第 5 話 消えた死体
デスクの上にあった書類は、警察が纏めた一連の事件についてのものだった。遊直は行方不明者リストに目を通した。
このアパートにいた幼い子供については、ほぼ不明である。戸籍上、前田紬に姉妹はいない。紬の子供の可能性は、高校での行動や授業態度から妊娠していた可能性は低く、ほぼないと見て良いだろう。
近隣の住民には、アパートに小さい子供が来たことを知る者は一人もいなかった。
子供の姿を見れる人間が限られている事から、その子供は名無しか、中途半端な名付けが行われた形容し難い者である可能性が高い。
そう締め括られている。確かに、あの子供は、形容し難い者なのだろう。どういう性質を持っているかは別にして。
資料を読み終わった遊直の頭の中は、どんよりとしていた。
この書類が本当なら、月一で行方不明者が発生していたアパートということになる。住めたものではない。よく今まで変な渾名もつけられずに、普通に建っていたものだ。
そして、前田紬は彼ら全員を殺したと主張している。六人とも、紬とどのような関係性であったかは書かれていないが、恨まれるようなことをしていたのだろうか。
それとも、形容し難い者が原因にいるのか。
初めてアパートで会った時と、現在紬の側にいる時とで、子供の少し印象が違う。保護者の近くにいて、安心しているから、と言えばそうだが、それだけではない違和感がある。
アパートでのことを遊直は思い出す。
こちらに気付かない子供。今のような受け答えが出来ず、まるで、耳が聞こえていないかのような反応だった。幼い子供だから、大人のような反応速度、仕方を期待するのは違うが、それでも、この違和感は覚えておいた方が良い気がする。
その後の消息の断ち方も、人間離れしていた。例え、名付け前だったとしても、遊直には形容し難い者が見える。ほぼ人型の形を得ているようだから、尚更だ。それでも、見失った。
彼女はどのようにあの場から去ったのだろう。
いや、それらは直接訊くより他になさそうだ。
一番の疑問点は、前田紬がアパートの住人を全員殺したと主張しているのに、死体も凶器もないことだ。彼女は浴室で殺害し、死体も凶器も浴室に置いたままだと述べた。しかし、それらはどこにもない。これは警察が念入りに調べたから間違いないことだ。あのアパート内に死体はない。
虚言ならば、何のためにそうするのだろう。一番考えられるのは、子供がなんらかの方法で住人を殺してしまうか、行方不明にしてしまい、それを庇うために嘘を吐いている可能性だ。紬は子供を我が子のように可愛がっている。しかし、その場合、何故彼女が子供を押し入れに置き去りにして、逃走を計ったのかが分からなくなる。
状況や、子供が恐ろしくなって逃げたのだろうか。まだ、十六歳だ。受け止めろと言うのも酷だ。しかし、彼女の元に子供が戻って来てしまったから、守る覚悟を決めたとかだろうか。
或いは、紬が殺したと思い込んでいるだけで、実際は殺人を犯していない可能性もある。
遊直は、資料を机の上に置き、ペットボトルのお茶を手に取った。ごくごくと大量に飲み干す。それでも、胸につかえる様々な疑問は流し込めない。全て推測なのだ、なんの根拠もない。ある意味不誠実な想像だ。
「あーもう、頭が痛くなる」
「頭痛薬要ります?」
正面に座っていた島春が、デスクの引き出しから、薬のシートを渡して来る。
「有り難いけど、そういう意味じゃありません」
「行方不明事件ですか?」
「そうです。私は体動かすのは得意ですけど、探偵みたいに謎を解くのは苦手なんです」
「厄介そうな事件だなって思ってましたけど」
「行方不明なのか殺人なのかも分からないですし、誰が何のためにそうしたのかも、さっぱりです」
島春は遊直の持っていた書類を受け取ると、眉を寄せる。
「これは……。よく今まで発覚しませんでしたね、こんなに人がいなくなってるのに」
「ご近所付き合いのなさが、こんな所で効いてくるとはって感じです」
「前田紬は父親のこと、何か言わなかったんですか?これがただの失踪なら、予兆とかあったかも知れませんし、そうじゃないとしても、子供にとって親がいなくなるってかなり大きな出来事ですよね」
