」
昨年から和子は家の中でも捕まり歩きしか出来なくなっていた。それを見て泰治は小型のシルバーカーを買って和子はそれを使って家の中を
移動していた。
「デイサービスは送迎つきですが、どうなされます?」
「どうとは?」
「つまり、今日拝見致しましたところ、歩いてご自身で車に乗るのは少し困難ではないかと思いました。表に出る時は車椅子を使われては如何でしょうか」
和田に言われて確かに今の状態では和子は車には乗れないだろうと思った。
「じゃあお願いします。車椅子なら母を医者にも連れて行けます」
泰治は先日の診察を受けに行った時の苦労を思い出した。どうしても歩けないので、知り合いから車椅子を借りたのだった。
「ではそうしましょう。玄関までは手押し車で歩いて貰って、そこ車椅子に乗り換えて貰いましょう」
その他の細かい所を決めてその日は終わった。程なく和田からデイサービスの施設の連絡が入った。隣街にある施設で日常的なことをする施設ということだった。デイサービスには日常的なことをする施設と、リハビリに特化した施設とがある。リハビリの方はかなり辛いとの事なので泰治は日常的な方を選んだのだった。基本的は週二回と決まった。始まる日だが泰治の仕事の関係で翌月からとなった。これがその後大きな問題となるとはその時は思わなかった。
和子の楽しみは缶チューハイを飲むこと。お酒には強く本人は親譲りと言っている。調子の良い時は350ccの缶を日に四本飲む。昼の間に二本。夕食時と寝る前に一本ずつという具合だった。
缶チューハイは最近ではアルコール度数の高い物が人気でスーパーなどでも前列に並んでいる。基本的にアルコールを受け付けない体質の泰治はそんなことは意識もせずに最前列に並んでいるものを買っていた。商売上色々な店で仕入れるのでそのついでだった。
デイサービスに行く日も近づいて来たある日。仕事を終え二階の自分の家に帰る前に一回の和子の様子を見る為に一階に寄ってみたのだが、そこには居間でひっくり返ってる和子の姿だった。
「どうしたの?」
泰治の声に
「分からないんだよ。急に腰が抜けて立てなくなっちゃった」
まるで蛙のように手足をバタバタさせて藻掻いている親の姿を見て泰治は
「やはりアルコールが多すぎたかな?」
というのも先日缶チューハイのアルコール濃度の高い製品の危険性についてネットで読んだからだった。
とにかく、隣の部屋のベッドまで連れて行かなくてはならない。抱き上げようとしても七十キロ近い体重の和子を抱き上げることは出来なかった。シーツを持ってきて広げ、その上に和子を寝転して乗せた。そしてシーツごと引っ張って少しずつ運ぶことにした。
「もういいよ。このままにして! このまま死んでも文句言わないからさ」
和子は人の気も知らずに呑気なことを言っている。冗談じゃないと泰治は思った。
距離にして数メートルなのだが今から廊下に出てそれから隣の部屋に入り、そしてそこに置いてあるベッドに乗せる。考えるだけでも気が遠くなりそうだった。
少しずつ引っ張って運んで行く。全身汗まみれになっていたが止める訳には行かない。
一時間近くかかり何とか隣の部屋のベッドの前までは連れて行くことが出来た。そこでベッドの脇に和子を起き上がらせた。和子は力が全く入っていにので、通常よりかなり重く感じる。それでもやっとの思いでベッドによりかからせた。そして和子を抱きしめて持ち上げた。
「ううううん」
絶叫みたいな気合を入れて何とかベッドに寝かせることが出来た。もう着替えさせる気力も残っていなかった。
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