ガール・スプリント・ガール

放睨風我

ガール・スプリント・ガール

タイムリミットは五分。


琴音ことねは席に座って秒針を睨みつけながら、心のなかでクラウチングスタートの体勢を取っていた。もうすぐ一限目が終わって休み時間に入る。五分間の休み時間で教室から下駄箱まで走り、を回収しないといけない。


「……」


傍目には、琴音は真面目に教師の話を聞いて熱心にノートを取っているように見える。だがよくよく見ると彼女のノートには【ヤバイヤバイヤバイヤバイ……】と書き殴られ、心の声がダダ漏れになっているのだった。


高校に入学してほぼ一年。これまで真面目な優等生で通してきた琴音は、その澄ました表情の奥底で、いま彼女の十六年の人生における最大の危機を噛み締めていた。


キーン、コーン、カーン、コーン……


のんきなチャイムが鳴り響き、日直が気怠けだるげに「きりーつ、れーい、ありがとうございましたぁ」と号令をかける。琴音は最後の「たぁ」の音が鼓膜に届くとほぼ同時に、跳ねるようにして廊下に向かって駆け出していた。


琴音の友人、ミカとツムギが慌てて声をかける。


「ち、ちょっと琴音!?どうしたの」

「ごめんトイレ!」


力強い琴音の宣言は、びゅん、と風を切る音とともに、二人の髪をなびかせて廊下の向こうへと消えていった。教師もクラスメイトもぽかんとして琴音が開け放った教室の扉を眺めている。


ミカとツムギはしばらく呆然として琴音を見送ったあと、顔を見合わせ、深刻な声色で呟く。


「……かなり危ないっぽいね」

「だね」



◆◆◆◆◆



生徒たちの奇異の視線を浴びながら琴音は廊下を走った。人にぶつかりそうになって、謝りながら駆け抜ける。誰かの呼び止める声を置き去りにした。後で先生に怒られるかも知れないが、いまはそれどころではない。


「はあ、はあ……」


琴音は走るのが得意というわけではない。むしろ中学からずっと美術部の彼女にとって、最も苦手とする行為のひとつですらある。こんなに必死で走ったのは小学生のころ、犬に追いかけられたとき以来だろうか。


だから階段を一階まで降りた頃には、琴音の肺と心臓はバチバチと警告信号をあげていた。危険です!危険です!すぐに休んでください!うるさい、もうちょっと頑張れ、と琴音は自身の身体を叱責しながら、ひた走る。


下駄箱まで、もう少し。


琴音は身体の辛さを紛らわすため、ちらりと窓の外に目を向けた。


二月十四日。どんよりとした曇り空からは、ちらほらと雪が降っている。ホワイト・バレンタインというやつだ。今朝の琴音は、その特別感にうきうきしていた。気分が盛り上がっていた。ふわふわしていた。だから、あんな間違いをやらかしてしまったに違いない。



◆◆◆◆◆



琴音は、三年生の鎧塚よろいづか先輩の下駄箱にチョコレートをこっそり忍ばせるつもりだった。


先輩と言葉を交わしたことはない。学年が違う以前に、そもそもスクールカーストが天と地ほどに違う。琴音が鎧塚先輩のことを遠目に追いかけ始めたのも、元はと言えば、他の女子が黄色い声を上げて騒ぐサッカー部のイケメンで、アイドル的な人気者だったからだ。他人が好きだというから、何となく自分も好きになったような気がした。そういう一方的な想いだった。


どうせ一方的ならと、卒業してしまう前にバレンタインにかこつけてチョコレートを渡そうと思い立ったのが昨日の夜。


そして今朝、琴音はいつもの通学路を遠回りして歩き、初めて入るコンビニでチョコレートを買った。ノートの切れ端に「一年五組・市原琴音より」とだけ書いたメモをラッピングの隙間に差し込んだ。わたしはいま特別なことをしているんだという高揚感のまま、あたりに人がいないタイミングを見計らって、そのチョコレートを下駄箱にダンクシュートしてしまったのだった。


ところが。


一限目の古文の授業が始まって、淡々と教科書を読み上げる教師の眠そうな声を聞いていると、だんだん頭が冷静になってきたのだった。そうして校庭で体育のサッカーの授業を受けている三年生の姿を眺めて、あれ、鎧塚先輩いないなぁ、別のクラスかな、と考えたとき、琴音はひとつの事実に思い当たってしまった。


(下駄箱、間違えた気がする……)


琴音は、ぶわぁっと全身から冷や汗が吹き出すのを感じた。


あの時、琴音はまわりの様子をうかがいながら、ほとんど靴箱の中を確認せずに勢いでチョコを突っ込んでしまった。時刻はたぶん、一限開始ギリギリだったと思う。


そのとき琴音の網膜に焼き付いた光景を思い返してみると、室内履きと通学シューズが両方入っていた……ような、気がする。つまり――その靴箱の主は、通学してきて、教室で体操着に着替え、室内履きを靴箱に入れて、その時点でサッカーのスパイクを履いて外に出ていた、ということを意味していた。


