第一章 「外国人」
名も知らぬ会社員の女性からメニューのイラストを頼まれてからしばらく、
私が身を置く会社の業務が多忙になったことを理由に暫く居酒屋に顔を
出していなかった。
とりわけ病みつきになる味付けの料理や、親しく話す相手もいないのでさほど
居酒屋の事は気にしていなかったが、私の上司が最近通っているという居酒屋の
話を聞いているうちにメニューの件を思いだし、少々”ばつ”が悪くなった。
それから数日が経ってようやく仕事もひと段落したので、私は久々にあの
居酒屋に顔を出すことにした。最後に顔を出してからどれくらいの日にちが
経ったであろうか。記憶するに優に2週間は顔を出していない。
そんなことに思いを巡らせながら居酒屋の暖簾をくぐる。
いつものように私の“特等席”は空いている。私は女将に目配せをしていつもの
席を陣取った。特別女将に対して「ひさしぶりだね」という言葉をかけるわけ
でもなく、かといってメニューを描く件を掘り返すわけでもなく、
お通しを待って日本酒を注文した。
暫くお通しをつつきながら呑んでいると、お店はさほど混んでいないにも
関わらず向かいの席に外国人がやって来た。どうやらこの居酒屋の近くに
大使館があり、そこからの来店らしい。大使館勤務だけあり、
ある程度日本語は分かるようで、スラスラとメニューを見て注文していた。
正直私はメニューの日本語が分からないんじゃないか、といったある程度
特別扱いをしなければならないんじゃないのか、という差別的な雰囲気を自身で
作り出してビクビクしていた。差別になってしまうのは重々承知していたが、
どうもこの癖は前時代的な考えに支配された私の頭からは抜けない。
向かいの席に人がいるとはいうものの、私は普段話しかけるタイプでもなく
一人で呑みたい気分もあり、外国人の方には申し訳ないと思いつつ、少々居心地の悪くなった私はいつもの様に絵を描き始めた。
その日はグリーンピースがふんだんに入った、この店自慢のサラダを描いた。
豆は難しい。一粒一粒にハイライトを考えて描き込まなければならないので
手間もかかる。
私は珍しく試行錯誤しながらサラダを描き終えると、最近のルーティーンに
なっている瓶ビールのラベルを描き始めた。外国人は興味深そうに、私が
瓶ビールとにらめっこしながら書き込んでいるメモ用紙を覗き込む。
あまりにも外国人が熱心にのぞき込むのでそれに圧倒された私は思わず、
「見ますか?」と尋ねる。
そうすると間髪入れずに外国人は「イエス、オネガイシマス」と答え、
私が描き上げたグリーンピース入りサラダの絵を自身の手元に持っていった。
私はいつものように相手のリアクションを伺ってみる。外国人の反応は特別
褒める訳でもなくかと言ってなにか文句をつける訳でもなく、ただずっと眺めて
サラダの絵を通してこの居酒屋の雰囲気や、私という人柄を分析するかのようで
あった。
そんな外国人に対して少しうれしくも複雑な気持ちを持ちながら、再度
瓶ビールのラベルの続きを書いているといつもの社会人の女性がやって来た。
この時点で夜の22時だ。
女性は「何してるの?」とニヤニヤしながら詰め寄ってくるので私は
「外国人に絵を見せている」と答える。どうやら女性は遠目に女将さんと一緒に
なって、一連の出来事を眺めていたらしい。そして自分が書いたわけでも
ないのに、私の絵が国境を超えて気に入られているのに痛く感心したようだ。
私はそこまで気が回っていなかった。この一連の出来事は相手が誰であろうと
“よくある“出来事だったので、確かに絵が国境を越えたといわれれば、そうだと
思った。そんな陶酔にも近い自身の考えに思いを巡らせながら暫く呑んだあと、
再度女性が声をかけてきた。
「今日学生時代の同級生と女子会があるの。」
そう言い出し立ち上がった。私は正直何を言い出しているのだろうと思った。
しかし時計を見ると時刻は既に22時半を回ったころだった。外国人も私の絵を
見て満足したのか「サンキュー」と言い残しお会計をしている。
その光景を見た私も席を立ち、そろそろおあいそでもして帰ろうと思ったが、
女性は私のその行動をみてからため息をつきつつも先ほどのセリフの続きを吐く。
「1時間位で戻るからそれまで残って描いてよ、そうしたら一緒に帰ろう?」
そう言い出したので、私は特別断る理由もないので動き始めた自身の体を
諫めてまた座った。
向かいの外国人は去り際にニヤニヤしながら退店していった。
なにを想像しているのだろうか。私は少し怪訝な顔で外国人を見送りつつ
残った日本酒をお猪口に注いで、それを口に傾けた。
それからどれほどの時が経ったであろう。私は日本酒に飽きてウィスキーのロックに移り始めたタイミングで居酒屋の扉が開いた。無論顔を覗かせたのは
「一緒に帰ろう」と誘ってきた女性であった。同窓会というものだから私は
昔の話で盛り上がってお酒が進み、ベロンベロンに酔っぱらって帰ってくると
ばかり思っていたが、その想像とは裏腹にシラフに近い状態で戻ってきたのだ。
女性は女将と二、三言交わすと私の隣へやってきた。私の前にはウィスキーを
頼む前に描き上げていた瓶ビールのイラストが置かれている。女性はその
イラストへ目を落とすと何を言うわけでもなく私に視線を向けた。
「お待たせ、待たせてごめんね」
服装も声のトーンも先ほど出ていった際とは何も変わりは無いが、不思議と
その声は色っぽく聞こえた。
私は無難に、飲んでいたのだからそんなに待っていないよ、と答える。
時計を見ると23時半を少し回ったところだったので、実際にほとんど予定通り
で待ってはいないので、お世辞ではない。
私は女性と帰路を共にするためにも女将さんに“おあいそ”をお願いした。
女将さんは無言でうなずき渡した1万円札を受け取るとお釣りの準備を始める。
私はそのお釣りを受け取るとレジを弄る女将さんに背を向ける。
「待ちなさい」
そう言葉を発したのは女将さんだった。どうやら先ほどの外国人客が私に対して絵を見せてくれたお礼を置いて行ったとのことらしい。私は金をとれるほどの絵を描いた記憶は無いので正直うれしさ半分、詐欺でも働いてしまったかのような
罪悪感が半分の複雑な心境になってしまった。
外国人客が私に置いて行ったものは意外なことに「紙」であった。何も
書かれていなければ折れ目も存在しない真っ新な「紙」だ。女将さん曰くこの紙は書き心地が良くてとても気に入っている紙だそうで、自分の母国で作られている
ものだそう。これで気持ちよく絵を描いてもらいたいとのことだ。
次あの外国人客に会うことがあれば好きなメニューを奢ってあげて、その絵を
描いてあげようと心にそっとその思いを秘めることにした。たった数時間の
出会いだが、居酒屋ではそんな小さな出会いでも濃密なものになるのだ。
女性を引き連れて店の暖簾をくぐって外にでる。季節は10月だが、空気は既に
冬のそれになっている様だった。酒で火照った体に冷たい空気が良く刺さる。
私は女性と二人で駅に向かってゆっくりと歩きだした。
第二章へ続く
居酒屋ロマンティカ タカツカサ @zauberkugel
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