第 3 話 藪の園

 遊直は冠水かんすいの町に来ていた。


 相も変わらず黄昏時のままである。ここには朝も夜もなく、永遠に終わらない薄暮だけがある。昏く、されども夜には至らない曖昧な薄闇は、行き交う人々の顔を隠すが、微かに残る茜色が輪郭を浮かび上がらせる。


 来訪の目的は九慈理くじりという名前の医者に会う為だ。これは、仕事ではなく、ルーチンの一つだ。


 彼女には顔がない。


 顔を失うこと、それは、視覚に頼る人間にとっては、自分を自分足らしめる要素の一部を失ったも同然だ。


 しかし、自己の確立に、今の所、遊直は苦労していない。それは、元々自分の顔に執着がなかったことと、顔がなくても彼女を彼女であると認識し、普通に接してくれる他人の存在が大きい。そして、もう一つ。


 自身と同じ顔を持つ、他人の存在である。


 のっぺらぼう。


 そう呼ばれた形容し難い者がいた。多くの者から顔を奪い、その全てを自身の顔にした者。被害者の数は二十人を超える。顔を失った者の顔を見てしまうと、見た者も顔を失うという、厄介な二次被害を含めれば、更に数は増える。


 女優を自称し、奪った顔を用いて、その本人に成り代わる性質を持った彼女は、凡ゆる場所に現れた。その演技力はなるほど、女優を名乗るだけあって、家族でさえも欺ける程の手腕であった。本人であっても、目の前にいる者こそが本当の自分ではないかと思わされるその高い演技力で、多くの者が自分が自分であるという自信を喪失し、彼女が捕まった今も尚、通院が必要な者も多い。


 曰く、ドッペルゲンガーに会ったようだと。


 ドッペルゲンガーに会えば命を失うという俗説は、自己崩壊が命を失うことと同義と考えれば、起こり得るものかも知れないと、遊直は考える。


 自分が自分であるという、当たり前の認識を壊されること。自意識の崩壊は、今まで築いてきた自己の歴史の崩壊であり、自分を含む世界への信用が失われることに繋がる。私達は積み重ねられた地層の上に立つ生き物だ。更に言うなら、砂上に城は築けない。


 薄い氷上を歩く危うさは誰もが分かっている。では、厚い氷の上はどうか。長い歴史を経て、何層にも硬く重なった厚い氷だ。それを踏み砕いて、穴に落ち、凍てついた水に浸かったとしたら、人は薄氷と同じ印象を受けるだろうか。否、衝撃の度合いは変わるだろう。


 その一回で、心臓が止まることもあろう。そして、例え生き延びられても、確立することが当然と考えられていた信用の不確立が、自分が踏み締める世界その物への不信に繋がるのだ。


 人は世界の中に位置しながら、自分と世界が違うものだと区別する。自分と他者が同一ではない、違う存在だと認識する。しかし、個人における世界が、自分の目を通した観測によって成り立つとしたら、その目が信用ならなければ、そこに映る全てがまやかし同然だ。


 自己の崩壊とは、氷を踏み抜くことであり、目を疑うことであり、つまるところ、自分と世界への懐疑だ。それは、もしかすると死よりも辛い状態かも知れない。


 彼女を捕らえられたのは、ある少女の特異な症状故のことであった。


 相貌失認という現象がある。


 一般的に人は、相手の目や鼻や口の形を、無意識に把握して分類することで、他人を認識している。相貌失認とは、その判別する力が弱く、他人を顔で分類出来ないことを指す。


 しかし、人間の持つ情報は多種多様で、シルエットや匂い、癖などの、顔以外の情報によって他人を識別出来るため、自身がそうであると自覚がない人もいる。ただ、人の顔を覚えるのが苦手なだけと考えてしまうのだ。


 その少女、小鳥遊直美たかなしなおみは、自分の顔のみ認識出来なかった。


 集合写真に写る自分を探し出せなかったり、鏡に写る自分の姿を他人と思い込んで、話し掛けてしまったりしたこともあった。他人と自分の見ている景色が違うことを、幼い頃から理解していたが、自分以外の識別は出来たため、人間関係に困ることはなかった。他人の視界を介せぬ以上、それが彼女にとって当たり前の世界であった。