そして、いま校庭で体育の授業を受けているのは、鎧塚先輩とは違うクラスだ。


間違った気がする。いや、絶対に間違えた。


琴音の学校では、体育は二時間連続で行われる。さらに、一限目のあとの休憩は特に短く設定されていて、ほとんどトイレ休憩程度の役割しかない。わざわざ下駄箱で靴を履き替えて、外に出ようとする生徒はいないだろう。


だから何としても、この五分間で証拠を回収しなければならない。


そういうわけで、琴音は疾走していた。



◆◆◆◆◆



「やっぱ、り……」


琴音は「吉崎」と名前が書かれた靴箱の中を覗きながら、ぜえぜえと肩で息をする。オレンジのラッピングが施された小ぶりな箱は、鎧塚先輩ではなく、まったく別の三年生の靴箱に入っていた。


(危ないとこだった……)


靴箱からチョコを取り出そうとしたところで、琴音の脚はと崩れた。慣れない全力疾走によって、足に力が入らなくなっていたのだ。


「あっ……!」


――と、琴音の身体が何者かによって支えられる。


顔を上げると、見知らぬ男子生徒が琴音を抱き留めていた。着ている体操着の色から、体育の授業を受けていた三年生だろう。


琴音は慌ててお礼を云う。


「あ、ありがとう……ございます」


男子生徒はこくりと頷くと、琴音が開けたままの「吉崎」の靴箱を指差した。


「えっと。俺の靴、取っていい?」

「あ……は、はい」


琴音はの言葉に反射的に返事をしたあと、いま靴箱の中には見られたくないものが入っていることを思い出して――


「あ!」

「うわ!?」


琴音の大声に驚いて吉崎先輩も飛び上がる。琴音は彼女自身が驚くような反射速度でとチョコレートの箱を取り出すと、先輩の視線から隠すように腕の中に抱いた。


吉崎先輩は、琴音の顔と、その手の中にある綺麗にラッピングされた箱とを交互に見比べている。


琴音は言葉を濁して、ごにょごにょと説明になっていない説明をした。


「あのその、何というか、これはちょっと間違いで……」


吉崎先輩はそれに反応するでもなく、じっと琴音の目を見つめている。


「……あの」


琴音が不安を覚えかけたとき、先輩は口を開いた。


「一年の市原琴音、だろ?」

「……え?どうして」


どうして、名前を知っているのか。


今度は吉崎先輩が言葉を濁す番だった。彼は取り繕うようにして、歯切れ悪く琴音の疑問に答えた。


「ああ……えっと、美術部の展示で……」


なるほど、と、琴音は一瞬納得しそうになる。


(……でも)


琴音は、鎧塚先輩のような有名人ではない。美術部の展示では、琴音が絵の横に立っていたわけでもなければ、顔写真が添えられていたわけでもない。絵を見て琴音の名前は覚えていたとしても、顔も記憶されているのは奇妙な話に思えた。


吉崎先輩はポリポリと頭を掻いて、しばらく何かを考えるように眼を泳がせる。そうして、琴音に伝えるというよりも、自分自身に言い聞かせるような口調でぼそりと呟いた。


「間違い、じゃなかったら嬉しいんだけど」

「え?」


琴音は眼を丸くする。


吉崎先輩は、動きが停止したままの琴音が持つチョコレートを指差した。


「それ、俺がもらっちゃだめか?」


琴音はその後もしばらく「……」と沈黙していたが、吉崎先輩の言葉の意味するところが脳に浸透したところで、かあっと顔に血が上るのを感じた。違う、これは全力疾走のせいだ。と、自分自身に言い訳をする。


隙を見せたくない。動揺していることを、知られたくない。琴音はこれまでの学生生活で鍛え上げた優等生の仮面を被りなおすと、できるだけ冷静な声色で、YES でも NO でもない返事をした。


「……無茶なこと言ってる、ってわかってます?」

「まぁ、一応」

「いくら何でも、そんな一方的……」


と、そこで琴音の言葉は途切れる。


一方的な想いの押し付け。――他ならぬ琴音自身が、鎧塚先輩に対して行おうとしていることだ。それを自覚した瞬間、琴音は吉崎先輩に対する反発の気持ちを見失ってしまった。


吉崎先輩は、急に動きがストップした琴音を覗き込んで「おーい」と目の前で手を降ってみせる。はっとして琴音は思考を戻した。


「いえ……その。一方的なのは、わたしもそうだなって」


吉崎先輩は琴音の手元のチョコレートの箱に目を向ける。


「それ、鎧塚にか?」


琴音は突然言い当てられたことに驚きながら頷く。頷いたあとで、正直に答える義理なんてなかったのにと気が付くが、もう遅い。


「俺もサッカー部。鎧塚のこと、見に来てただろ。他の女子と一緒に」

「……はい」

「その中に、市原さんのこと見かけて」


――それで顔を。


「あいつがキャーキャー言われんのはいつもだけどさ。市原さんは何だか周りに合わせているだけで、鎧塚のヤツにそれほど興味がなさそうに見えたんだ」

「そ、そんなこと……」

「だから――はあいつじゃなくて、俺にくれないか?」


休憩時間の終わりを告げるチャイムが、二人の間を流れていった。

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