パンはおしゃべり

猫杉て

Ⅰ.パンを買いに

駅のホームで必死に走っているおじさん。

いい歳して慌ててドアに挟まって、滑稽である。

しかしその直後、何の用事もなくのんびり次の電車を待つ自分の方が滑稽に思えてちょっぴり悲しくなった。


26歳、春、無職。

する事もなく、隣町のパン屋に行った帰りである。


頑張っていたはずだ。

美大を卒業し、カルチャー教室で油絵の講師をしながら、新人賞に応募したり、小さなギャラリーで個展を開いたり、それなりに毎日頑張っていたのだ。

でも一週間前、絵が描けなくなった。

きっかけは去年の夏。

友人と3人で開いた個展に、最近デビューしたばかりの小説家が来ていた。彼は僕の絵をとても気に入って、自分の本の表紙を書いて欲しいと依頼してくれた。

初めてのことで喜ぶ暇もないまま大急ぎで制作に取り掛かり、ようやく完成するかという時、やはり他の画家の絵に差し替えたいとの連絡が来た。


不思議と悔しいとか悲しいといった感情はなく、どこかホッとしている自分がいた。幼い頃から寝たり食べたり、遊んだりするのと同じくらい自然に描いていた絵。それは美大に入ってからも変わらず、僕はただただ自分の好きな絵をのびのび描いていたのだ。


それが今回小説の表紙を頼まれ、作家や出版社の人達から意見をされた時に崩れてしまった。今まで気にしていなかった他者の目が僕の中で大きくなって、日に日に絵を描くのが辛くなりとうとう筆を持つと手の震えが止まらなくなってしまった。


バンド活動をしていた大学の友人を思い出す。

彼は4年生の夏、ぱったりと音楽を辞め、そして遅れて就活をしてなんとかデザイン系の中小企業に内定を決めた。

「結局さ、俺は1と100しか見てなかったわけ」

とは、当時彼が語っていた言葉だ。

「何年かライブ活動やってもさ、きてくれるのは彼女と友達数人だけ。それなのに夢は武道館だぜ。その前にまず50人、100人、1000人ってさ、集客を増やさなきゃいけない。なのに俺は最終到達点だけ見てた。なんとかなると思ってたんだ。恥ずかしい話だよ」

でも今はSNSもサブスクもあるし、急にバズる事があるかも知れないじゃない、と言った僕に、彼はこうも言った。

「本当に知名度も何にもない奴がいきなりバズると思うか。そりゃたまにはいるかも知れない、よっぽど変わった事やってるか、容姿が良いとかな。

でもほとんどは元からある程度のファン層がいたり、事務所に入ってたりするんだよ。段階踏まずにいきなり出世出来るほど、世の中甘くないよ。お前も夢諦めて早めに就活した方がいいぜ。」


自分も、絵を描いてさえいればそこから何か広がると思っていた。その過程に、果てしなく困難な道があることを受け入れていなかったのだ。

出来上がった小説をたまたま本屋で見かけて手に取ると、表紙は僕の赤色を基調とした豊かな色彩とは正反対の、モノクロの斬新な絵だった。

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