第 6 話 古杣

 紬が嬉しそうに、みーちゃんを抱き上げて戻って来た。床に下ろすと、みーちゃんは座った紬のお腹辺りに抱き付く。


「ねーねー、こわくない?」

「怖くないよ。グミ食べる?」

「ねーねがたべる」

「前から思ってたんですが、みーちゃんの言う、こわいって何ですか?」

「うーん、何だろう。私が不安だったり、緊張してるとそう訊いて来ます。何か感じてるのかな」


 少し遠くを見ながら、紬が答える。彼女に背中をぽんぽんと叩かれて、みーちゃんは安心しているように見える。


 遊直は彼女達に形容し難い者の説明をした。そして、自分達は彼らに纏わる問題を収まるために働いていることを話した。


 紬は既に幾つか説明を受けていたが、改めて聞くと思い当たる節があるのか、表情を翳らせた。


「彼らと人間は共存が可能だと、我々は考えています。私も形容し難い者と共に生きているようなものです。もう、切り離すことは出来ません。だから、もし何か困っている人達がいるなら、解決のお手伝いをしたいと思っています」

「共に生きているって?」

「私はある形容し難い者に顔を奪われました。今も失われたままです。でも、奪われたお陰で私は自分の顔を知れました。それは、彼女がいなければきっと一生知ることが出来なかったことです。そういう意味で、私は形容し難い者に感謝してるんです」

「私も、みーちゃんに感謝してる。みーちゃんがいなきゃ、とっくに潰れてしまっていた」


 子供は黒目がちの目で彼女を見つめる。


 突然、ガツンと窓の外から音が鳴った。その瞬間、紬は耳を手で塞ぐ。反射的な動きだ。酷く怯えた様子で、床を見つめている。


 遊直が窓を見に行くと、テラスに小さい箱が落ちていた。窓を開けて拾い上げると、それなりの重量があった。箱の表示を見ると、オルゴールのようだった。


「ごめん。落としちゃった」


 空からバサバサという音と共に、背に羽を生やした形容し難い者が降りて来た。配達員だろう。空を飛べる者は、その機動性の高さを活かして、荷物や手紙を運ぶ仕事に従事ていることが多い。


「怪我してない?」

「ええ、大丈夫ですよ」

「驚かせてごめんね。わー、中身壊れてないといいな」


 箱を手渡すと、彼は礼を言って、また天高く飛び上がった。赤い大きな鞄を担いでいる。配達員が持つ、郵便物を入れる鞄だ。


「ねーねー、こわい? たまった?」

「大丈夫……大丈夫……。もう、いないもの」


 振り返ると、青い顔をした紬にみーちゃんが話し掛けていた。只事ではない様相である。しかし、みーちゃんに話し掛けられているのに、耳から手を離さない。


「ツムギさん、大丈夫? アナタ、音が怖いの?」


 紬の隣にしゃがみ、問い掛ける。怯えた大きな黒い目で、遊直を見る。


「音。音が怖い。音が溢れると、誰かが死んでしまう。お母さんが。違う。音が、私を追い詰めて、音が鳴るとお父さんが怒る。私を殴って、音が、音が……! だから、だから、私はみんな殺した。でも、まだ、音が耳に張り付いてる」

