第15話 妖怪の最後の時代
昭和十二年(1937年)2月。
小雪が降る中、彼らは再度、大江山に登っていた。もちろん、酒呑童子と対決するためである。
何故か、この半年以上も動かなかった酒呑童子だったが、山裾からはすでに妖気が漂っていて、ただならぬ気配を醸し出していた。
その鞄に、「式神」たちを呼ぶための「式札」を入れていた保重、傷が癒えて元気を取り戻した猫又の小梅、そして同じく雪女のお雪。
三人は、前回と同じように福知山経由で、南側から山に登った。裾から山頂に向かうに連れて、妖気が次第に濃くなっていくのが肌で感じるほどだった。
それはまるで、酒呑童子が力を貯めているようにすら感じられる保重であったが。
実際に山頂付近まで到達すると、まるで待ち構えていたかのように、酒呑童子が酒宴を開いて、前回と同じように多数の妖怪たちを従えていた。
「二人とも。他の妖怪たちを頼む。引きつけておいてくれ」
保重がそっと二人に声をかける。
「わかったわ」
「気をつけておくんなんし」
二匹の妖怪たちは、頷く。
「懲りずにまた来たのか、陰陽師の小僧」
酒呑童子が、赤ら顔を向けて、大仰に見えるほど大きな態度で、左手に持った杯に入っている酒を飲み干して、その杯を地面に叩きつけていた。
小梅とお雪が周りの妖怪を引きつけるように動く中、保重は、式札を取り出し、呪文を唱える。
赤鬼の前鬼と、青鬼の後鬼が現れる。
「主殿。戦術は?」
一応は、保重による「力」を認めた前鬼が問う。
「ああ。お前たち二人は奴を引きつけてくれ。その間に僕が九字を刻む」
「わかったわ」
後鬼も頷いて、二匹の鬼は、酒呑童子に対して、左右から挟み込むようにして、動いて注意を引きつける。
鬼と鬼、3匹による死闘が始まる。
前鬼は手に持った鉄の斧で攻撃し、後鬼はサポートするように、前鬼の力を増幅する呪文を唱える。
その間に、保重は地面に五芒星を描いて、九字を切った。
「「
久しぶりに唱える九字切りの術。
だが、その勢いは衰えておらず、確実に酒呑童子を捕らえていた。それも、二匹の鬼によって注意を引きつけられている、酒呑童子の背中に向けて。
ところが。
振り向きざまに、九字の術から放たれた青白い光を、右手に持った日本刀で、受け止めて、酒呑童子は弾き飛ばし、青白い光ははるか空の彼方に飛んでいった。
「なにっ」
驚く保重に。
「馬鹿め。九字の術は俺には利かん!」
酒呑童子の日本刀の一撃が、保重を襲い、彼の体は頭から斬られたかのように見えた。
「保重くん!」
「保重さん!」
「主殿!」
仲間たちの悲鳴の声が上がるが。
そこには保重の姿はなかった。
斬られたのは地面だけで、保重は一瞬の間に攻撃をかわして、森の中に逃げ込んでいた。
「おのれ、すばやい奴め!」
わがままな師匠、賀茂喜助によって、心身共に鍛えられていた保重は、いつの間にか精神力も妖力も、そして体力もついていた。すでに運動神経や動体視力まで上がっていたのだった。
逃げながら、次の戦術を考えていた。
(あいつは、意外と鋭いな)
まともな戦い方、正攻法では勝てない、と判断した。
(あれを使うか)
言わば奥の手を用意していた保重は、その呪文を詠唱する準備に入る。
森の中にまで追ってくる酒呑童子を、前鬼と後鬼が相手をして、足止めしていた。
今が好機と捕らえた彼は、森の中から出ると、地面に北斗七星の型を描きながら歩いて、歩きながら呪文を唱えた。
これは、陰陽道に伝わる秘術で、「
足で大地を踏みしめて呪文を唱え、千鳥足のように動きながら北斗七星型にジグザグに歩を刻んでいく。
元々は、古代中国の王、禹が治水のために中国全土を踏破した結果、足を引きずりながら歩くようになったという伝説にちなんでいる。
魔を祓い、地を沈め、福を招くと言われている。
その光景を初めて見る前鬼、後鬼、そして小梅やお雪にとっては、不思議な光景に映るのだった。
まるで酔っ払いのように、ふらふらしながら呪文を刻む彼を見て、皆一様に不安と
ところが。
「離れろ、二人とも!」
その保重の大声が合図になって、前鬼、後鬼が離れる。
瞬間、九字の術の青白い閃光を、はるかに上回る黄色くて、強烈な光が辺りを包んだ。
そして、その光が酒呑童子に向かう。
「くっ」
咄嗟に日本刀で防ぐ酒呑童子だったが。
それをも上回る勢いで、光は日本刀を根元から折って、鬼の王の体に脇腹から直撃し、背中に突き抜けていた。日本刀の折れた先の刃が地面に突き刺さる音が聞こえる。
だが、それでも酒呑童子は倒れず、必死に歯を食いしばって耐えていた。
すかさず、保重は、持っていた錫杖を取り出すと、今度は、
「前鬼、後鬼! 酒呑を抑えろ!」
叫ぶと同時に、二匹の鬼が両脇から酒呑童子を抑え込む。
「くそっ! 離せ!」
もがく酒呑童子だったが、すでに保重の禹歩の術をまともに食らって、本来の体力は失われていた。
そのまま、保重は再度、九字の術を唱える。