 のっぺらぼうが少女の顔を奪ったのは、少女が十五歳の時だった。


 それは突然の出来事だった。学校から家に帰る道すがら、現れたのは真っ赤なコートを着た女性だった。直美はそれが女性であると認識は出来たが、その相貌は分からなかった。


 そして、その顔を見た途端に、ぐらぐらと視界が揺れて、そのまま意識を失った。


 目覚めたのは、横村沙羅よこむらさらの自宅であった。まだ国家組織として確立していなかった頃の特殊生体管理部の前身、形容し難い者の研究者の会の一つ、鋼の会の会員であった彼女もまた、のっぺらぼうに顔を奪われた一人だった。


 顔を奪われた直美を発見したのが、彼女であったことは幸運であった。その後の対応の迅速さもさることながら、何より奪われた者が同じく奪われた者を顔を見る分には、問題がなかったからだ。


 被害の報告は直ちに行われ、小鳥遊直美に成り代わったであろうのっぺらぼうの捜索が、鋼の会によって行われた。形容し難い者に対する認識が今よりも薄かった当時、顔が奪われたという話を信じる者は同じく被害に遭った者だけで、警察に頼ることは出来なかった。


 小鳥遊家で家事を行うのっぺらぼうが発見されたのは、すぐのことだった。確認の為に連れて来られた、自分の顔を知らない少女は、のっぺらぼうを前にして、こう言った。


「貴方が私なの? ちっとも私じゃないわ」


 その言葉を聞いたのっぺらぼうは、叫び声を上げ、その顔を固定出来なくなった。まるで仮面を被るかのように、数多の人間に成り代わる怪人は、そのたった一言で自分を失った。


 そして、彼女は冠水の町へと連れて行かれ、そこにある甘言楼かんげんろうという監獄へと入れられた。


 奪われた数多の顔は既に返還されており、のっぺらぼうの持つ顔は一つだけとなった。顔を持たないが故に、他人を奪い続けた彼女は、その在り方を根本から否定した少女の顔を持ち続けている。


 そして、今もその少女を演じている。まるで、親に認められない子供が、気を引こうと親の真似をするかのように。


 小鳥遊直美は──遊直は、自分の顔を返せとは言わない。何故なら、彼女にとって自分の顔とは最初から失われているものであり、更に彼女が自分の顔を認識出来るのは、他人が彼女の顔をしている時だけだからだ。


 九慈理を訪ねるのは、自分の顔を確認する為だ。


 彼は甘言楼の囚人達の健康管理を一手に引き受けている。そして、囚人達の様子は、二十四時間、蜘蛛の目という形容し難い者に監視され、その映像は九慈理の元へと届けられる。


 甘言楼から歩いて十五分程、やぶそのという名前の通り、藪に覆われた診療所の敷地に、遊直は足を踏み入れる。ロイヤルブルーのパンプスが、藪に隠れた石畳を鳴らす。


 音に気付いたのか、背に羽を持つ小さな子供のような形容し難い者が、藪の奥からがさがさと音を立てて現れた。


 鮮やかな橙色の髪と、鷹のような目を持つその子供は、遊直の姿を捉えると、笑顔を浮かべた。


「遊直だ! いらっしゃい、いらっしゃい! 待ってたのー!」

「こんにちは、レニ。今日も元気いっぱいですね。おや、その籠に入っているのは何でしょう?」

「うん。今日はね、薬草を採ってたの」


 彼の持つ籠には、見知らぬ野草がたんまり入っていた。その手も服も、土に塗れていて、余程夢中に採取していたのが窺えた。


「お仕事出来て偉いですね。クジリは中にいますか?」

「いるよー。でも、寝てるかも。さっき欠伸してたから」

「アポは取ってますから、叩き起こしましょう」


 レニの後ろを歩きながら、診療所の中へと入る。


 白色で統一された建物内は、緑溢れる外観とはうって変わって無機質である。通常の病院と似ていて、入ってすぐに待合室と受付がある。


 入口正面に、受付と書かれたカウンターがある。カウンターの中へは、左右に設けられたカウンタードアから入れる造りで、奥行きは三メートル程だろうか。奥に背景に溶け込む白い大きな扉がある。