「ねーねー、こわい?」


 みーちゃんは酷く冷静な眼差しを紬に向けていた。様子のおかしい彼女を前にして、動揺も不安もなく、ただ真っ直ぐに見つめている。


 その目を、みーちゃんを恐れるように、紬は後退りする。先程迄とは、すっかり違う関係性に遊直に緊張が走る。


「ごめんなさい。もう逃げないから」

「ねーねー」

「違う。駄目、やめて。もうやだ、もうやだよ。もう殺したくない!」

「でも、そうしないと、ねーねーこわれちゃう」

「嫌だ!」


 ヒステリックに叫ぶ少女に、幼い子供は諭すように優しく語り掛ける。耳を塞ぎ、涙を浮かべながら、それでも、みーちゃんを振り切ることが出来ずにいる。


「待って、ツムギさん、落ち着いて! ここにはアナタを攻撃する人はいません!」

「嫌ぁああ!」

「あーあ、たまっちゃった」


 みーちゃんがそう呟くと同時に、遊直の腹の底で何かがぞくりと蠢いた。それは本能的な危機感だ。体の芯から何かを拒絶している。それは何だ。


 視界が急に暗くなる。皮膚をひりつかせる、ピンと張った緊張感がある。危機はより近付いている。


 遊直は辺りを見渡した。天井近くの小窓から微かに光が差し込んでいるが、突然の暗所に目が慣れず、何も捉えられない。やけに湿気っぽく、黴臭さが鼻につく。床に触れると、つるつるとした表面の隙間に、ざらざらとした細い溝が規則的に走っている。


「タイル……?」


 灯籠館の床は畳の筈だ。


 照明が落ちただけの事態ではないようだ。


 ぺたり、ぺたりと、素足がタイルに引っ付いて離れる音がした。音の方に目を向けた途端、音の方から光を反射する何かが遊直を突き刺そうとした。


 右側へと体を捩り、すんでの所で躱す。暗所は狭く、肩を壁にぶつけた。慌てて立ち上がる。


 自分に向かって来た何かを捉える。鈍色に光るそれは、包丁だった。そして、それを持っているのは小さな体躯の人物。紬だった。


 目が慣れて来て漸く分かった。ここは、アパートの浴室だ。


 彼女は目を閉じている。近くにみーちゃんはいない。


「嫌だ。もう、何も聞きたくない。何も。バラバラになる音。割れる音。枝葉が擦れ合う音。布を引き摺る音。肉と骨がぶつかる音。踏切が閉じる音。包丁が床に刺さる音。お父さんがお母さんを殺す音」


 靴下に何か液体が染み込んで来る。それは仄かに温かい。お湯が蛇口から出たのかと思ったが、それはやけに生臭く、水に比べて粘りがあった。


「嫌だ、嫌だ、嫌だ。なんで、なんで誰も聞こえないの。何で、何で、何で、もう嫌だ! 嫌だよ! なんで誰も助けてくれないの!」

「聞こえますよ」


 紬が目を閉じたまま、包丁を振り回す。遊直は腰の警棒に一瞬手を伸ばし掛けたが、やめて、彼女の細い腕を掴んだ。同じ年頃の子よりも、痩せた腕だ。


 体格は遊直の方が大きく、力もある。不意打ちさえ防げれば、経験の差もある。


 遊直は彼女の両手を掴み、彼女の背よりも高くに引っ張り上げる。吊られた彼女はバランスを崩す。すかさず胸辺りに向けて、肩で体当たりをした。壁に当たった衝撃で、紬は包丁を床に落とす。


 咳き込みながら、包丁を探して伸ばされる彼女の手を掴み、包丁を脱衣所へ蹴飛ばす。


 濃厚な血の匂いに、遊直は顔を顰める。横目に見えた。振り返れば、浴槽に山のように積まれている。


 それは、残酷な妄想の産物で、同時に彼女の苦しみそのものだ。


「あ、あ」

「目を開けて、ツムギさん! ここはアパートじゃない。お父さんも、ここにはいません。アナタを苦しめる物はありません!」

「嘘だ!」

「嘘じゃありません。死体はありません! ないんです! これは、アナタの頭の中で起きた出来事に過ぎません。目を開けなさい、大丈夫だから」

「嘘だ、嘘だ。だって、お父さんも大丈夫だって言った。けど、何にも大丈夫じゃなかった」


 泣き叫ぶ彼女を、遊直は強く抱き締めた。彼女の動きが止まる。


「そうですね、大人は嘘吐きですね。アナタを沢山傷付けました。アナタの心の声を無視しました。ずっと我慢して来たんですね。でも、私はアナタを見付けました。アナタの声を聞きました。アナタもアナタを虐めるのをやめて、もう、力を抜いてください」