今度は、かわされることも防がれることもできず、酒呑童子の体の中心、
「ぐぉおおっ!」
と、地の底から這い出るような、不気味な悲鳴を残して、酒呑童子の巨体が傾き、地に伏した。
それを見た、他の妖怪たちは。
「酒呑童子様がやられた!」
一様に動揺し、それぞれ散り散りになって、あっけなく逃げて行った。
「勝ったでありんすか?」
「本当に酒呑童子を?」
驚きを隠せずに、戸惑いにも見える表情を浮かべて、酒呑童子を見下ろしている二匹の妖怪たちに対して、しかし保重は、
「気を抜くな、二人とも! まだ生きている」
そう言って、前鬼、後鬼に再び酒呑童子を左右から抑えるように命じる。
「くっ。貴様ら、何をするつもりだ?」
苦悶の表情に歪めながら、酒呑童子は保重を睨む。
「酒呑童子。もう妖怪の時代は終わりだ。これから先、人間はもっと文明を発達させ、自然を壊していくだろう。今が妖怪の最後の時代だ」
保重は、まるで絹のような悟ったような口調でそう告げると、懐から青く輝く
「何を言っている、貴様。人が自然を支配できるはずがない」
「いや、残念だが人間は欲張りだ。恐らく今から百年も経たずに、都市は今の数十倍も発展し、闇は消えて、自然は壊され、その上、この星自体が傷ついて、やがては壊れていく」
まるで、予言のように謎の言葉を発する保重を、小梅やお雪は、不思議そうに見つめていた。
「だから何だというのだ。人間がそこまで傲慢になるなら、いずれ天罰が下るだろう」
その酒呑童子の言葉に対し、保重はしかし怒ることも悲しむこともせずに、ただ、
「そうだろうな。僕もそう思うよ。人間は少々、成長しすぎたのかもしれない。戦争、飢餓、そして経済発展や自然破壊。いずれもが人間の傲慢が引き起こしたものだ。所詮、自然を支配などできないし、おこがましいだけだ」
淡々とそう言っていた。
「ならば、何故貴様は人間の味方をする? 人なぞ見捨ててしまえばよい」
酒呑童子の言葉が、保重の心を
保重の心には、不思議と未来の姿が薄っすらとだが見えていた。人が発展しすぎ、やがて地上を都市や人々が覆い尽くし、自然を破壊し、それによって地球が温暖化して、環境が変わっていく様まで。
それは、陰陽師として、真に覚醒した彼だけが体験できた、未来を見通す一種の「予知夢」のようなものだった。
「僕が見捨てたところで、何も変わらないさ。さらばだ、酒呑童子」
そう告げて、彼は勾玉に気を込めるように、呪文を詠唱した。
「やめろ!」
叫んで必死に抵抗する酒呑童子に対し、
「
とだけ唱えた保重。その勾玉からは、禍々しいほどの血のような赤い光が発せられて。
周りの者たちが、恐怖するほどの出来事が一瞬にして起こっていた。
赤い光は、酒呑童子の首を確実に捕らえ、その首から上を宙に舞わせていた。そのまま地面に落下した酒呑童子の顔が小梅とお雪の間くらいに落ちていた。それはもはやただの肉の塊であった。
同時に、首の上からは鮮血が飛び散っている。
「ひぃ!」
恐怖に顔を引きつらせている小梅の悲鳴と、
「……」
声にもならないお雪の、戦慄した表情が、保重には印象的に映った。
「やったか」
「お疲れ様です、主殿」
二匹の鬼は、至って冷静にその様子を眺めていた。
「何もここまでやらなくてもいいんじゃないの。ねえ、保重くん」
「ほんざんす。あちき、保重さんが怖くなったでありんす」
二匹の妖怪たちが、顔面蒼白になりながら口々にそう発する中、保重は、
「甘いね、二人とも。酒呑童子は鬼の大将だ。二度と蘇らないようにするには、これしかない」
そう言っていたが。
(この人、変わってしまった。優しい保重くんはどこに行ったの?)
(文字通り『鬼の首を取った』でありんすか。人の子にしては、妙に残酷な気がするでありんす)
二人、いや二匹の妖怪の心中は複雑だった。
式札に前鬼、後鬼を戻しながら、しかし保重の心は、別のことを漠然と考えていた。
(倒したけど、
すでにそれは叶わないと知りながらも、いつも保重を気遣ってくれた、白狐のことが忘れられずにいるのだった。
こうして、戦いは終わった。
だが、世の中は戦争に突き進むことになり、実際に百年も経たずに保重の予言通りになる。
増えすぎた人口とそれによって生まれる飢餓。環境は破壊され、地球温暖化が始まり、自然が人間に猛威を振るうことになるのは、この20世紀末から21世紀にかけてのことだった。
そして、「妖怪」たちも、太平洋戦争後、次第に人々の前から姿を現さなくなり、やがて存在自体が消えていくことになる。
保重の心には、ぽっかりと穴が空いたようになってしまっていた。
酒呑童子という目標を掲げて、この半年、いや一年近くも厳しい修行に取り組んできた彼にとって、目標を失い、支えてくれる存在である狐を失い、その心は深く沈んでいく。
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