 箱のような受付を超えた先には背凭れのない白い椅子が数え切れない程に並んでおり、診察室は遥か先に一つ見えるだけである。とても細長い待合室である。待っている患者は一人もおらず、受付にレニと似た姿の形容し難い者が座っているだけである。


「ただいまー! ニレ!」

「レニ! シャワー室に行って! あ、遊直さん、こんにちはー」

「こんにちは、ニレ」


 姿形はまるきり同じであるのに、所作がまるで違う双子のやり取りを見て、遊直は微笑みを浮かべる。


 レニは籠をニレに預けると、受付の奥にある扉を四回ノックしてから中へと入って行った。ここの診療所は、診察室と手術室以外の部屋は全て受付の奥の扉と繋がっている。そして、どの部屋に繋がるかは、ノック回数によって変わる。


 四回だとシャワー室。五回だとカルテの仕舞ってある資料室。七回だと薬品室だ。何回か行き来しているのを見たことがあるので、少しだけ遊直も覚えていた。病室はどこにあるのだろうと、いつも考えている。


「先生なら診察室です。そのまま入って大丈夫ですよ」

「お邪魔しますね」


 踵を鳴らしながら、遠い診察室へと向かう。周りに物音がないから、やけに自分の足音が大きく聞こえる。


「遊直です。入りますよ」


 ノックをしながら声を掛けるが、返事はない。


 軽い力で診察室と札の下がった扉を開けると、途端に何かの薬品の臭いが鼻を刺した。中は散らかった実験室の様相で、至る所に試験管やビーカーが置いてあり、天井からは謎の草花が吊られて、干されている。


 一応診察室らしく、患者用の丸椅子と、ベッド、医師の机と椅子とはある。奥には大きな両開きの扉があり、上部には手術中と書かれたランプが取り付けられている。それぞれに向かうには何かしらを跨いだり、潜ったりする必要があり、緊急時に不便そうである。


 そんな部屋の主は、患者用のベッドに横たわっていた。


 痩身の男性である。白衣は染みと皺だらけで、伸ばしっぱなしの髪はボサボサとしている。医師というより研究者のようだ。唯一、首元に提げた聴診器が医者らしさだろう。


「クジリ、起きてください」

「ん、嗚呼、あんたか。寝ちゃいないさ。少し休んでただけでね」


 目を開けた九慈理の瞳は鬼灯のような色をしている。瞳孔は縦に長く、爬虫類のようだ。


 のっそりと緩やかな動きで起き上がる様も、冬眠明けの蛇のようでもある。


「用件はいつものと同じです」

「そりゃ分かり易くて良い。蜘蛛の目ちゃんが撮ったのはどこだったか」


 ごちゃごちゃとした机の上に積み上げられた、書類の山を適当にばさばさと探っていたが、見つけたのか手を止める。そして、一枚の写真を遊直へと差し出した。


「変わらずだよ」


 写真には若い女性が写っている。明らかに盗撮と分かるアングルではあるが、あそこの住人には監視していることは周知してあるから問題ないだろう。


 肩の高さに切り揃えられた髪、切れ長な目、通った鼻筋、薄い唇。これが遊直の顔だ。男性的な顔立ちだと、自分でも思うが、どことなく他人事である。


 十五歳の時に奪われた顔は、それ以来遊直の元には戻っていないが、遊直が年を重ねて成長するのに合わせて、この顔も成長してきた。以前まであった少女らしさは失われて、すっかり大人の女性の顔となっている。


 実際に遊直の顔がこのように成長するのかは不明だが、それでも、この顔が自分の顔だと思う。こうして、写真越しにしか見られないとしても、それでも構わないと思う。


「こないだと変わりないようですね」

「初めて会った時よか、随分と成長したとは思うがね」

「もう、十年経ちますもの」

「そんなに? それじゃあ変わる訳だ。人の成長というのはつくづく早いものだと思うよ。私達は、あまり成長というものと馴染みが薄いものだから」

「そうでもないでしょう。姿形は余り変わりませんが、十年前のレニは薬草の区別なんてついてなかった筈です」

「言われてみりゃそうだな。嗚呼、それが成長ってやつか。見えない所にもあるもんだな」


 九慈理は椅子に座って、胸ポケットから煙草を取り出す。箱をとんとんと叩いて、飛び出した一本摘んで出すと、小さく口から火を吹いて、先端を焦げ付かせた。そして、口に咥えて思いっきり煙を吸い込んだ後、吐き出す。


