被害者からの挑戦
小石原淳
被害者からの挑戦
まさかこんな奴がいるとは思わなかった。
いや、厳密に言うと“こんな奴”はもういない。
日曜日の夜十時。学園祭を乗り切った大学構内は静けさが行き渡っていた。雨のせいもあるのか、少なくとも各部の部室があるクラブ棟に人の気配は感じられない。僕だけが生きて、活動している。
片桐は死に際に、自身の血で文字を書いた。ダイイングメッセージというあれだ。
正確を期すと、片桐が書くところを見てはいない。僕が部室内に残しておいてはまずい痕跡(凶器とか不自然な指紋とか)のチェックを済ませ、ふと見るといつの間にか書いてあったのだ。もっと前に死んだと思っていたから、片桐がまだ動けたことにもびっくりしたが、それと同じくらい、ダイイングメッセージにも驚いた。瀕死の状態なのに助けを求めることなく、犯人の手掛かりを残そうとする人間が、推理小説の中だけでなく実世界にもいるとは、本当に意外だ。おかげでしばらくの間、呆然としてしまった。
思い返してみると、片桐佐太郎は変わったところのある奴だった。頭はいいのだが、意味のない悪戯をよく仕掛ける。悪戯好きの人間ならどこにでもいるだろう、でも片桐のそれは、多少危険なのだ。持ち主に知られない内にライターの火を目一杯大きくしたり、ブーブークッションと画鋲を併用したり、試験のとき友達の筆記用具を電気の流れるペンにすり替えたり、走ってる自転車のタイヤ目掛けてスケートボードを滑らせたり、自動車通学している友達に、アルコールをちょっぴり混ぜたジュースを渡したりと枚挙にいとまがない。今日も、カッターナイフの刃を細かく割り折って、何やら嬉々として準備をしていた。
それでもこいつに友人・知り合いが大勢いるのは、普段は愛想がよく、どことなく憎めないキャラだし、金離れがいいこともあるし、勉強の面では頼りになるというのもあった。
が、そういう友人をこの度殺したのは、度の過ぎた悪戯が理由だった。振り返るのも嫌な気分になるので詳細は省くが、要するにコンドームに穴を開けておくという、昔からある下品な悪戯だった。
おかげで僕は将来設計の変更を余儀なくされそうになったが、何とか踏みとどまれた。ただし、もうこのままにしてはおけない。片桐がそばにいれば、いずれ僕に災いをもたらすに違いない、もっと酷い形で。片桐を僕から遠ざけるだけでよしとしなかったのは、今までの小さな怒りや恨みの積み重ね故かもしれないし、思い知らせなければ気が済まないと感じたせいかもしれない。
話を戻す。
ダイイングメッセージを残すその行為に驚かされたが、それ以上に僕を混乱させたのは、ダイイングメッセージの内容である。「あおきたくや」と読めたのだ。
僕の名前は古尾翔と書いて、「ふるおしょう」と読む。あおきたくやでは断じてない。
無論、ダイイングメッセージの理屈は知っている。被害者が犯人の名前をそのまんま、ストレートに書いても、まだ現場にいる犯人によって消される恐れがあるから、死にかけの脳みそをフル活用して、変わったメッセージを捻り出す。犯人にはそれが犯人を指し示すとは分からないが、見る者が見れば分かるというやつ。
まあこれは推理小説でのお約束で、リアルに考えるならば、ダイイングメッセージの意味が分からない・自分(犯人)を指し示しているようには見えないからと言って、そのままにして現場を立ち去る犯人はいまい。メッセージを読めなくなるよう、破壊するのが取るべき道だ。
だが、現在僕に示されたダイイングメッセージ、あおきたくやは、壊すのにはためらいを覚える。何故なら、僕と片桐共通の知り合いに、青木拓也という男がいるからだ。同じ高校から進学した三人組の一人で、現在、部活は違うが、学部学科は同じであり、当然、選択している授業もよく被っている。
理由は不明だが片桐が青木を犯人だと思って死んだのなら、これを利用した方がいいのでは? そんな誘惑に駆られる。血文字の“筆跡”で個人識別が可能とは考えにくいが、少なくとも偽装工作ではなく、正真正銘、本人が書いた字なのだから、警察もダイイングメッセージを書いたのは被害者に間違いないと考えるのではないか。
だが……殺人犯が、名前を書かれるという明々白々なダイイングメッセージを見逃すとは、まずあり得ない。そんなあり得ない状況を不自然に思い、警察はやはりこの血文字は怪しいと判断するのが当然ではなかろうか。
それならば、真犯人である僕がこのダイイングメッセージを活かすには、消そうとした痕跡を残すのが一番か。しかし、全部消してしまっては元も子もない。床に絨毯でも敷いてあれば話は別だが、部室はセメント剥き出しの床である。何と書いてあったか、ぼんやりとでも想像できる程度に、雑に掠れさせるのがいい。
そこまで考えを進めると、実行した方がいいと思うようになっていた。短いとは言え思考に時間を掛けたのだから、実行しなくては勿体ないという気分か。僕は死体の観察をやめて腰を上げると、室内をざっと見た。テーブルなどを拭くための乾いた布が目にとまる。これを使って、血文字を掠れさせよう。
布を手に取り、再び死体に近付いてしゃがんだところで、妙な物があるのに気が付いた。長さ五センチ足らずの鉛筆が、片桐の右手の先にあった。さっきまでは手のひらに隠れていたのだろうか。握りしめていた鉛筆が、絶命により手の力が抜け、転がり出た――ありそうなことだ。
僕は気にせずにダイイングメッセージの細工を始めようとした。しかし、寸前で手が止まる。最大の疑問が浮かんだ。
片桐の奴、鉛筆を手にしていながら、ダイイングメッセージを血文字で書いたのは何故だ?