「駄目だよ。もう遅いもの。殺しちゃったもの。お父さんも、みんなも」

「大丈夫です。みんな生きてます。アナタは誰も殺してなんかいません。さあ、目を開けて見て」


 彼女の体から力が抜かれると同時に、暗い浴室は霞のように掻き消えて、灯籠館の上品な和室が現れる。鉄臭さはどこにもなく、藺草の匂いと、甘ったるい砂糖の匂いがした。足元にグミが散らばっている。幾つか踏み砕いてしまったせいで、匂いが強くなったのだ。


 遊直は長く息を吐き出した。紬が小さい子供のように、抱き付く。


「私、嘘吐いた。本当はみーちゃんのこわいの意味分かってた。いっぱいいっぱいになると、みーちゃんが浴室に私を連れて行くの。そこには、私を苦しめる誰かがいて、私はその人を包丁で刺すの。そして、鋸でバラバラにして、すると、私はすっきりするの」

「ええ、ええ」

「お父さんがお母さんを殺したみたいに。みんな殺して、そうしたら、本当にいなくなっちゃったの」

「そうなんですね。でもね、アナタのお父さんはお母さんを殺してませんよ。トラックに轢かれてしまったんです」

「嘘だ、だって、肉が引き千切れる音を聞いたことあるもの」

「いいえ、嘘じゃありません。アナタは事故現場を目の前で見てしまったから、きっとショックが大き過ぎて記憶が混乱してしまったんです。でも、それはアナタがアナタを守るためにしたことです。それはいいんです。それで今までは良かったんです。でも、今、アナタは本当のことを知った。だから、その現実は終わりにしましょう」

「私、悪いこと沢山してしまった」

「そうですね」

「捕まる?」

「どうでしょう。みんなが戻って来なかったら、捕まってしまうかも知れませんね。でも、アパートの住人は生きてますよね」


 遊直がみーちゃんに目を向けると、みーちゃんは不思議そうな顔をした。


「みんなもどってきていいの? こわくない?」


 紬が泣きっ面で答えた。


「うん、もう大丈夫。もう、怖くない。返事が返って来たから。みーちゃんも聞こえたでしょう」

「きこえるよ」


 みーちゃんは優しい顔で頷いた。





 アパートの住人が発見されたのは、その日の夕方だった。パトロールを強化していた警察が、空き巣などの防犯のためにアパートに立ち寄った所、行方不明になっていた六人が浴室に倒れているのを見付けたのだ。


 直ぐに病院へと搬送されたが、異常はなく、全員その日の内に目を覚ました。


 行方不明になっていた間の記憶はなく、まるで浦島太郎になったような様子だったそうだ。


 事の顛末はこうだ。


 紬の母親が事故死したことで、父親の負担が増え、重責に耐え切れなくなった父親は仕事もせず、紬に当たるようになった。ローンも払えなくなり、住んでいた家を引っ越し、現在のアパートへと住まいを移した。


 それでも尚、虐待は続き、周りから紬は奇異の目に晒されることになった。そのことと、怒鳴り声を含む暴力で常にストレスが掛かっていた紬は、押し入れの中に逃げ込み、そこで形容し難い者を見つけ、心の慰みとした。


 絶えず続く過酷な環境に、紬は助けてくれない誰かを殺害する妄想をすることで、ストレスを発散していた。それは次第に身近な人物へと対象へと変化していった。バラバラ殺人に拘っていたのは、母親をバラバラにして殺したのは父親だという、事故当時の混乱からくる思い込みからだった。実際には、母親は事故死であることが確実で、紬の思い込みは事実ではない。


 ストレスの度合いを彼女は音で感じていた。音を多く感じるようになるとストレスが増えているサインで、一定ラインを超えると、音が遠のき、浴室にいるのだそうだ。


 紬による名付けによって、少しずつ成長し、力をつけていた形容し難い者こと、みーちゃんは、その力を使い、よりストレス発散になるよう、紬の妄想を強化して、更に殺した人物を異空間へと閉じ込めた。その異空間にアクセス出来るのは、みーちゃんだけで、内部の詳細は未だ不明だが、時間の経過は発生しないようだ。


