第16話 甦る記憶
酒呑童子を見事に打ち倒し、東京の自宅に約1年ぶりくらいに戻った保重。
「うわー、寂しかったよぉ!」
泣きついてくる、幼い座敷童子の茶々を必死にあやしていたが。
戻ってきてからの保重は、まるで「魂の抜けた」ような状態だった。
いつもボーっとしていて、生気も覇気もなかった。
あれから、絹の消息は不明だが、あれから1年近くも経っている。とっくに亡くなっていると誰もが思って疑わなかった。
実際、茶々に聞いても、絹は一度も姿を見せていないし、気配すら感じなかったという。
(君は、本当に死んでしまったのか、絹……)
その圧倒的に迫りくるような、「現実」を受け入れるしかないのだが。
それを未だに受け入れられずにいる保重だった。
そんな保重を一番心配したのは、命を助けられた妖怪、小梅とお雪、そして茶々だった。
元気がなく、最近は妖怪退治の仕事すら受け付けなくなっていた保重に対し、
「保重くん! そんな顔してちゃ、駄目! 私が面白いところに連れて行ってあげる!」
強引に彼の手を引っ張った。
「いいよ、別に……」
相変わらず、うじうじして、動こうとしない保重を、他の二匹の妖怪も、
「そうざんす。ずっと家の中にいては、駄目でありんす」
「そうだよ。あたしも行くから!」
そして、この「茶々」がついて来たことで、彼らは思わぬ「幸運」を目撃することになる。
渋々ながらも頷く保重。
小梅が連れて行った場所。それは、城東区(現在の江東区新砂一丁目)にある「
その日は、昭和十二年(1937年)5月1日。ここ洲崎球場で、とある歴史的大事件が起こる。
それは、「幸運」をもたらすという、座敷童子の茶々の力か、それともただの偶然か。
その日、その球場では、
「東京巨人軍(現在の読売ジャイアンツ)対大阪タイガース(現在の阪神タイガース)」
のプロ野球の試合が行われていた。
野球が好き、という小梅が行きたかった試合だった。
そして、ここで彼らは目撃することになる。
「な、なんだあの人。すごい……」
最初は、ただボーっと眺めていた保重の表情が変わった。
その視線はマウンドに立つ、背番号14の選手だけに注がれていた。
野球に興味がなく、ルールすらも正直わかっていなかった彼。
彼が見たのは、プロ野球創成期の伝説的ピッチャーだった。
脚をピンと高く上げた独特のフォームから繰り出される、すさまじく、浮き上がるような速球、そして上から下に鋭く曲がり落ちるカーブ。
その堂々としたピッチングで次々に大阪タイガースの選手を三振に取り、あるいは凡打に抑えていた。
「ふふーん。あれはね、
小梅が得意げに説明してくれた。
澤村栄治。大正六年(1917年)生まれでこの年、20歳の若者だった。
身長174センチ、体重71キロ。右投げ左打ち。京都商業(現在の京都学園高)でエースとして大活躍し、夏の中等学校優勝野球大会(現在の高校野球全国大会)に出場。1試合23奪三振を記録するなど、速球投手として才能を遺憾なく発揮。
京都商業中退後の昭和九年(1934年)11月、日米野球の全日本チームに参加。静岡県営草薙球場では、メジャーリーグ選抜相手に、8回5安打1失点と好投。ルー・ゲーリックにホームランを打たれて0-1で負けるが、圧倒的な実力差をものともしない、その快投に「スクールボーイ・サワムラ」と呼ばれる。
その後、「大日本東京野球倶楽部(現在の読売ジャイアンツ)に参加し、前年の昭和十一年(1936年)の秋に、プロ野球史上初のノーヒットノーランを達成。
そして、この年の春。当時は、春リーグと秋リーグに分かれていたが、24勝を上げ、防御率0.81でプロ野球初のMVPに選ばれることになる。
後、軍に招集され、度重なる軍隊生活による、手榴弾の投げすぎで肩を痛め、現役を引退した末に、太平洋戦争で亡くなってしまう。まさに「時代に殺された才能」だった。
