第 4 話 灯籠館へ
仮眠室で、前田紬はよく眠っていた。
今の今まで、緊張して碌に眠らずに過ごして来たのだろう。保護される前からも、あまり寝てなかったのかも知れない。
こうして寝顔を見ていると、事件とは無縁そうな十代の子供である。いや、なんの運命の悪戯かこうして渦中にいるが、本質的には、今も普通に学校に通う子供達となんら変わりないのだ。
側にはみーちゃんと呼ばれた小さい子供が一緒に寝ている。
子供特有の細い髪を、赤い玉のついたゴムで二つの小さなおさげにしている。ぷにぷにとした頬っぺたは、見るからに柔らかそうである。
遊直は欲求から目を逸らすように、天井を見上げた。
今、疑問としてあるのは、誰がアパートの住人を隠したか、前田紬の自白は嘘か真か、小さな子供は何者か、何故子供を置いて前田紬は逃走したのか。この辺りだろうか。
紬はアパートの人間を全員殺したと言った。しかし、現場の状況がそれを否定している。彼女の言う場所に死体はなく、凶器の刃物も、処理に使った鋸もどこにもない。
彼女は殺した感触を覚えていると言った。その後、苦しそうに、音が溢れると言っていた。あの時に、何か音は鳴っていたろうか。思い返すが、特に空調の音ぐらいで煩くはなかったと思われる。
子供は紬に酷く懐いている。だからこそ、押し入れの中に置いておいた理由が分からない。自分だけ逃げ出そうとしていたのだろうか。しかし、そうなると、先程の対話における、紬の態度と矛盾する。彼女は子供を守ろうとしていた。
何はどうあれ。目覚めるまでは、待機だ。
彼女達の仮住まいの用意は昨日の内に住んでいる。冠水の町にある、
四階建ての建物で、鍵を持たない者は入館出来ない仕組みになっている。例えば、一○三号室に行こうとするなら、一○三号室の鍵を持たねば館の扉は開かず、持っている場合は、入口を開くと一○三号室に直接入れるというものだ。機械式立体駐車場に似ている。
そういう仕組みだから、階の行き来はおろか、部屋の行き来も出来ない。鍵を持たねば入らないが、錠前はついていないので物理的な施錠開錠も関係がない。鍵の形をしたアクセス権を持っていると考えた方が分かりやすいかも知れない。
部屋に入った後に、鍵を渡されなければ、出ることも出来ないただの独房となってしまう。しかし、そういった施設よりかは、人間らしく過ごせるだろう。
灯籠館の部屋は、簡単に言えば旅館のような部屋だ。全室和室で、一階の各部屋には庭、二階以上の部屋にはテラスがあり、それ程広くはないが外の空気を自由に吸える。食事や布団の上げ下げなどの日常的な雑務は、館に棲み着いた精霊が全て行う。外に出れないことを除けば、快適に過ごせるだろう。
と言っても、外出が出来ないストレスは、計り知れないとは思われるが。
遊直は空いていた隣のベッドに腰を下ろした。硬い簡易ベッドは、椅子には丁度良いが、寝心地はあまり良さそうではない。
ベッドの仕切りはカーテンのみだ。これだけ見ると、学校の保健室のようだ。
座った際に鳴った物音で気付いたのか、紬が薄らと目を開けた。
「あ……」
「体調はどうですか? まだ、具合が悪いようなら寝てて大丈夫ですよ」
「ううん、もう大丈夫です」
もぞもぞと動き、ブランケットを捲ろうとしたが、みーちゃんが寝ているのに気付いたのか、また元の姿勢へと戻った。子供の背を撫でて、どこかほっとした顔をした。
みーちゃんを刺激しないようゆっくりと体を起こす。
寝たせいか、先程よりも顔色が良くなっているように見えた。
「お水、良かったら飲んでくださいね」
「ありがとうございます」
紬はブランケットをみーちゃんに掛け直すと、ベッドの端に座り、サイドチェストに置かれたペットボトルに口を付けた。一口飲むと、遊直へと目を向けた。
「私、どれくらい寝てましたか?」
「一時間位です。今は十五時ですよ」
「そうですか」
「この後の予定をお伝えしますね。暫くは、特補の提供する施設に滞在して貰います。そこには、みーちゃんが起きたらご案内します。事件に関するお話はまた明日しましょう。貴方はまだもう少し、体を休めた方が良いでしょう」
「分かりました。ありがとうございます。あの、そこにはみーちゃんと二人でいられますよね」
「ええ、一緒です」
「なら、いいです」
紬はほっとしたように、小さく微笑んだ。
その間、遊直は自分の記憶を探る。彼女に対し、どういう風に振る舞えば良かったか、九慈理は何と言っていたろう。青い煙が邪魔をする。不安からお腹をさする。
「あ、お昼ご飯は食べましたか?」
