10_いつまで続くのか

 私の依存症は死ぬまで治らないだろうと漠然と思っており、それを憂えているわけではないので、笑い話として知人にそう漏らしたことがあった。しかし知人はそれに対して「うーん」と首を傾けたので、私は驚いた。一体何を疑うのだろうか。こんなにも強く依存しており、そして私がそれを幸せだと感じている。私と文字書きの間を邪魔する要素は何も無い。幾らも戸惑う私を余所に、知人はこう続けた。

「三途の川でも『待ち時間が長いからこの間に書く』と言って書いてそう」

 ぐうの音も出ないとはこのことだ。その通りだと思った。死を迎えた程度で私が書かなくなるわけがない。

 正直に言えば、私は輪廻転生も死後の世界も全く信じていない。死は無であって終わりだから、意識がその先に繋がるとは思えないのが本心だ。とは言え、私はまだ死んだことが無いので分からない。何となくそう思っているだけで、無いと断言できるものではない。だからもしもあるのだとしたら、やはり生まれ変わっても私はこの依存症を持って生まれるのだろうし、幽霊として彷徨うのだとしたら、書く為だけに人に取り憑いて回るのだろうと思う。深く納得した私は、知人にこう返した。

「私のお墓にはノートと鉛筆を入れてね」

 生まれ変わるか、幽霊となるか、本当に無となるのかは分からないが、何かしらの『待ち時間』があるのだとしたら、せめてノートと鉛筆が無いことには物語を綴れなくなってしまう。パソコンがある方が助かるけれど機械は電気が無いと使えないので、動かなくなった時点で発狂してしまう。ならばアナログが一番安全だろう。

 このように、知人と話してからの私は、死んだ後に残していく何かを一切心配することなく、「死んだ後も書く為の手段」を心配するようになった。本当に私は、死ぬまで、そして死んだ後も、この依存症を患い続けるような気がしてならない。幸せな魂だと心から思う。


 私の『文字書き依存症』を語るエッセイは以上になる。楽しんで頂けただろうか。普通に引いただけで終わった方には申し訳ないと感じると同時に、私も少々傷付く。このエッセイは深刻に心配してもらう為のものではなく、また、賞賛して頂くものでもなく、妙な人間だと笑ってもらう為のものだ。もしくは私の文字書き大好きっぷりを、幸せそうなやつだと微笑ましく見つめてもらうでも良いだろう。少々照れ臭いが、引かれるよりは断然いい。

 前にも述べたが、この趣味に出会うまで、私は趣味らしい趣味を持たなかった。自分に趣味が無いことが、ずっとコンプレックスだった。そんなことを今更可笑しく感じることがある。今があるから当時が苦しくなくなるわけではないし、当時の自分が『いつか出会う』のだと知ったところで、苦しみは無くならないと思う。それでも、フラットな気持ちで色んなものを見つめることが出来る『無趣味』な時期は、『出会ってしまうまで』の時間制限が付いていたのだと知った。それならば、そんな感覚を記憶から弾くのではなく、もっと覚えていても良かったと、少しだけ後悔がある。人の精神はどうやら一度転げ落ちると、マントルに至っても落ち続けるものであるらしい。最早私は落下状態でない頃に戻ることは出来ないのだ。

 さておき、また書きたい物語が思い浮かんでしまった。書ける時間が限られているので、駆け足になるがこのエッセイは此処で終わりとし、私はいつもの文字書きの時間へと戻ることにしよう。

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文字書き依存症のいち症例 @ametolisten

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