「す、すごい。どんどん三振にしている。というよりも、まだ誰にも打たれていない」
あまりにも凄まじい投球に、保重の目はすっかり釘付けになっていた。
お雪は、
「すごいでありんすね。でも、あちきはあの
そう言って、指さした先には、バッターボックスに立つ、筋骨隆々の男がいた。
身長173センチ、体重75キロ。大阪タイガースのユニフォームを着て、凄まじい勢いでフルスイングしている彼の名は。
バッターとして非凡な才能を発揮するだけでなく、ピッチャーとしても優秀で、決め球は重いシュート(ナチュラルシュート)だったという。
この年、景浦は三塁手の4番打者として、春に打点王、秋に首位打者になっている。また、投手としても澤村に次ぐ防御率0.93だった。
彼もまた澤村同様に、後に軍に招集され、手榴弾の投げすぎで肩を痛めて、太平洋戦争で散ることになる。澤村と同じく「時代に殺された才能」だった。
「というか、小梅。あの曲がり方は何だ? 並の変化じゃないよ」
「あれはね。『
四人が見た、澤村の決め球のカーブ。当時は、「ドロップ」と言われており、澤村のドロップは、鋭く曲がり、速いスピードで落ちるカーブだったという。
バッターから見ると、まるで一度浮き上がってから落ちるように見えたといい、「懸河」つまり川の上流に例えられた。流れが急な川の上流から落ちることに例えられたという。
終わってみれば、澤村栄治は、一人のバッターにも打たれていなかった。四球によるランナーは出していたが、それ以外の全てのバッターを三振、凡打に抑えた。
9回裏の終了後、洲崎球場に集まった大勢の観客から歓声が上がる。
「いいぞ、澤村!」
「最高だ!」
そう。この日、プロ野球史上二度目のノーヒットノーランを、澤村栄治が達成していた。
試合は、4対0で東京巨人軍の勝利。午後2時8分に始まった試合は、わずか1時間2分後。午後4時には世紀の大記録を残して終了していた。澤村栄治は、奪三振11、与四死球3、二塁すら踏ませていなかった。
「うわぁ、すごいな、澤村!」
目を輝かせて、ナインに囲まれて笑顔を見せる、童顔の澤村を眺める小梅は興奮のあまり席を立ち上がっていた。
「ふふ。これも茶々の『幸運』のお陰だったりして」
と、お雪は茶々を見て、
「えっ。あたしのお陰?」
茶々は首を傾げていたが。
「いや。そんなはずはない。あれは本当の才能だよ。すごい物を見せてもらった……」
保重の表情は、少しだけ明るい物に戻っていた。
それを見て、微笑む小梅たち。
だが、一度は戻った保重の表情が、数日するとまたも暗く沈みだした。
(絹。君のいない世界がこんなにつまらないとは……)
そればかりを考えていた保重。
ついに、お雪までがしびれを切らしていた。
「もう、うじうじと。男らしくないでありんすね。気晴らしに旅行に行くでありんす!」
お雪は保重を誘い、強引に旅に連れ出す。
それに、再び小梅と茶々も同行した。
特急「燕」で再び大阪方面を目指す。
車窓を眺めながらも、保重の心の憂鬱さは晴れず、ぼんやりとした表情をただ流れ行く景色に漂わせていた。
ところが。
途中の岐阜県で、保重は、
「ここで降りたい」
と突然言ってきたので、三人は驚いていた。
「いやいや、ここ何もないよ、保重くん」
「そうでありんす。どうせなら京都観光でもするつもりでしたのに」
「おなか空いたー」
三者三様の文句が出る中、保重は無理矢理、汽車を降りてしまう。
しかも向かった先は、高山本線だった。
まるで、何かに惹かれるように、彼はその中の一つの駅に向かっていた。
大正十年(1921年)に高山線(後に高山本線)が
この時代には、
一体この人はどこに向かおうとしているのか、と三人が思う中、彼の足は不思議と駅前で立ち止まった。
「保重くん?」
「ここに何かあるんでありんすか?」
