第50話 な、なんで目を逸らすのだぁ!

 蝉の輪唱が響く。入道雲がビルの隙間を白く埋める。原色の絵の具をにじませたように青い空を、きざしは病院のエントランスの窓越しに見上げていた。夏休みも終わりに近づいているが、蝉の声は衰えることを知らない。

(……何もしなかったな)

 ビルの隙間の入道雲を眺めながら、兆は今年の夏を思い返す。結局、半分以上を病室の中で過ごしてしまった。チームを抜ける騒動の後も、何度大丈夫だと主張しても退院の許可が下りる気配がなく……結局、1ヶ月ほどずっと病室にいたことになる。

(明日から普通に学校か……ずっと何もしてなかったし、身体なまってなきゃいいけど。いや、腕の方のリハビリはちょいちょいやってたから、多分大丈夫だとは思うが……)

 包帯が取れた片手を軽く握り、開く。どうせだから、と彼は腕のリハビリも並行して行っていた。おかげで腕を折る前と同じくらいには感覚が戻ってきたのだが……やはり体力低下の不安はある。入院中はそんな心配はなかったが、再び通学し始めた頃に誰かに襲われたら、返り討ちにできる確証はない。片手をじっと見つめていると、彼の腹部に軽い衝撃が走った。顔を上げると、じっとりとした半目で彼を見上げる佳代の姿。

「……何すんだよ」

「兆、まーた変なこと考えてたのだろう」

「なんでわかるんだよ……」

 呆れたように溜め息を吐く兆を見上げつつ、佳代は先程彼の腹部をはたいた手をおさめる。そのまま腕を組み、天気の話でもするかのように言い放った。

「そりゃわかるのだ。兆のことなのだし」

「……っ!」

 びく、と身体を震わせ、兆は思わず一歩後ずさった。見開かれた三白眼が、佳代の瞳を穴が開くほど見つめる。何かに耐えるように口元が強張り、両肩が細かく震えだす。佳代はそんな彼の瞳をきょとんと見つめ返し、ぱちぱちと目を瞬かせた。その水晶のような光を直視できなくて、兆は視線をそっと伏せる。


『兆、僕は好きで毎日遊びに来ているのだぞ』

 佳代の言葉が脳裏にこびりついて離れない。気付いた時には何度も耳元に蘇る声は、まるでオルゴールが鳴り響くようで。好き、というたった二文字。それがどんな意味を持っているのかわからなくて……わからないくせに、佳代の言葉や動作のひとつひとつが妙に胸に引っかかる。

 ちら、と視線を上げ、佳代の様子を窺う。彼はしばらく兆を見つめていたが、ふと窓の外に視線を投げた。エアコンの風にアイボリーブラックの髪がふわふわと揺れ、夏の日差しに素朴な横顔が輝く。その顔立ちはお世辞にも整っているとは言えないけれど、それすらも古いテディベアのように思えて。拳を固く握りしめ、兆は佳代から視線を外しては、再び彼を見て、それをヨーヨーのように繰り返して。


「……終わったぞ」

 ふと投げかけられた声に、兆は顔を上げた。佳代と同じアイボリーブラックの髪と、大学生らしい垢抜けた私服姿が視界に映る。

「あ、しゅん兄。お疲れ様なのだ!」

「……っす」

 能天気に笑う佳代と、反射的に立ち上がって礼を返す兆。佳代の兄――舜は財布を鞄にしまいつつ、諸々の書類を兆に渡す。

「あざっす……えっと、その、本当に……」

「何も言うな。こういうのは大人しく受け取っておくものだ」

 マシュマロのような言葉に、兆は思わず視線を伏せる。書類を両手で受け取りながら、もう一度頭を下げる。

「本当なのだ。こういうのは気にしすぎたら心にカビが生えるのだ」

「なんだよその言い方……」

 緩慢に視線を動かし、呆れたように佳代を見つめる。しかしその視線の意味を知ってか知らずか、彼は満足げに頷いた。カタバミの小さな花のような笑顔を浮かべ、真っ直ぐに兆を見つめる。

「その様子なら、元気になった感じがするのだ。それでこそ兆って感じがするのだ!」

「……」

「な、なんで目を逸らすのだぁ!」

「佳代、ここは病院だ。あまり騒ぐな」

「あ……はいなのだ」

 わかりやすくしおれる佳代に、兆の片手がかすかに震える。彼の頭を撫でたくなる衝動を、歯を強く食いしばって噛み殺した。どうしてそんなことを思うのかもわからないけれど、それでも白い羽毛のような感情は、胸の奥から次々と溢れて。


「……佳代」

「ん、どうしたのだ、兆?」

 軽く首を傾げ、アーモンド形の瞳が兆を見返す。その瞳のは相変わらず水晶のような光が宿っていて、兆は視線を逸らしたくなる衝動を必死に嚙み殺した。伝えなければならないことがある。心なしか縮まった気がする喉から、彼は無理やり息を吸い込んだ。三白眼に真っ直ぐな光を込めて、口を開く。

「あ……ありがと、な。その、色々」

 だが、言葉は徐々に尻すぼみになっていって。言いたいことの半分も言葉にできなくて、できる気がしなくて、それでも兆は佳代から視線を逸らさない。不思議そうに見つめ返してくる彼へと、兆は必死に言葉を紡ぐ。

「なんか……何もかも、佳代のおかげっていうか、佳代がいなかったら、俺、何もできなかった……それに、しつこく見舞いに来てくれてたのも……本当は、嬉しかった。なんつーか、その、感謝してる、よ……」

 筆を置くように言葉をせき止め、真っ直ぐに佳代を見つめる。彼はしばらく瞳を瞬かせながら兆を見つめていたが……ふと、黎明のように透明な笑顔を見せた。

「何を言うのだ、兆らしくもない。僕は僕が来たいから来てただけなのだ」

「……っ」

「でもそれはそれとして……そう言ってもらえるのは、やっぱり嬉しいのだっ!」

 地平線から昇る太陽のような、眩しい声。窓から差し込む夏の日差しに照らされた笑顔は、どんな星よりも宝石よりも輝いていて。心臓を太い針で貫かれるような、鋭い痛みが胸を打つ。だけど、その傷口から溶け出すのは、煮詰められた砂糖のような感情。佳代の笑顔から不思議と目を逸らせなくて、呼吸すらもままならないような気がして。徐々に甘く痺れてゆく思考に、兆はただ深々と息を吐き出すのだった。

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風紀委員佳代 東美桜 @Aspel-Girl

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