 彼女は紬と聴力を同期していて、みーちゃん自身の耳に音は入らない。みーちゃんは常に、紬が聞こえている音を聞いている。ストレスの度合いが測れるのも、この特殊な聴覚故だろう。


 紬はそうしてストレスを発散をしていたが、リアルな殺人体験と、どんどんと住人がいなくなる状況に、自分が実際に殺人をしているという思い込みと、恐怖を抱くようになる。そして、良くも悪くも自分の中で巨大な存在である父親を殺害したことによって、枷が外れ、みーちゃんを置いてアパートから逃げ出してしまった。


 しかし、みーちゃんはすぐに紬を発見し、二人は合流することになる。始め、紬はそんなみーちゃんを恐れていたが、何回も自分を助けてくれたことを思い出し、今度は自分が守ろうと決意したようだ。たった一人の家族だという拠り所にもなっていた。


 紬とって、みーちゃんは妹であり、娘であり、同時に自分でもあった。彼女は親にして貰えなかったこと、与えられなかった愛情をみーちゃんに与えることで、自分を慰めていた。


 そして、遊直との会話の最中、緊張と全てを告白したいというストレスから、遊直を殺人現場へと招いてしまう。すんでのところで、攻撃を免れた遊直によって、紬は殺人は自分とみーちゃんで作った幻想であると気付かされ、みーちゃんの力は解除された。


 そして、警察によって異空間から解放された行方不明者が発見され、事件は収束した。


 紬は特殊生体管理部が運営する、形容し難い者の被害者や関係者のための保護施設、波間の石へと送られることになった。父親は反対し、未成年であることを鑑みて、紬は家へと返される所だったが、今回の事件の発端となったのは父親の保護者能力の不足であるとし、鬼長が粘り強く説得した結果、週に二回の面会を条件に彼女を家から引き離すことが出来た。面会の際には、施設の構成員が同席することも条件に出来た。


 その施設にて、みーちゃんと二人で健康的に暮らしている。紬はそこから学校にも通っており、今のところ、問題は報告されておらず、穏やかに仲睦まじく過ごせているようだ。


 現状、数ヶ月人間が消えた程度では、形容し難い者を罰することは出来ない。まだ、法整備が追い付いていないのだ。甘言楼などの監獄へ送られる条件は、殺人又はそれに類する行為や、大人数に著しい損害を与えることである。後者にはのっぺらぼうなどが該当する。他には、重要な事件に関わる者も何人か封じられているとか。


 紬とみーちゃんは、謂わば監視されているような状態だ。だが、みーちゃんの能力行使の条件に、紬のストレスが組み込まれている以上、事件を未然に防ぐためには、紬を健康的に健やかに過ごさせる他ない。


 それは良い方向に働いているようで、遊直に時折届く手紙には、良いニュースが多い。何でも、みーちゃんが誰にも見えて触れるようになったとか。他にも、自分のストレスや感情を制御するための訓練や、みーちゃんと共に情操教育も受けている上、将来特補に入るために、勉強と課題に追われて忙しいながらも、何にも怯えない毎日を送っているとか。可愛らしい便箋でお知らせしてくれている。


 遊直は冠水の町に来ていた。藪の園へ行くためだ。


 だが、足は自然と別の場所に向かっていた。


 張り巡らされた水路と、溢れんばかりの鮮やかな光源の群れを超え、狭く細い路地を通り、暗い広場へと出る。変わらない夕闇を背に受けて、遊直は思わず見上げた。


 そこにあったのは建物を飲み込むかのように聳え立つ大木だ。根本には鄙びた楼閣、咲き誇る花々、開かれた玄関。ここは形容し難い者を閉じ込めるための施設、甘言楼だ。


 敷地内には足を踏み入れず、遠目で建物を眺める。入口側には、しなやかで上品な女性の形容し難い者が空を眺めていた。ふと、彼女が建物の中を見て微笑んだ。すると、中性的な顔立ちで、黄昏のような曖昧で美しい目をした人が、誰かの手を引いて出て来た。