「確かに。父親がいなくなってるのに、それについては特にコメントはありませんでした。穿った見方をすれば、父親がいなくなった理由を知っているから気にしていないとも受け取れますね」
「明日も会うんですよね」
「ええ。シマハルさんは鵺を追ってるんでしたっけ」
「そうです。いやぁ、全然尻尾も見せてくれなくて」
「お互い苦労しますね」
「本当お疲れ様ですね」
島春が書類を遊直に返す。
時計を見ると、十八時は既に回っている。終業時刻は過ぎた。遊直は特に中身のない日報を鬼長に送ると、席を立ち、島春に挨拶をしてからオフィスを後にした。
翌日、午前十時。
遊直は灯籠館で、彼女達と対峙していた。
紬はすっかり顔色も良く、遊直の訪問を笑顔で迎えた。子供はまだ眠っているようで、奥に敷かれた布団の一部が丸く盛り上がっている。
「おはようございます。昨日は眠れましたか?」
「はい。久しぶりにゆっくり寝れました」
「それは良かった。今日は、アパートの事件に関わる色々なことをお訊きします。大分プライベートなこともお伺いしますが、出来るだけ、正直に答えて頂けるとありがたいです」
「わかりました」
彼女の顔に、少しだけ緊張の色が出て来る。言葉が硬過ぎたろうか、それとも、隠していることでもあるのだろうかと、遊直は胸中でひとりごつ。直ぐに、先入観は良くないと打ち消した。
「まず、アナタのお父さんについてお伺いします。お父さんがいなくなる直前、荷造りを始めたり、お金をおろしたりと言った、普段と違う様子はありましたか?」
「ありません。父も私が殺しました。他の人達もそうです」
「……何故殺したのですか?」
「私を苛むから。父は私を殴るし、何をしても怒鳴ります。あの人達はそんな私をじろじろ見たり、揶揄ったりします。私はそれが嫌で、彼らを殺しました」
「以前、アナタの家には児童相談所の人が訪ねて来た筈です。その時は、助けを求めなかったのですか?」
「その時、私は小学生で、外の世界を知らなかったんです。父と暮らすのは怖かったけど、父がいなくちゃ生きていけないと思っていたし、たった一人の家族だから大切だし、殴ることを誰にも言うなと口止めもされていたから、何もされていないと嘘を吐きました。でも、今は、外の世界を知ったから、もうお父さんは要らない」
紬の口調は淡々としている。まるで、他人の話をしているかのようだ。
それはもうどうでもいいと思っているからかも知れないし、逆に動揺しないように心を殺しているからかも知れない。殺人の告白を、少女が滔々と語る様は、実に異常であった。
「アナタは……どのように彼らを殺しましたか」
「浴室に呼び出して、やって来た所を刃物で刺し殺しました。その後、鋸でバラバラにしました。死体は分かりません。どっかに消えてしまいました」
「消えた?」
「いつもそうなんです。殺した次の日、浴室を見に行くと、何も残っていない。でも、殺した人はいなくなっている。……私は確かに彼らを殺しました。音を覚えています。感触も」
「死体が消えることに疑問を覚えなかったのですか?」
「どうでも良いことなので。捕まっても構わないといつも思っていました」
殺人自体は事実で、誰かがそれを隠蔽していたのか。他の誰かが紬を庇っているのか。それにしても、死体が消えたかのようになくなるのは、相当な技術がいる。警察は殺人が行われた痕跡さえ、突き止められていないのだ。
行方不明者リストに、そのような技術を持っていそうな人物はいない。いたとしても、紬を庇う理由が分からない。アパートの人間以外が手伝っている可能性もあるのだろうか。
若しくは、やはり形容し難い者の何かしらの能力だろうか。
「少し違うお話をしましょう。みーちゃんについて教えてください。あの子は、アナタの」
「みーちゃんは関係ありません!」
悲鳴のような大声だった。
紬の両手は硬く握られている。力一杯握っているのか、色が白くなっている。
呼吸が少し荒くなっている。その目には、拒絶と不安が混じり合っていた。
遊直は柔かな笑みを絶やさないよう努めながら、会話を続ける。
「みーちゃんの好きな食べ物はなんですか?」
「食べ物?」
「昨日は好きなお菓子を教えて貰いました。アーモンドチョコレートですよね。だから、次は食べ物。好きな物を教えて貰えれば、食事に出して貰えるよう施設の人にお願い出来ます。閉じ込められて、きっと退屈でしょうから、せめて、食べ物だけでも」
