16. 夜明け

 天を焦がすような炎が上がり、煙が辺りを覆い尽くす。地が割れ、川は溢れ、湖は瘴気を放つ毒々しい色の沼地に変わる。稲光と豪雨が降り注ぎ、やがて、街は沈み、村は裂け目へと呑み込まれる。


 見渡す限りに転がる命の消えた体。それらを焼く煙。どれほど川で水浴びをしても、永遠に消えることはないのではないかと思うほど、体に染みついた血の匂い。

 いくら彼らが働きかけようと、戦火は止む気配もなかった。個人でどうにかできる時期はとうに過ぎ去り、争いを続ける指導者たちも薄々その無益さに気づきながらももはやその剣を収める術を見出せないようだった。


 それでも彼らはやり遂げた。そう思った矢先の、黒狼の里での全滅の報。そうして彼は力ある者に呪いを願い、叶えられた願いは、彼の望みを果たした。たった一つの誤算は、彼が初めて心底心奪われた相手が、その呪いに囚われてしまっていたことだ。


 左の手首から肩を過ぎ、心臓へと伸びる黒い蔦のような文様。あとほんのわずか、その蔦が伸びれば、彼女は命を失う。

 ロイ、と微かに動いた唇が自分の名を呼んだ気がした。そのまま伸ばされた手が、ぱたりと途中で力を失って——。


 がばりと身を起こして、一瞬自分がどこにいるのか把握できずに、あたりを見回す。そうして、ようやく自分の家の寝台の上にいることに気づいた。あまりにも生々しい夢に、過去と現在が混濁し、何が現実で、何が幻だったのかも曖昧になる。


「——ディル」


 その名を呼んで、ようやく隣にその姿がないことが普通あたりまえでないことを思い出した。窓の外はまだ暗い。耳を澄ませてみても、物音ひとつ聞こえなかった。ざわり、と心臓がおかしな音を立てた。言い知れぬ不安は、先見視さきみの発現か、それともただの思い過ごしか。

 拳を握り、余計な不安を心から追い出す。呪いは破棄された。死の運命が彼女を捕らえることは、もう、ない。


 自分に言い聞かせて寝台から降りる。寝室を出たが、やはり灯り一つなく、ただ扉の脇にかかっている角灯ランタンが一つ消えていたから、どうやら外に出たらしいと把握した。攫われたわけでも、何か不測の事態が起きたわけでもなく、自分の意志で出かけたのだと、そうわかって息を吐く。

「まったく、どれだけ心配性なんだ、俺も」

 独りちて、自分も角灯を手にして外へ出る。一体こんな夜中にどこへ出かけたというのか。一度目を閉じ、それから半眼になって、遠くを見るように意識を分ける。ふっと浮かんできたのは、崖の上に立つ姿だった。

「……何やってんだ、あいつは」

 その風景には見覚えがあったから、慌てて駆け出す。家からさほど離れていない、裏の林を抜けた先の小高い丘。その先には切り立った崖があった。見晴らしの良いその場所は、昼や夕刻に訪れて、食事をしたりしたこともあったけれど、こんな夜明け前の時刻に訪ねる場所では決してないはずだった。


 駆けつけると、ぎりぎり崖の端に立ち、眼下を覗き込む銀色の長い髪の後ろ姿が見えた。微かに白み始めた空に浮かぶその姿はあまりに儚くて、今にも消えてしまいそうに思えて、彼の心臓がまたおかしな音を立てる。

「ディル!」

「……え、ロイ?」

 振り向いた拍子に、バランスを崩してその体が傾ぐ。しまった、と声を上げるよりも先に駆け寄り、無我夢中でその体を抱き込んだ。何があってもこの存在だけは守り抜いてみせると、覚悟を決めて衝撃に備えたが、思いの外すぐに柔らかい地面に受け止められた。

