僕のせんせい
灰崎千尋
●
「せんせい」
思春期の声変わりを済ませてなお不思議と澄んだ響きがあり、それでいて猫が体を擦り付けてくるような肌触りのある、その声。文字にするなら「先生」ではなく「せんせい」で、唇が弧を描けば「せんせぇ」になる。
「ねぇ、せんせいったら」
俺が応えないでいると、栗栖が不満げに口を尖らせる。その年頃にしては細く長い眉を顰めてさえ、彼の美しさは少しも損なわれない。
そう、栗栖は美しい生徒だった。
丸く切り揃えられた髪は鴉の濡れ羽よりも深い黒色で、いつだって寝癖の一つもなく彼の顔を縁取っている。その黒髪によって際立つのは白磁の肌。ふっくらとした頬が上気すれば、薄い唇は血を啜ったように赤く染まった。控えめながら真っ直ぐ通った鼻筋の上に華奢な銀縁の眼鏡が乗り、そのレンズの奥にはアーモンド型に切れ上がった眼が光る。俺を映す瞳もまた底知れぬ黒で、見つめられれば射抜かれたように逸らすことができない。
「ここには来るな、と言ったはずだ」
俺は努めて平静を装ったが、栗栖は全てを見透かしたようににっこりと微笑む。
「だってここじゃなきゃ二人きりになれないから」
そう言うと、扉の前にいた栗栖は後ろ手でガチャリと内鍵を閉めてしまった。
「おい、他の先生だってここ使うんだぞ」
「放課後のこの時間に吸うの、今日はせんせいだけですよ」
一歩、栗栖が足を踏み出す。
いま俺と栗栖を隔てているのは灰皿を置いた小さなテーブル一つだった。しかしこんなものは、彼の細長い脚で容易に越えてしまえるだろう。
ここは教師にだけ許された、高校の喫煙室だ。と言っても、ちゃぶ台みたいな低いテーブルに、俺が今腰掛けているボロいソファーがあるだけの狭い狭い部屋で、同時に吸うのは広さについても排気についても二人が限界だ。世の中の禁煙や分煙の煽りを受け、以前は何ヶ所かあった喫煙室も今やこの一室のみ。かつては応接室に置かれていただろう立派なクリスタルガラスの灰皿も、こんな部屋に追いやられて曇っている。喫煙者の数も減っているので仕方ないが、それでもここは校内で唯一、俺のくつろげる場所だったのだ。……栗栖に見つかるまでは。
「今日は天文部の活動日だから、佐々木先生は来ない。教頭先生は放課後吸わないし、中野先生は研修で出張中、田島先生はもう帰っちゃった。だから今は、せんせいだけ」
喫煙仲間の教師の名を挙げながら、ほっそりとした指が折られていく。一本だけぴんと立った頼りない小指が、俺だ。
「……詳しいな」
「学校にいる間は、教師にプライバシーなんて無いんですよ」
栗栖は白い小指を唇に当てて、ふぅっと吹いた。
吸わないまま燃え尽きていった煙草の灰が、灰皿の上にたっぷりと落ちた。
もはや吸うところの無くなった煙草の火を躙って消していると、栗栖がぽつりと呟く。
「そう、学校にいる間だけ。僕がせんせいを知ることができるのは」
その声は形も無いのに、煙草から昇る最後の煙よりも重く俺の前に落ちたような気がした。
換気のために細く開けた窓から、吹奏楽部のロングトーンと、運動部の歓声が遠く聞こえる。
「栗栖は、俺の生徒だからな」
言い聞かせるように、俺は言った。
牽制の意味も多分に込めたはずだったが、栗栖はテーブルを軽々と跨ぐと、少し緩めていた俺のネクタイをぐっと掴んだ。
「せんせいが欲しい」
栗栖が俺に迫る台詞は、いつもそれだった。
名前も呼ばず、「好き」とも言わず、こんな風に俺と栗栖しかいない部屋で、俺が欲しいと言うのだ。
「それは、無理だ」
俺もいつも通りに断る。
そうすると栗栖は少し後ずさって、レンズ越しの目が伏せられて、「知ってる」と小さく言う。それから「またね、せんせい」と微笑んで去っていく。いつからかそんなやり取りが定着してしまっていた。習慣、というよりは、そうせずにはいられないのだという気迫が彼にはあった。俺は拒むしかないのだと、彼自身わかっていてさえ。
そのやり取りが、今日もまた繰り返されるはずだった。しかし今回だけは違った。
「先生と生徒だから?」
栗栖が初めて食い下がった。
俺は少し面食らいつつも、「そうだ」と答えた。
「じゃあ先生と生徒でなくなったらいいんですか?」
「……その頃には、俺のことなんて好きじゃなくなるさ」
「どうしてそんなことがわかるの? 僕のことなんて大して知らないくせに」
俺が咄嗟に口走った言葉は、栗栖をひどく苛立たせたらしい。切れ長の目がいっそう鋭く細められた。後悔しても遅い。
「せんせいは学校にいる間の僕しか知らないのに。ねぇ、せんせい、僕は良い『生徒』だったでしょう? でも家で一人、僕がせんせいの名前をどんな風に呼んでいるか、わからないでしょう? 学校でせんせいを名前で呼ばないのは、僕がちゃあんと『生徒』でいるためなんですよ」
怒っているような、泣いているような、栗栖のそんな声を初めて聴いた。
嗚呼、俺は本当に栗栖のことを知らないな、と思い知らされる。いつも全て悟ったように振る舞う彼に、俺は知らず甘えてしまっていたのだろうか。
栗栖の両手は俺の安ネクタイをぎゅうと握りしめていたが、ふっとそれが解放される。細く長い指が、皺くちゃになったネクタイを一度しゅるりとほどいて結びなおしていく。そうして栗栖は「ふふ」と小さく笑った。
「それにねぇ、せんせい。こんな風に適当なことを言って誤魔化そうとしている姿を見てさえこの気持ちが衰えないというのに、ふふ、どうしたら良いんです、僕は」
ぱたり、と雫の落ちる音がした。
それは俯いた栗栖の眼鏡に落ちた涙の音だった。
「せんせい、恋っていうのはたぶん、もっときれいで素敵なもののはずで、じゃあ僕の抱えるこれは何なんです? こんな醜い、苦しい、エゴの塊みたいなこれは」
「──だから栗栖は、『好き』じゃなくて『欲しい』って言うのか」
がばりと顔を上げた栗栖の顔は、いくつもの感情が混じり合って歪んでいた。それでもやはり栗栖は美しいと、俺は思ってしまっていた。
「そう、そうかもしれない。だって『好き』じゃ足りないんです、何もかも」
ネクタイを綺麗に結びなおした栗栖はそう言って、俺に背を向けた。
「ただどうしても、知っていてほしいんです、せんせいには」
栗栖はくるりと俺を振り返って、いつものように「またね、せんせい」と微笑むと、自らがかけた内鍵を開けて喫煙室を出ていった。
去り際、涙で虹色に滲んでいた彼の眼鏡のレンズが頭から離れない。
俺は胸元に残った栗栖の体温が早く逃げてしまうように祈りながら、新しく煙草に火をつけたのだった。
僕のせんせい 灰崎千尋 @chat_gris
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