Ⅳ.パンの秘密

あのあと、ただ一人の目撃者だった僕は警察に色々と話を聞かれた。

車を運転していた男性は怪我をしていたものの意識はあり、命に別状はないようだった。酒の匂いがする、と救急隊が言っているのが聞こえた。

警察から解放された後も、僕は放心状態でスーパーに行くこともやめて家に帰り、ベットに横たわった。深呼吸をすると、ようやく生きている実感が湧いてくる。

『右側を歩きましょう!』

パンから聞こえた声を思い出す。

あの言葉を聞いてなかったら僕はどうなっていたのだろう。

部屋は暖かいはずなのに鳥肌が立ち、僕は毛布に包まった。

そしてそのまま眠りについた。


---


目を覚まして時計を見ると3時。

どっちの3時か分からずカーテンを開けると外は真っ暗。夜中の3時みたいだ。

12時間くらい寝ていたのか。

人間、ショックを受けると眠って体力を戻すように出来ているのかも知れない。

ゆっくり身体を起こすと頭痛がした。

冷蔵庫から出した水を飲みながら机を見ると、昨日残したにゃんにゃんベーカリーのレーズンパンが置いてある。

恐る恐る手に取ってみる。何の変哲もないパンだ。

ゴクリと唾を飲み込んでから、口に運んでみた。

「黄色の方が、いいわよぅ」

女性の声がした。レーズンパンからだ。

もう一度口に近づける。

「黄色の方が、いいわよぅ」

お金持ちのご夫人と言った感じの上品でおっとりとした女性の声が、はっきりとパンから聞こえる。昨日のクリームパンは子供の声だったので全く違う声である。

どうしたものか。

画家や音楽家など、精神を病んでしまう芸術家は数知れず。僕もその一員になってしまったのだろうか。

でも昨日の事故。あれは僕には全く予想できなかったことで、パンが予言してくれたと言ってよい。

色々考えながらも、僕はレーズンパンを齧った。パンが歯に当たる直前、「黄色の方が、いいわよぅ」と、また聞こえた。


---


ボーッとテレビを見ていたらいつの間にか7時になっていた。

今日は何をして過ごそうか。

ぐ〜っとお腹が鳴る。昨日今日と、パン一個ずつしか食べていない。

今日こそはスーパーへ行こう、と思ったが、やめた。

にゃんにゃんベーカリーに行く事にする。


少々肌寒いのでクローゼットからコートを出す。

グレーのダッフルコートを手に取った時、奥に掛けてある黄色のチェスターコートが目に止まった。学生の時に買ったものの、鮮やかな黄色は僕の地味な顔には似合わず、ずっと仕舞っていたのだ。

『黄色の方が、いいわよぅ』

レーズンパンの声を思い出した。

よし、これを着ていこう。


---


にゃんにゃんベーカリーは朝から賑わっていた。

家を出る前、ネットで「にゃんにゃんベーカリー パン」「開運パン 秘密」等検索してみたが何も出なかった。

「パン 喋る」も何も出なかった。

この店は夫婦経営だそうで、猫みたいな顔をした奥さんがニコーっと笑みを浮かべながら店番をしている。

旦那さんは顔を出さない。テレビの特集にも一切出演しなかった。


店内は、焼き立てパンのとても良い匂い。

ここのパンは【開運パン】の噂ではもちろんのこと、美味しさでも有名だった。

僕は迷った挙句、フランスパンやアンパン等をいくつか買った。

お会計の時、「あの、ここのパンって」と質問しようとすると、奥さんのニコーっと細まった目がシュッと満丸くなって灰色の瞳がギョロっと僕を見つめた。

僕はちょっと怖くなって「何でもないです」と言った。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る