第17話 あなたと共に

 それからも絹は現れなかった。

 保重は、もう内心では諦めがついていた。

 絹がいなくなってから、すでに1年と3か月が経過していたし、彼自身も妖怪退治の仕事をしないと生活していけなくなる。


 と、同時にこの頃から「妖怪退治」の仕事自体が減ってきていた。

 酒呑童子が倒された影響なのか、妖怪の数が明確に減ってきており、保重は副業として再び探偵業も再開していた。


 そして、世の中はさらに騒然となる。


 昭和十二年(1937年)7月9日。

 新聞が書き立てたのは、その2日前に中国大陸で起こった、出来事だった。

 7月7日。七夕の日に、当時は「支那しな」と呼ばれていた中国で、一大事件が起こる。


 中華民国北平(現在の北京)西南に「盧溝橋ろこうきょう」という橋があり、この日の夜、豊台ほうたいに駐屯していた、日本の支那駐屯軍が夜間演習中に実弾を撃ち込まれ、翌朝には日本軍は苑平県城を攻撃。9日には停戦に入るが。


 盧溝橋事件と言われた事件で、これが引き金で、いわゆる「日中戦争」に突入する。日本はもうのっぴきならないところまで来ており、ひたすら戦争に突き進むしかなくなっていた。


 「北支事変ほくしじへん」。当時、新聞ではそう呼ばれた。


 その新聞を読んで、もはや愕然とするしかない保重であった。

「ついに始まってしまったか、戦争が」


「でも、停戦したんでしょう?」

 小梅が脇から新聞を見て呟くが。


「いや、停戦は一時的なものだ。戦争は拡大する」

 保重はそう予想していた。


 そして、実際にこれがきっかけで、日本は中国との泥沼の戦争に突入。日本はその後、ドイツ、イタリアと同盟を結び、その戦争はアメリカとの太平洋戦争が始まる昭和十六年(1941年)以降も続けられ、敗戦する昭和二十年(1945年)まで、延々と続いて行くことになる。


 その頃から日本は、「戦時体制」に移行していくことになる。


 そんな不穏な情勢の中でも、珍しく妖怪退治の依頼が舞い込んだのは、7月半ばのことだった。


河童かっぱの化け物が出るんだ」

 依頼主は、茨城県の利根町から来た男だった。

 利根川流域に面する利根町加納というところに、最近、「河童」が出るという。


 しかもそれは、「女の」河童だったが、暴れ者で、生けの魚を盗んで食べたり、厩に繋いである馬を水中に引き込んだり、川で子供を引っぱったり、畑を荒らすという。


(妖怪というより、動物みたいだな)

 と思いながらも、保重は久しぶりに「妖怪退治」に出かけた。


 いつものように、小梅とお雪がお供をしていたが、その時、たまたま茶々もついて来ていた。河童とはいえ、女だし、動物みたいなものだろう、と保重は高をくくっていたからだ。


 だが、実際に行ってみると。


 利根川は大きな川だが、依頼主の家がある加納新田の加納家の近くの利根川は大きな川で、見張っていると、夜になってくだんの河童が現れた。


 体長が170センチ近くもある大きな河童で、その当時の大の男にも引けを取らないくらい大きかった。


 頭に皿を乗せ、長髪で、指の先には鋭い爪がついていた。


 保重は、すでにすっかり慣れていて、いつものように小梅とお雪に注意を引きつけてもらっている間に、五芒星を描き、九字を切った。


 相手が動物のような存在と知った保重は、力を加減していた。


 短い悲鳴の後、女河童の右肩に青白い光が当たり、女河童がうずくまった。と、思うと、突然それは土下座をしてきた。


「私は禰々子ねねこ。この薬を上げますので、どうか許して下さい」

 彼女は、右手に丸薬のような物を持って、それを差し出していた。


「なんだい、それは?」


「切り傷によく利く薬です」


 それを手に取って、まじまじと眺めながらも、

「へえ。もう悪さはしないんだよ。いいね」

 それだけを言って、保重は立ち去ろう背中を向けた。


「あ、ありがとうございます」

 女河童の禰々子はそう告げた後。


「もし、よろしければ、私もあなたのお仲間にお加え下さい」

 そう言ってきたため、保重は思わず、


「しょうがないな。いいよ」

 と、つい口走って、再度、女河童に向き合っていた。


「ありがとうございます」


 小梅とお雪がその様子を見て、溜め息をつく中、彼らの背後の闇の中からどこからともなく気配が現れ、そして声を発したのだった。


「相変わらず、甘い男じゃのう」

 その声を聴き間違える保重ではなかった。


「き、絹っ!」

 まるで、幽霊でも見ているかのような表情で、漆黒の闇を見つめる彼の目に、あまりにも懐かしい白狐の姿が映っていた。


 しかも、それは狐の姿のまま、傷がついていなかった。

「君は死んだはずでは?」

 さすがに、それしか声が出てこない保重は、未だにその存在を信じていなかった。これは夢か幻か、それとも幽霊か。その程度にしか認識していなかったが。


 狐の姿のまま、絹は、

「わらわがそう簡単に死ぬはずがなかろう?」

 そう告げてきたが。それでもなお、彼には信じられなかった。


 そのため、恐る恐る質問を重ねていた。

「でもあの時、酒呑童子の日本刀が当たって、君は血まみれになったじゃないか。大体、本当の絹なら、この一年以上も一体何をしていたんだ?」


 他の三人、そして禰々子が見守る中、絹はゆっくりと口を開く。

「療養じゃよ」


「療養? ふざけるな。その程度の傷じゃなかったはずだ。死んでもおかしくない傷だったはずだ」


 絹は、深い溜め息をつきながらも、言葉を継いでいく。

「ふう。疑り深い奴じゃのう。わらわは、並みの人間よりも強靭なんじゃ。ゆえにこの一年、温泉巡りをしておったのじゃ」


「はあ? 温泉巡り?」

 途端に拍子抜けして、別の意味で声が出なくなっている保重と、その仲間たちに対し、白狐は衝撃の事実を明らかにしていった。


「うむ。あの時、咄嗟に神足通で近くの温泉に飛び、それから少しずつ温泉で傷を癒していたのじゃ。あの辺りには、栄温泉、福知山温泉、岩滝温泉、城崎きのさき温泉、有馬温泉など、名湯が多いからのう」