「食べてないですけど、何でですか?」
「私も食べてないけど、アナタ達は何食べたかなぁって少し気になっただけです。放っておいても夕飯が用意されますけど、もし、小腹が空いているなら、自分の分のついでにおにぎりとか買って来ますよ」
「小腹……」
「チョコとかお菓子でも。食べ盛りの子が食事抜くのはあまりよろしくないですから」
「じゃあ、チョコレート。アーモンドが中に入ってるやつを。私もみーちゃんも好きなんです」
「私も好きです、それ。ふふ、では、買って来ますから、楽にしててくださいね」
遊直はなるべく物音を立てないように立ち上がり、カーテンをめくって退出しようとした時、後ろから小さく「いってらっしゃい」と声が掛けられた。少しだけ振り向いて、「行って来ますね」と返した。
仮眠室の扉を閉め、廊下に出た遊直は息を吐き出した。
少しだけ、警戒心を解けただろうか。九慈理のアドバイスとはちょっと違ったが、結果が良いならこれで良かったのだろう。
彼女とのやり取りは、地道に築いて行くしかないとして、まずはチョコレートを買いに行こう。ビルの側にコンビニが幾つかあるから、目的の物はどこかしらにあるだろう。
廊下ですれ違う職場の人間に軽く挨拶をしながら、一度自分のデスクへと戻る。卓上カレンダーとパソコンくらいしか、デスクの上に置いておかないが、幾つかの見知らぬ書類が置かれていた。パラパラと捲ると、幸い提出期日の近い物はなく、どちらかと言うならアパートの事件に関わる情報類が多かった。鬼長からの差し入れのような物だろう。
大した量でもないので、夜にでも、日報でも書きながら読むことに決めて、遊直は椅子の上に乗せたままにしていた鞄から財布を取り出した。
「何か買いに行くんですか?」
正面のデスクに座り、キーボードを叩いていた島春がこちらを見て言った。彼のデスクは几帳面に整頓されていて、全ての資料はファイリングされ、優先度順に並べられている。色のついた付箋で注釈もつけられているから、彼から借りる資料はとても分かりやすいと評判である。
「小腹が空いたので。夕飯の分も含め買おうかなと思いまして」
「食堂、お昼しかやってないですもんねー。あそこ安いし美味しいから、夜もやって欲しいです」
島春の言う食堂とは、このオフィスビルの一階にある、ビル内で働いている人向けに開かれるランチ限定のお店だ。食堂と言っても、調理場はなく、近隣の店舗が集まって、お弁当を販売しているのだ。洋食系からオリエンタルな多国籍料理も網羅しており、その価格帯もあって、利用者が多い。
遊直は中でも、タイ料理屋のサワディー食堂のパッタイが好きだった。島春は拳々屋のこぶしハンバーグ弁当をよく買ってるのを見掛ける。確か値段は五百円程だったと記憶している。
「確かにあの安さは癖になりますね。ちゃんと美味しいですし」
「うちに持って来てくれるってことは、近くに店舗があるってことですよね。夜営業とかしてたら食べてみたいですね」
「今度、行ってみましょうか」
「行きましょう!」
約束したのかしてないのか、曖昧なままにして、遊直はオフィスを出て、エレベーターに乗った。慣れない浮遊感はあっという間に終わり、地上へと降り立つ。
一番近いコンビニを目指すことにした。信号渡って、少し歩けばもう着いてしまう。都会の利便性の高さはこういう所で発揮されるのだ。
遊直はしゃけおにぎりとおかかおにぎりを一つずつと、アーモンドチョコレートを二箱、後、カラフルなグミを買った。彼女達がどれを選んでも、大丈夫な布陣に出来たと思う。
コンビニの袋を提げながら、仮眠室へと戻って来ると、中から子供の笑い声が聞こえて来た。みーちゃんが起きたのだろう。
軽くノックしてから、入室する。すると、走り回っていたみーちゃんが、遊直の足に抱きついて来た。
「あ、みーちゃん駄目だよ」
「大丈夫ですよ」
焦った様子の紬に声を掛けながら、遊直は足元に目を向ける。
「こんにちは、みーちゃん」
「こんにちゃ」
「挨拶出来て偉いですね」
片足に子供をくっつけたまま歩くと、それが楽しいのかみーちゃんはきゃっきゃっと笑い声をあげた。約二十キログラムが足に掛かり、意外と負担が重いので、遊直は三、四歩進んだ辺りで、みーちゃんを下ろした。
みーちゃんはもっとやりたそうな目をしている。
遊直は、自分がみーちゃんに普通に触れたことに気付いた。警官の報告では、誰も彼女に触れられなかった筈である。
「すいません。みーちゃん、足にくっ付くのが好きみたいで。特にお姉さんは足長いから、面白いんだと思います」