 遅れて出て来たのは、不安定で底知れない透明感を持つ者だった。見た目だけでは、性別は分からない。その人は、眩しそうに天を仰ぎ、石畳の床を見てから、美しい人を見た。初めて外を歩くかのように、不安そうにしている。


「こんばんは」


 後ろから声が掛けられる。九慈理だった。


「こんばんは、クジリ。アナタが外にいるなんて珍しいですね」

「偶には散歩でもしないと、体力が落ちちゃう。ん、あれは冷たく昏い御子と無垢なる君じゃないか、初めて見たなぁ」

「あれが冷たく昏い御子。思ってたより普通の見た目なのですね。人間と変わらない」

「人間が変わらな過ぎるとも言えるがね」

「無垢なる君ってどなたですか?」

「さあ?」

「さあって、アナタ知ってるみたいな口振りじゃ、ありませんでした?」

「最近、冷たく昏い御子がご執心ってことしか知らないよ。嗚呼でも、綺麗な子だね。透明だ」


 九慈理の目線を追うと、二人は路地へと姿を消して行った。


 九慈理が煙草を取り出し、火をつけずに口に咥えた。


「許可ないと入れないって知ってるでしょ? 何でここに来たの?」

「ただの感傷です」

「ふうん?」

「自分の少女だった頃がどうだったか、近付けば思い出すかなと思ったんですけど、駄目ですね。私はすっかり大人みたいです。明日の仕事のことばかり考えてしまう」

「私は子供だった頃がないから、そういうのは分かんないな」

「……煙草、つけないんですか?」

「ニレから臭いと苦情が来てね。レニは面白がってくれたけど。まあ、これを機に禁煙でもしようかなと思ったのさ」

「じゃあ、持ち歩かない方がよろしいんじゃありません?」

「持ち歩きながらも吸わないでいられてこそ、禁煙だろう」

「三日も続きませんね」

「酷いこと言うな。……まあ、でも、なんだ。私のアドバイスは使えたかい?」

「どうでしょう。ヒントになった気もするし、ならなかった気もするし」

「そんなもんだよ。何にでも当て嵌まる助言なんてない。嗚呼そうだ。これだけは言っておこう」

「何でしょう」


 遊直は九慈理に目を向けると、彼はギザギザした歯を隙間から覗かせながら、笑って言った。


「あんたは立派に大人になったよ」


 遊直は得も言われぬ感情に襲われた。それは、嬉しさでもあるようで、寂しくもあり、誇らしくも思いながらも、もう戻らない過去に後ろ髪を引かれるような思いでもあった。それを一言で表せる言葉が、遊直には見つからなかった。


 九慈理が黙ってしまった遊直の顔を覗き込む。布に遮られ、叶わない。


 猛々しい鬼灯の瞳は、安らぎに満ちて静かだった。


「改めて言われると、何とも言えませんね。特に、寝汚いと小さな子供に怒られるような人に言われると」

「褒めたのに!」

「あはは」


 声を上げて笑いながら、二人は踵を返し、藪の園を目指した。


 彼女もいつか忘れてしまえればいい。耐えきれなくなる位なら、過去を材料に自分を苛むなら、辛く暗い過去など忘れてしまえばいい。そして、自分達が幸せになるための選択に手を伸ばして欲しい。顔を失い、親の愛も理解出来なかった少女は、今、こんなにも毎日が楽しいのだから、きっと誰にでもその選択肢はあるのだ。でも、それは与えられるものではなく、目に見えるものでもなく、心と頭で認知するしかないものだ。


 母親にはなれないし、家族にもなれない他人だけど、彼女達の未来に祝福あれと祈る。


 少女だった女性は軽々と石畳を踏み歩く。疑うこともなく、世界との境界を認識し、美しい光景に目を奪われては、それを語り合う。時折、失った自分の顔を覗き、まだ形の分からぬ安堵を得る。


 それが、安らかで時に騒々しい、それでも愛おしく思う自分の世界だと信じている。


 宵闇に靴音を響かせながら、まるで父のような形容し難い者の横で、遊直は笑った。

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無形のクラッジ 宇津喜 十一 @asdf00

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