「そ、それで一年以上も僕たちを騙していたのか……」

 そのことに、怒りすら覚えていた保重は、わなわなと右拳を握りしめ、絹を睨みつけていた。


「まあ、待て保重よ。わらわは遊んでおったわけではないぞ」


「何だと?」


「大体、おぬしら、不思議に思わなかったのか? 何故、酒呑童子ほどの妖怪が大江山から動かなかったのか?」


「そういえば……」

「不思議でありんすね。あちきたちが見張っていたから?」

 二人の妖怪たちが声を上げる中、絹は呆れたような顔で、呟いた。


「たわけ。見張っておるくらいで、何もせんはずなかろうが。あやつは『動かなかった』のではなく、『動けなかった』のじゃ。わらわはあの周辺の温泉を巡りながら、大江山を取り囲むように『結界』を張っていたのじゃ」


 思い出す保重。絹が上げた「栄温泉、福知山温泉、岩滝温泉、城崎きのさき温泉、有馬温泉」はいずれも、大江山の周辺にある温泉だ。

 確かに絹の能力からすれば、巨大な結界を張ることも不可能ではないかもしれない。


 つまり、話をまとめると、絹はあの4月での戦いの後、すぐに大江山周辺の温泉に入りながら、同時に大江山周辺に結界を張っていった、と。


 それどころか、賀茂喜助のことも初めから彼女が仕組んだことだということになる。


 だが。

 内心、彼は納得はいっていなかった。

「ふざけるな! だったらどうして、何も言ってくれないんだ? 僕がどれだけ心配したことか。もう君はとっくに死んだと思っていたよ」

 目を真っ赤にして、肩を怒らせていた。


 同時に、小梅とお雪も、口々に抗議の声を上げていた。

「そうだよ。大体、私たちが見張ってたの、無駄足ってことでしょ?」

「ほんざんす。何のためにあちきたちは……」


 一方、茶々だけはまるでこの展開を読んでいたかのように、笑顔のまま、

「やっぱり生きていたんだね、絹のお姉ちゃん」

 と、絹に対して、まるで娘が母親を見るように、慈しむような視線を投げていた。


 絹は、再び溜め息を突くと、奔放な彼女を思い起こさせるような態度で、

「わらわは、400年生きておる神に近い狐と言うたじゃろう? 神々の世界では半年や一年寝ることなんぞ珍しくもない」


 そういたずらっぽい笑顔で呟いた後、

「それに、『狐は人を化かす』ものじゃろ?」

 照れ笑いにも似た、人間臭い表情を狐の姿のまま、作っていた。


 見事に「狐に騙された」ことで、呆れて溜め息を突いている妖怪たちに対して、保重は決心したように、静かに口を開いた。


「絹。本当に君が絹なら人間の姿になってくれ。いや、君の前世が本当に『』の鶴なら」


 そう告げた途端、絹は白狐の姿から人間の少女の姿に変化し、そしてその瞳から大粒の涙を流していた。


「ま、まさかおぬし、前世の記憶が……」


 そんな絹に対し、保重はおもむろに近づいていき、そっと彼女の腰に手を回し、抱き寄せていた。

「ああ、戻ったよ。僕の前世は君の夫だった、山崎十郎太だ。ごめん。ずっと気づいてあげられなくて……」

 保重もまた目に涙を浮かべていた。


「う、うぁああ……」

 言葉にならない嗚咽おえつを上げながら、絹は保重にすがり着くように涙を流していた。


「前世では君を守れなかった。だから今度こそ君を守るよ……」


「保重……」


 もはや絹には、返すべきまともな言葉もなく、ただ幼い少女のように泣きじゃくっていた。

 保重は、そんな絹をいつまでも抱き締めていた。


 周りにいる妖怪たちも、この感動的な再会に、目頭を熱くしている中。


 ややあって、保重は落ち着いてきたため、体を離し、絹に向き合って、目を合わせる。

「でも、絹。一つだけ聞きたいことがある」


「なんじゃ?」


「君の本当の年齢はいくつなの? 寿命は? 人間との間に子供は作れるの?」


 そんな保重の不意の質問に、彼女はいたずらをする子供のような笑顔を向けて、力強く言い放った。


「質問が三つもあるではないか。まあ、よい」


 そして、最高に可愛らしい、年頃の女性のような笑顔を作って答えるのだった。

「そんなの『内緒』に決まっておる」


 それは、狐の『幻』だったのか。

 それとも『神』のいたずらだったのか。

 絹は本当にそこにいたのか。


 誰にもわからない。

 だが、昭和二十年(1945年)8月15日。

 長く、凄惨な戦争が終わったその日。


 若い男と子供の手を引いた若い女の姿が、東京都と名を変え、台東区と名を変えた根岸の焼け野原の中にいた、という。


 妖怪たちは、昭和という時代の中、次第に人々の前から姿を消していき、日本が高度経済成長期に入る頃。


 実際にもうどこにも「妖怪」の姿は見られなくなっていた。


 これは、まだギリギリ「妖怪」たちが存在していた時代の物語。


               (完)

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昭和妖怪奇譚 秋山如雪 @josetsu

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