ダイイングメッセージは血文字が定番であるという思い込みか? だが、赤い血で書いたら目立って、犯人に気付かれやすいことぐらい、すぐに分かるだろう。ここの床ならば、鉛筆で書いた方が気付かれにくい。圧倒的な差がある。
考える内に、もしかしてと閃いた。片桐の右手の近くにあるダイイングメッセージに顔を近付け、目を凝らす。程なくして、そいつを見付けた。
血文字の中に溶け込むように、鉛筆による文字が確認できたのだ。つたない平仮名で、「ふるおしょう」と記してあった。
こいつ……。本来のメッセージを気付かれにくくするために、わざと血文字で上書きをしたのか! 思わず、死体の後頭部をはたきたくなった。もちろん自重したが、心理的なむかつきから色々と毒づいてしまった。
およそ三十秒後、口をつぐんだ僕は、自分の名前を消すことに取り掛かった。さっき手にした布で、まず血を拭う。意外にも血の部分は結構きれいに取れた。固まり始めていたおかげかもしれない。だが、染みは残っている。さらに鉛筆文字は消えていない。まったく薄くなってもいない。
唾でも付けて擦れば落ちるかもしれないが、殺人現場にDNAを残してどうする。そもそも、死体の血で汚れた箇所を、何度か唾を付けて擦るなんて気持ちが悪い。
僕はまた立ち上がると、テーブルの上に視線を走らせた。目的は筆入れ。片桐が出しっぱなしにしていた物。その中を探ると、消しゴムが出て来た。だいぶ使っており、丸くて飴玉サイズになっていたが、鉛筆の字を消す役には立つ。とは言え、部室にはこれ以外に消しゴムはない可能性が高く、無駄にできない。自ずと慎重になった。
僕は消しゴムを親指と人差し指とでしっかりと捉え、構えた。そして片桐の残した本当のダイイングメッセージを消そうと、力を込めた。
「!」
次の瞬間、指先に違和感が走り、続いて痛みを感じた。無意識に消しゴムを放り出し、親指と人差し指の指紋側を見る。
すっぱりと切れ、赤い血がじわじわ出始めていた。
床に落とした消しゴムを見付けるまで、片桐の悪戯だとは分からなかった。あいつは消しゴムの中に、折ったカッターナイフの刃を仕込んでいた。
殺人現場の床に、新鮮な僕の血が数滴したたり落ちていた。これを完全に消し去るのは難しい、いや、不可能か? しかも、片桐の血と混じった分もあるだろう。警察の捜査で検出されたら、言い逃れがきかない。複数の人の血が混じった場合、識別できるのか否か知らないが、できるとみておかねばなるまい。
「くそっ」
思わず叫んだ。片桐の策略にはめられた気がして、怒りとそれ以上の焦りが生じている。僕に襲われてからカッターを消しゴムに仕込んだはずはないのだが、あまりにも片桐にとって都合がよく、僕にとってまずい展開を迎えている。
――叫んだことで、多少はガス抜きの効果があったのか、早めに落ち着きを取り戻した。
計画は大幅に狂ったが、まだ諦めるには早い。充分にリカバリー可能。時間が乏しい中、ぱっと思い浮かんだ策は二つ。一つ目は、片桐の死体を運び出し、別の場所を殺人現場のように見せ掛ける。二つ目は、この現場そのものの証拠を消し去る、換言すれば火を放つ。準備なしにすぐ実行できる意味で、現実的なのは後者だ。最低限、床が燃えてくれればいい。それには燃焼剤の類が欲しい。部室にはファンヒータータイプの石油ストーブがある。今年はまだ使っていないが、そのタンクには灯油が残っている。灯油を床一面に流した上で、燃えやすい紙や乾いた木、プラスチック類なんかをうまく配置すれば、床の字は読めなくなるのではないか。焼け跡から検出するのも困難になるに違いない。
いやいや、確か灯油に直に火を着けても燃え上がりはしないんだっけ。だから、先に紙などに染み込ませて、それから着火する必要がある。少し手間が掛かるが、面倒臭がってなんていられない。
僕は部室にある古新聞やちり紙をかき集め、準備を急いだ。
* *
ボヤと呼ぶにはよく燃えたクラブ棟の一室で、見付かった遺体が殺されたものであることはすぐに明らかになった。
それから程なくして、最有力容疑者――恐らく犯人――の名前も浮かび上がった。
「何が見付かったって?」
「あ、こっちこっち。これです」
「被害者の手を示して、どうした? 何か書き残してくれてたってか」
「いやいや、周辺はご覧の通り、すすだらけでよく見えないし、かなりの部分が焦げちまってる。期待できないな。だが、ここをこうすると」
鑑識課員は、片桐佐太郎の固く握りしめられていた拳を開き、刑事に見せた。
「……『ふるおしょう』と書いてあるみたいだな。これ、何かの刃物で傷つけたのか?」
「今の時点では何も言えないが、必死に彫ったのは確かだろうよ」
片桐の左の手のひらは古尾翔の名前をしっかと守っていた。
終わり
被害者からの挑戦 小石原淳 @koIshiara-Jun
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