秋、冬、春。季節は、廻りて。
工房の庭先に落ちる枯れ葉の掃除を毎日しなければならなくなった頃、ミサキちゃんは再び工房に遊びに来てくれた。ちょうどプレハブの倉庫へ材料をしまいにいったとき、門のそばに立ってこちらをチラチラとうかがっているミサキちゃんがいたのだ。工房に招き入れ、秋冬に楽しもうと買っていたアップルフレーバーの紅茶とビスケットでもてなす。小学校での話を聞いたあと、先生から託された小箱を手渡した。ミサキちゃんが
「ありがとうって言いたいんだけど、先生はどこ?」
と、尋ねられた。私は口に含んだ紅茶の甘さの奥に、得も言われぬ渋みを感じた。
「ごめんね、来年の夏まで戻らないの」
とだけ伝え、ビスケットを口に押し込んだ。来年の夏に戻った先生がミサキちゃんのことを覚えているのか。サタンオオカブトのキーホルダーを作ったことを覚えているのか。私にもわからないことだったので、それ以上は言えなかった。彼女は、「ざんねん」と眉をハの字にして、ランドセルの横で揺れるサタンオオカブトをつついて遊んでいた。
それ以来、ミサキちゃんはたまに工房に遊びに来るようになった。甲虫のことを調べた自由研究が県で表彰された話や、理科のテストで百点をとった話などを聞きながら、甘い紅茶とお菓子をたしなむようになっていった。私も二人で過ごす時間は楽しかった。ただ、ミサキちゃんが帰ってから給湯室で二人分のティーカップを洗い終わり、ふと作業場を見渡すと、先生の作業机の周りに暗い影が落ちていて、それが私の心に冷たい風を吹かすのだった。
街じゅうに白い雪の
「いらっしゃい。お久しぶりですね」
「ご無沙汰してます。やっと夏に買い込んだ茶葉が切れまして」
棚には夏に訪れたときとはまったく違う茶葉が並んでいた。ダージリンのレイトハーヴェスト、ショコラティー、ヴァニラティー。味が濃厚な茶葉が所狭しと顔を並べている。一つひとつ、順に目を通していく。手製のPOPの文字を読んでいると、柔らかな声が私に投げかけられる。
「そろそろいらっしゃる頃だと思ってましたけどね」
店長はレジの横の机で書き物をしながら、カーディガンが肩からずり落ちないようはおりなおしている。寒がりなのか、夏よりも幾重にも着込んでいて、まるでリスのように背中を丸めている。顧客の名簿が手元にあるわけでもないのになぜわかるんだろうと、私は不思議に思って聞いてみる。
「水瀬さんは夏になると一〇種類くらい茶葉を買い込んで、秋は来られず、冬が深まると足を運んでくださって、そこからは一ヶ月ごとにいろんな種類を試されますからね。今日は一段と寒くなりましたし、それが三年も続けば、さすがの私でも覚えますよ」
真夏、先生が工房にいる間は、その日その日の気分で飲むお茶を選びたいので、何種類もの茶葉を買い込んでおくようにしていた。秋は、余ったお茶を独りでゆっくり飲んでいくために、ペースが落ちる。その行動パターンを、まるで探偵のような口ぶりで見事に言い当てられ、私は「そうでしたっけ」ととぼけたフリをした。その様子を
まだ冷たい風が吹きすさぶ早春の頃、毎年出店しているフリーマーケットに出た。私は当日、出店準備をする前に星野さんのブースを訪れた。星野さんに夏の
「あとで水瀬さんの先生にもご挨拶へ行きますね」
と言ってくださったのだが、「今日は来ていないので」と断り、自分のブースへ足早に戻る。ひとたびフリーマーケットが始まると、私は独りで準備しなければならず、その日星野さんと再び顔を合わせることはなかった。
長机の上に置かれたアクセサリーたちは、順調にひとつ、またひとつと、お客様の元へ飛び立っていく。春だからか、
昼の時間帯に若い女性がおもむろにブースに近づいてきた。一人だからか時間を気にする様子もなく、一つずつアクセサリーを凝視している。陳列しているアクセサリーに鼻先がぶつかりそうなくらいだ。彼女がかぶっている黒いキャップの横に、何か茶色いものがつけられている。見覚えのある、
「すみません!」
「は、はい?」
彼女に声をかけようとしたちょうどそのとき、先手を打たれて返事の声が裏返ってしまった。ボーイッシュな格好をした彼女の瞳はゴールドだった。カラコンが明るい茶髪によく映えている。
「もしかして去年もお店出されてませんでした? お姉さんじゃなく、蝉の男の人だったと思うんですけど」
興奮した様子の彼女は、早口で私に尋ねてきた。
「出店してました。
見紛うことなく、私が作った鍬形虫のブローチだった。鍬形虫の二本の
「去年、このクワガタ見つけて一目惚れしちゃって。似たようなアクセサリーだなあ、と思って見てたんですけど、蝉の人じゃないから違うのかな、って思っちゃって。ってことは、もしかしてこのクワガタ、お姉さんが作ったんですか?」
「え?」