紬は戸惑った表情をしている。
「アナタの好きな食べ物も教えてください。あ、後、食べれない物とかもあれば」
ニコニコとした笑みを遊直は浮かべて、相手の反応を見ている。顔は見せられないが、せめて、柔らかな空気だけでも感じて貰いたい。
遊直は、彼女が何かしらの過ちをしたのだろうと思う。或いは、子供が。罪は犯せば罰されなければならない。でも、彼女達は子供なのだ。保護者のいない子供だ。なら、先ず必要なのは、保護であり、ケアであり、罰はその後に来るものだろうと遊直は考えていた。
「みーちゃんを取り上げたりしない?」
「どうでしょう。私は母親にはなれません。でも、アナタにはみーちゃんが、みーちゃんにはアナタが必要なように見えます」
「……みんな、みーちゃんが何かしたろうって責めるの。私とみーちゃんを離そうとするの。でも、こんな小さな子供に何が出来るの? もし、何かしてしまったとしても、責任を取るのは子供じゃなくて親の筈でしょう? 何故、みーちゃんを責めるの?」
「みーちゃんは人間じゃありませんね」
紬の細い喉がこくんと動く。唇を噛み締める。ほんの僅かな逡巡の後、紬は小さく頷いた。
「みーちゃんはいつからアナタと一緒にいるんですか?」
「四年前から。私、お父さんの機嫌が悪くなると、押し入れに逃げていたの。怒鳴り声や瓶の割れる音から離れたくて。音が怖かったから。みーちゃんは最初は靄みたいだった。お化けかも知れないと思ったけど、全然怖くないし、誰かと話したかったから、押し入れでいつも内緒話してた」
思い出すように、紬が目を閉じた。
「返事はなかったけど、私の話を聞いてくれてるって分かった。みーちゃんはね、美知子って名前なの。死んじゃったお母さんの名前。怖くて泣いてる私を慰めてくれる、押し入れの中のお母さん。そう呼んでたら、いつか人の姿になった。子供の姿だったから、みーちゃんって呼ぶようになった。一年位前かな」
前田紬の母、前田美知子は五年前に自動車事故で亡くなっている。道路に飛び出した紬を庇って、トラックに轢かれたのだ。
直ぐに病院へと搬送されたが、間に合わなかったと言う。目の前で、母親がバラバラになった姿を見た紬はショックを受け、その後、メンタルケアのために通院をしている。
父忠彦は、事故の数ヶ月後に仕事を辞め、その後は何かと浪費をするようになり、現在の生活に行き着いたようだ。忠彦も、妻の凄惨な死にショックを受けたのかも知れない。残された一人娘を、たった一人で抱える責任の重さにも、耐え切れなくなっていたのかも知れない。
全てただの推測で、家庭の中のことなど、他人には理解出来る筈がないと、遊直は経験から知っていた。
「みーちゃんは本当の子供みたいだった。誰にもその姿は見えなかったけど、言葉を教えるとね、どんどん覚えていくの。私が泣いてると、抱きついてくるの。あったかかったなぁ」
「お父さんはみーちゃんの存在に気付いてたんですか?」
「うん。でも、あの人は私に興味ないから、人形か何かを可愛がってるんだと思ってたんだと思う。生き物じゃなけりゃいいって、気持ちの悪い子供だって言われた」
「それは……」
「遊直さんが気にすることじゃないよ。だって、端から見れば、丸めた掛け布団に話し掛けてるんだもん。充分変だよ。でも、ただの布団だからって取り上げられなかったのは助かったな。最初は何こそこそしてんだって、押し入れから引き摺り出されたりしたけど、段々放っといてくれるようになった」
遊直はどんな顔をしたらいいのか分からなかった。自分の家は、厳しくはあったが、そこには理由があった。理不尽だと当時は思っていても、大人になった今なら、それがどういう意図で行われたのかを察することが出来る。
彼女にそれはない。理不尽な暴力を振るって良い理由などない。閉じられた世界で、逃避しようと藻搔いていた彼女の微笑みに、遊直は答えられなかった。
「ねーねー」
「起きたみたい」
紬が嬉しそうに、布団の敷かれた奥へと向かう。もそもそと起き上がる子供を、愛おしげに見つめて、話し掛けている。
遊直は自分の頬を撫でた。
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