「全然問題ないですよ。これ、買って来たチョコとかです。小さい子はグミとか好きかなぁと思って、それも買って来ました」
「グミすき」
「それは良かった」
「私もグミ大好きです。ねえ、みーちゃんはお腹空いてる?」
「おなかすいた音がするよ」
「じゃあ、一緒に食べよっか」
「うん!」
思い切りよく頷く幼児は、とてもにこにことしている。紬もどことなく、優しい雰囲気に変わっていた。年の離れた姉妹のようにも、親子のようにも見える。仲睦まじく、見ているこちらも気持ちが絆されてしまいそうな光景だ。
それでも、遊直は切り込まなければならない。その関係について。事件について。それは明日にやると先送りにはしたけれど、いつかは向き合わなければならないことだ。そして、場合によっては、遊直が彼女達を引き裂くのだ。
「みーちゃんも起きましたし、今日から暫く寝泊まりする灯籠館へご案内しますね」
「お願いします」
「途中、ちょっと驚くものが色々あると思いますが、安全ですから安心してくださいね」
警察から持って来ていた手荷物を持った紬とみーちゃんが、遊直の後ろについている。オフィス内にある扉を開けて、冠水の町へ移動する。
先にあるのは、黄昏の世界だ。宵闇の迫る、暗くも明るくもない空模様は、曖昧な色合いで溶け合っている。背中に羽の生えた者が飛んでいる。美しい声で鳴く者もいる。彼らは全て影で顔が見えない。
張り巡らされた水路は、至る所に飾られた淡い灯りに照らされて、酷く幻想的な光景を作り出していた。
石畳を踏み、灯籠館へ向かおうとすると、後ろの二人が上を見上げて立ち止まっていた。
嗚呼そうだった、初めてこの町に来た人は、その美しさのせいで、動けなくなるのでしたと、遊直は感慨深く思い出す。自分もあのように見えていたのだなと思うと、微笑ましい。
「お二人、迷子になると大変ですから、着いて来てください」
「はい」
声を掛けると、慌ててこちらに駆け寄って来た。手を繋がれたみーちゃんは、それでも好奇心に満ちた目で周りを見渡している。
灯籠館は扉から五分程歩いた所にある。窪地に建てられている為、入口に辿り着くには、一度階段で降りる必要がある。
みーちゃんを左右で挟んだ遊直と紬は、それぞれ子供の片腕を持っていて、よいしょという掛け声と共に持ち上げては下ろして、持ち上げては下ろしてを繰り返して、なんとか下まで着いたのだった。階段が急だったので、怪我をさせないための緊急の措置であったが、みーちゃんは楽しかったのか満面の笑みを浮かべている。
うっすらと汗をかきながら、遊直はポケットから鍵を取り出す。番号は三○四だ。
取手に手を掛けて引くと、特に引っ掛かりもなく、入口は開けられた。すぐに玄関がある。既に三○四号室の中に入っているのだ。
「こちらです。あがってください」
指示すると、紬は素直に靴を脱いで上がった。子供の靴を脱ぐ手伝いをしてから、遊直もパンプスを脱いで上がる。
取り敢えず、真正面の部屋に入ると、広い和室になっていた。
「ここで暫く生活して貰います。お風呂もトイレもついてますし、食事は毎日三回お届けに参ります」
「外には出れないんですよね?」
「申し訳ないのですが、出れません。私と同行するという形なら、散歩とかは出来ますから、仰ってください。と言っても、私も仕事があるので、いつでもという訳にはいきませんが」
「分かりました」
「ねーねー、こわい?」
「怖くないよ。寧ろ、ちょっと楽しいの」
紬の返答に、子供は少し驚いた顔をした。けど、直ぐにそれは笑顔へと変わり、紬へと抱きついたのだった。紬もそんな彼女へぎゅっと抱き締め返していた。
ここに来るまで、一度も父親の話をしないことを、遊直は気にしていた。肉親が行方不明になっているなら、もう少し動揺していそうなものだ。だが、それはなく、紬にとって重要なのはみーちゃんだけのように見える。そこら辺も、明日尋ねなければなるまい。
「また、明日の十時頃に、お話をしにここに来ますね」
「分かりました、待ってればいいんですね」
「はい。それでは、おやすみなさい」
「遊直さんも、おやすみなさい。ありがとうございました」
遊直は鍵を持ったまま、部屋を出る。これで、あの二人は部屋から出られなくなる。
時刻はまだ十七時にもなっていない。机の上の資料に目を通さなければ。
遊直は少し急足で、オフィスへと戻って行った。
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