「……何?」

 目を開けると、崖の天辺がすぐそこに見えた。落ちたのは草に覆われたすぐ下の岩棚で、しっかりとしたその場所は、拍子抜けするほど広く安全だった。

「——んだよ、ったく」

 安堵の息と共に思わずそう呟くと、膝の上に乗る形になっていたディルが首を傾げた。さほど驚いていないところを見ると、すぐ下に岩棚があることを認識していたらしい。

「どうしたの、ロイ?」

「どうしたの、じゃねえよ。まだ夜も明けてないってのにあんたの姿が見えねえし、崖っぷちに立ってるのが見えて、肝を冷やした俺の気持ちがわかるか⁉︎」

 それが半ば八つ当たりに近いことは自覚しつつも、未だ早鐘を打つ心臓に任せてそう叫ぶと、ディルは不思議そうな表情のまま、けれど彼の胸の辺りに手のひらを当てた。

「ごめん、びっくりした? すごく早いね、鼓動」

「あんたに何かあったら、俺は死ぬぞ」

「冗談でも言わないで」


 以前はその手の冗談にひどく敏感だったが、最近はこうして微笑んだままいなせる程度には、穏やかな生活に慣れてきていた。

「じゃあ、一体何をしてたんだ、こんなところで?」

「この辺りに、月夜茸つきよだけが生えてるから。数日前に見にきた時はまだ小さかったけど、そろそろかなって。日が昇る前に摘み取らないと、すぐ萎れてしまうからって思い出して見にきたんだけど。心配かけたなら、ごめん」

「一言声をかけてくれりゃあ」

「だって、珍しくよく眠っていたから」

 昨夜のあれこれを思い出したのか、ディルが頬を染める。かなり遠慮なく夜を共に過ごしたせいで、寝過ごしたとは情けない話だが、その顔に思わず悪戯心がわき起こる。

「あんたはどうやらまだ余裕みたいだな?」

「そ、そんなことないよ……! ただ、ちょっと早く目が覚めちゃっただけで」

 実のところ眠りに落ちたのはディルの方が早かったから、それはごく当然のことだったのだけれど。抱き寄せて顔を近づければ、少しだけ困ったように、それでもすぐに何かを諦めたかのように彼の首に腕を回してくる。


 初めて会ったときにはなかった柔らかなふくらみに、細いその体はもう隅々までよく知っているというのに。回された腕や胸元は白く美しい。ただ、彼がつけた痕がいくつも残ってはいたけれど。


「ロイ、どうかした?」

「……何がだ?」

「何だか……少し辛そうに見える」

 ためらいがちにそう言って頬に触れてきた手は優しく温かい。いつだって、踏み込みきれない彼の胸に——心に、真っ直ぐに飛び込んできてくれたのは、彼女の方だった。だからこそ、素直に言葉が溢れた。

「悪い夢を見た」

「夢……?」

「大戦の最中の光景と——あんたを失う夢だ」

 笑い飛ばすつもりで言った声が情けなく震えて、思わず唇を噛み締めた彼の顔を、ディルは静かに見つめてくる。それからふわりとどこか呆れたように、それでもひどく優しく微笑んだ。

 彼の首に回された腕がより強く絡められ、唇が重ねられる。いつものためらいがちなそれよりは、もう少し深く踏み込んだ情熱的なそれ。繰り返されるうちに、体の奥で熱が上がり、しっかりと抱き返して、自ら口づけを深く返す。


 衝動のままにその場に押し倒すと、もう一度笑う気配がした。間近に合わせた瞳は、明け始めた空を映して鮮やかな薔薇色に染まっている。他の誰も見ることのない、彼だけの、秘められた色。


「そばにいてくれ。俺が目覚めるときには、いつも」

「それじゃ、朝ごはんの準備ができないよ?」

「俺がすればいいだろう?」

「……甘やかしすぎじゃない?」

「三百年を越えてようやく見つけた、心底惚れた相手だ。俺の好きにさせろ」


 口の端を上げて冗談混じりに——けれど実際のところはまるきり本音で——そう告げると、ディルはもう一度呆れたように微笑んで、彼の顔を引き寄せた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

The other possibilities 橘 紀里 @kiri_tachibana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