「うわ、臭い」

芭蕉市場ばしょういちばで買った、新作の煙草だよ。ニコチンタールは零。霞花かすみばなとエンドロケルはたっぷり。吸えば吸う程、健康になるってもんさ」


 「ひひひ」と下卑た笑い声を、奇妙な薬品臭い青い煙と共にギザギザとした肉食獣のような歯の隙間から漏らす。鬼灯色の目で、鼻を摘む遊直を捉える。


 薄い乾いた唇が動く。


「何かお悩みでも? いつもより、顔色が優れないぜお嬢さん。と言っても顔は見えないんだがな」

「聞いてくれます?」

「精神科医でもカウンセラーでもなくて良いならね」


 遊直は患者用の丸椅子に座る。九慈理はくるりと椅子を回して、遊直に向き直った。


「他人に心を開いて貰うにはどうしたらいいですかね?」

「友達が出来ないとかか?」

「仕事です。少女とお話しなきゃいけないんですけど、どうも糸口が見えなくて」

「年頃の娘は難しいわなぁ」


 九慈理が天井を見上げる。天井にはライト代わりの、陽火石が埋め込まれて、白く発光している。冠水の町ではありふれた光源である。電気の代わりに、魔力を通すのだそうだが、遊直には余り違いが分からないでいる。


「だがまあ、しかし、患者とも話してて思うんだが、一番早いのは相手に話させることだよ。自分のこと、家族のこと、何でも良いから喋らせるんだ」

「もし、喋る手前の段階だった場合は?」

「自分のことを話す」

「自分の……?」

「今日の昼飯はなんだとか、こんな事件があったとか、なんでもいいんだよ。自分は敵じゃないって伝えるんだ」


 ズレた眼鏡を直しながら、九慈理はベッドの方に目線をずらした。そこには誰もいない。


「私は一人でいるのが好きだけど、ニレレニが毎日挨拶してきてくれたり、ちょっと話したことを覚えておいて貰えると、嬉しくなる。今となっちゃ、なくてはならない存在よ。好感度というのは、そういうちっちゃい所から築いていくもんさ」

「そうですね」

「遊直はその子の話をちゃんと聞いてあげなさい。ちょっとしたサインも見逃さないようにしてあげなさい。後、暇なら自分の事も少し話したらいい」


 九慈理は脱力したような笑みを浮かべて、バシバシと遊直の背中を叩く。


「心配し過ぎは良くないな。程良く丁度良くだ。あんたが身構えてちゃ、相手も硬くなっちゃうぞ」

「そうですね、気を付けてみます」

「おうおう、頑張れよ」


 遊直は席を立つ。


「頑張って来ます」

「はい、頑張ってらっしゃい」


 そして、そのまま診察室を出た。へらへらと手が振られているのを尻目に、戸を閉じる。


 また、長い待合室を歩く。椅子の一つにニレが座っていて、レニの持ってきた薬草を種類毎に分けていた。


 こちらに気付くと、手を振りながら「また来てねー」と言ってくれた。「また来ます」と返して、遊直は診療所を出た。


 藪に囲まれたこの場所から、職場までは二十分程歩く。途中、空を飛ぶ形容し難い者達に助けられて、大分距離が縮まり、ほんの数分で目的地まで辿り着いた。美しい藍と橙、ピンクや紫の混じる空を行くのは、何度乗せてもらっても心地が良い。


 降りた場所は特殊生体管理課の施設である。ここから、特補の事務所へと戻れる。既に自由に使って良いと許可が降りているので、特補と書かれた札の下がった扉を開ける。


 向こう側には見慣れた狭いオフィスがあった。潜り抜けてから、扉を閉じる。ここでは、せせらぎの音も、羽音も聞こえない。慌ただしく動く人間と、電話対応する人間とで、一つの戦場かのようだ。


 時計を見る。一時間経った位だろう。良い頃合いだ。


 遊直は前田紬と謎の子供がいる、仮眠室へと向かった。




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