水底の夢

和泉眞弓

水面の上からこんにちは

 水面に顔をつけて眼を見開くと足が見える。細く青白く揺らぐ足は、地上のそれとはべつのものであり、足は天上にわたしの仮面を見上げるだろう。

 鈍行列車に揺られる。知らない駅と駅のあいだにある集落の小径と赤い屋根の遠景が見え、なぜか吸い込まれて視線をはずせなくなる。どの記憶にも似ていないのに、知っている。前世だと時代が合わないので夢で見たと考えるほうが妥当かもしれない。小径の小屋に視界がぐんぐん近づき、視野はより近くズームして、次の瞬間わたしは小屋の前で待ち合わせした誰かを待っており、はなから待ちぼうけだと知っている。緑を落とした初冬の枯木と知らない町の乾いた風に触れる。五秒ほどの間だったろうか。小径と小屋はゆっくり遠景に遠ざかり、わたしはまた列車の座席に座っている。

 特急待合せで十分じゅっぷん停車した駅の自販機でビールを買い、ぷしゅっと音をたてて車内で開ける。日常の重力をはなれ、羽ばたく準備をしていた頭はすぐ酔えた。トンネルに入ると眠気の網が快く全身をとらまえる。かつて帰郷のたびに同じ眠りにすいこまれていった。誰も住まないふるさとは水底でわたしを待つ。鐘の鳴る学校、夏はプール帰りの足をぶらぶらさせてアイスを食べながらブラウン管テレビで高校野球をみている。いつの記憶なのか、ほんとうはそんな事などなかったのかもしれない。わかりやすく色づいたものが、かるがると記憶を塗り替える。ふと俯瞰の画像なのを不思議に思う。夢の中で思い出したことが一度もない、頬をつねるというやつを唐突に思い出し、思い切りつねってみると痛みは鈍く、いよいよ夢であると胸を躍らせる。これ幸いと匂いをかいでみるが感じない。視覚はにわかに夢と信じられないほどの質感であり明晰だ。音に導かれて場面が変化する。飛んだのは午後一番の授業、先生の低くざらついた声が心地よく響き、乗り換え列車の案内をする。またわたしは列車の座席に座っている。

 つまらない。

 わたしは強引に微睡み、今度は意志を持って水底に深く潜る。気まずくひっこめる言葉。待ち人の来ない待ち合わせ。わたしだけばらされた秘密。青い記憶のかずかずは水底に埋もれて沈黙する。どれもよく知っている、けれどおぼえていない。過去は町ごとダムに沈んだ。それらにあいさつをして帰るつもりが、次の瞬間には心許なく待つ少女になってしまった。

 空から視線を感じるが見上げない。きっと仮面が浮いているのだろうと思う。

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水底の夢 和泉眞弓 @izumimayumi

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