「その蝉の男の人が、去年『一緒に働いている女性の職人が作った』っておっしゃっていたので」
彼女はキャップを脱ぎ、鍬形虫のブローチを親指で一撫でする。その優しい触り方と、本物の鍬形虫のように艶やかに光るブローチの表面を見て、大切にされていることがよくわかった。定期的に撫でたり磨いたりして木が油を吸わないと、あの光沢は出ない。
「『綺麗なクワガタですね』って言ったら、『職人が丁寧に手作りしてますから』って言われたので、買ったんですよ。よく覚えてます」
アクセサリーをひととおり眺め終わると、彼女は長机の上に陳列された甲虫のリングを指差した。私が考えたオリジナルの新作だ。太めのリングを樹木に見立てて、甲虫がリングの上を悠々と
「これ、ください」
と、彼女は蜜色の瞳を
「またフリマに出店されてたら、のぞきに来ますね」
と、彼女はこちらを振り返ることなく颯爽と去って行った。自分の好きなモノを好きなだけ身につけていることが端から見てもわかる。自信溢れる彼女の背中が、人混みの中に消えていく。見送る私の冷たかった頬は、内側からぽかぽかと温かくなった。
風が街路樹の葉をさわさわと揺らしている。きっとあの風は、もうすぐ春を連れてくるだろうと思った。
秋も冬も春も、工房に来ては植物に水をやり、アクセサリーをつくり、お茶を飲んでいた。育てる花の種類や淹れる紅茶の茶葉が変わっても、そのルーティンが変わることはなかった。いつもどおりの日々を慈しみ、私にできることを丁寧にこなしていく。
蝉の翅脈のピアスの練習は、一日も欠かさなかった。指の腹とその横の、ワイヤーがちょうど当たる部分に線状のタコができ、痛みも少なくなった。タコがかたくなっていくにつれ、できあがる蝉の翅脈の表面は滑らかになっていった。材料であるワイヤーのロールは、倉庫の中で一番減りが早かった。
この一年で変化したことと言えば、私の右耳にピアス穴が開き、自分で作った蝉の翅脈のピアスをたまにつけることだった。左耳には、穴は開けていない。
小鳥のコーラスがあちらこちらから聞こえていた季節は瞬く間に駆け抜けて、次第にアスファルトが熱を帯びるようになってしまった。まだ午前中の早い時間だというのに、靴底のゴムが溶けてしまいやしないだろうかと思うほど、地面近くの空気が揺れている。顎を伝う汗を拭くと、右耳の蝉の翅脈のピアスが耳元でしゃら、と音をたてた。
工房までの長い坂を上りながら、今日のタスクを頭の中で洗い出していた。昨日塗った
熱くなった工房の門扉を開けたそのとき、倉庫の前に人影が見えた。見覚えのある後ろ姿に、心臓の音が高鳴った。私は無意識に駆け寄った。
「おはよう」
待ち焦がれていた声が、私の鼓膜を震わせた。汗で前髪が貼り付いてないかが気になりつつ、先生のもとへ歩み寄る。嬉しさで心が満たされていたのも束の間、黒いインクが水に滲んでいってしまうように、不安が全身を浸食していった。先生は昨年のことを、私のことを覚えているのだろうか?
先生は倉庫の中をチェックしてくれていたのか、腕まくりをしてメモ帳を携えていた。
「おはようございます。今年は早いですね」
「ああ、今年は気温が上がるのが早かったから」
おそるおそる声をかけるが、毎年の反応と変わらないように思えた。白いワイシャツに濃紺のエプロンをつけた先生は、倉庫の引き戸を閉めてメモ帳をポケットにしまう。緩やかな風がそよぎ、新緑の木々を柔らかに揺らしている。私はなんと声をかければいいのか迷い、紅茶葉が入った紙袋を胸に抱えたまま動けなかった。先生の表情をうかがうと、先生はどこか一点をじっと見つめていた。
「それ」
彼は蝉の翅脈のピアスがゆれる私の右耳を指差した。口から心臓が飛び出しそうになるのをこらえて、素知らぬふりをして答える。
「私が初めてつくった蝉の翅脈のピアスです」
このピアスを覚えていますか、とは意地でも聞かないと決めていた。汗が背中を伝っていくのが、自分でもわかる。
私にとっての二人目の先生が姿を現した初日のことが思い出される。先生が突然工房に戻ってきた驚きと、思い出話をしてもどこか会話が成り立たない衝撃で、その日は仕事が手につかなかった。あの孤独感は、その後も慣れることはなかった。今日の夜、私は泣いているのだろうか?
蝉頭の先生の枯れた樹木のような頬に強い日差しが当たり、こちらを見て微笑んでいるかのように見えた。紅茶に入れた角砂糖のごとく、私の不安が二人の間で溶けていく。先生はゆっくりと、濃紺のくたびれたエプロンのポケットに手を差し入れた。
先生の傷だらけの手のひらから、しゃら、と透き通るような金属音が聞こえた。
了
蝉の置土産 高村 芳 @yo4_taka6ra
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