Ⅶ.パンは教えてくれない

「私は夢あきらめないで欲しいな」

路地裏のお店でスープカレーを食べた後、僕達は近くの公園を散歩している。

冬が近づいていることもあって緑の芝生はしんなりと元気がないが、吹き抜ける風はさらさらと乾いていて気持ちが良い。

「ごめんなさい。私本当に余計なことばっかり」

風で乱れた髪を整える細くて長い指が綺麗だ。彼女がピアニストである事は1回目のデートの時に聞いた。


「ピアニストって言うとかっこいいけど、本当は全然大した事ないの。小学校の観賞会とか、病院で入院してる子達のためのミニコンサートとかね。収入もカフェのバイトの方が多いくらい」

そう言って笑う彼女の顔は、言葉と裏腹に清々しかった。


「ききさんはピアノやめたいと思ったこと、ない?」

ふと思ったことを聞いてみる。

「んー。一回だけある、かな。コンクールに出た時にね、本選で大失敗したの。私普段あんまり緊張しないのだけど、その本選の時、舞台上で急に『この演奏で私の運命が変わるかも知れない』って考えがよぎったの。そしたらもうあがっちゃって」

絵と違って音楽は本番の一発勝負だ。コンクールともなればプレッシャーは半端ないものだろう。

「あがった時、無理に抑えようとするとだめね。結局最後まで立て直せなくて散々だった。恥ずかしかった、親も友達も見に来てくれたのに申し訳なくて。私は向こうの世界にはいけないと思った、一流のプロの世界にね」

それは僕も自分に対して思ったことだった。

「それでも、ピアノを続ける道を選んだんだね」

「うん。最終的には自分がどうしたいかってことだと思ったの。失敗して恥ずかしいとか、向いてないとか、それは他人からみた私だったり、他人と比べた私でしょ。私はピアノが心の底から好き。だから例え一流のプロにはなれなくても、それでも一生を音楽と添い遂げるって覚悟を決めたの」

言った後に照れ笑いを浮かべる彼女を、僕はかっこいいと思った。

最終的には、自分がどうしたいか。

僕は覚悟を持てるだろうか。


その時電話が鳴った。

出てみるとこの前、最終面接を受けた会社からの採用通知だった。

これは今朝のパンのお告げだろうか。

−『吉報きたり!!』

と言っていたはずだ。

しかしその直後、件の小説家の担当編集者からメールが来ている事に気付いた。

別の作家の本の挿絵を、僕に描いて欲しいとの事だった。

−『吉報きたり!!』

参った。

吉報とはどちらの事なのだ。


ききさんを駅の改札まで見送った後、僕はにゃんにゃんベーカリーに急いだ。

家にあるパンのストックはもう切れていた。

早く次のお告げを聞きたい。クリームパンの子供でも、レーズンパンのご夫人でも、何でもいいからパンのお告げを聞きたかった。明日の朝、いや、今日の0時を過ぎたら食べよう。


しかし、店のシャッターは閉まっていた。

張り紙が一枚。

「にゃんにゃんベーカリーは遠くの、ずっとずっと西にある町に移転します。今までありがとうございました。」


呆然としばらく立ち尽くしてしまった。

僕は自分の心の奥底に問いかける。

僕はどうしたいのか。僕自身の未来をどうしたいのか。

パンはもう教えてくれない。

自分の声にそっと耳をすましてみる。

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パンはおしゃべり 猫杉て @nekosugi

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