二人が心配そうに覗き込む中、保重は呆然とした表情を浮かべて、駅前に広がる草原と民家を注視していた。
そして。
「僕、なんだかここを知っているような気がする……」
それだけを口にして、再び歩き出していた。
不思議に思いながらも、三人が後をついて行くと。
保重は、駅からは離れた、畑の中に入り、何かに導かれるように歩いていたかと思うと、不意に足を止めた。
そこは、ただの畑と田んぼが広がる草原に過ぎなかった。
ところが、彼の頬を涙が伝っていた。
「どうしたの、保重くん?」
「大丈夫でありんすか?」
「どこか痛いの?」
三人に心配されながらも、保重は首をわずかに横に振り、とめどなく流れる涙を止めることがなかった。
はるか彼方、400年以上も前の、あの凄惨な殺戮劇が脳裏に刻まれていた。その前世の男の最期の瞬間、そして傍らにいて自害した女性のことを。
ややあってから、
「ここは……。そうか。山崎十郎太の死んだ場所……」
とだけ告げた。
奇しくもその地は、「加茂郡」と言った。
陰陽師としての不思議な力。同時に「賀茂家」に繋がる血筋、そしてここ「加茂」の地。
それらがもたらした、それは「奇跡」だった。
「山崎十郎太? 誰?」
「変な保重さん」
「ここ、何もないよー」
不思議がる三人に対し、保重の一言が三人を驚かせることになる。
「ここは、僕の前世だった人間が死んだところだ」
「えっ。前世? ということは前世の記憶が?」
最初に一番驚いていたのは、小梅だった。残りの二人も驚愕の表情を面上に張り付けて見守っている。
すると。
「ああ、間違いない。そして、その妻だった鶴が、絹の前世だ」
「ええーっ。それじゃあ、二人は前世での夫婦?」
小梅が衝撃のあまり、膝を崩して体勢を崩していた。
「ほんざんすか? 適当に言ってませんか、保重さん」
お雪は真っ先に疑いの目を向けている。
「前世って何?」
幼い茶々には、話がわからないようだった。
「いや、間違いない。僕は今、全てを思い出した」
甦る前世の記憶が、保重の心の中をまるで「川の流れ」のように緩やかにたゆたっていた。
前世の記憶というのは、ふとしたきっかけで戻ることがあるという。
その多くは「既視感」、いわゆる「デジャブ」を感じた場所に行ったり、夢で前世の記憶を見たり、瞑想をすることで呼び起こされるという。
保重には、すでに厳しい修行によって、ある意味で占い師にも似た「陰陽師」としての不思議な力が宿っており、その上で前世に深い因縁がある「賀茂」の血筋と「加茂」の地名が重なって、結果として前世の記憶が甦ったのだった。
それは、まさに「偶然が生んだ奇跡」だった。
「まさか、保重くんと絹が、前世で夫婦だったなんて……」
保重に、好意すら抱いていた小梅が落ち込んで、声を震わせている中。
「でも、その絹さんはもうこの世にいないでありんす。なんという悲劇」
お雪が、空を見上げながら物悲しそうに呟いていた。
一方、茶々は不思議なことを口にしていた。
「そうかなあ。あたしは、絹のお姉ちゃんは生きている気がするなあ」
普段から、茶々だけは、不思議と絹のことを「お姉ちゃん」と呼んでいた。
小梅をはじめ、お雪も400歳を越える絹のことを普段から「年寄り」扱いしていたが。
子供というのは「物事の本質」が見えるという。
前世の記憶が甦るのも、不思議と子供が多いという話もある。
だが、その茶々の言葉を聞いてもなお、保重の中では納得は行っていなかったし、とても信じられなかったのだが。
「そんなはずはないよ、茶々。絹は確かに死んだんだ」
自分に言い聞かせるようにそう呟いていた保重。
そして、絹はそれからも現れなかった。
時はさらに流れる。混沌の時代へと突き進むように。
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