黒い靄

雨 杜和(あめ とわ)

黒い靄



 初夏の風が綿菓子のようにフワフワ漂っている。汗ばむ程でも、かといって長袖を着るほどでもない。すぐ先に夏の気配を感じる。

 そんな美しい日に……、森上亜矢子しんじょうあやこは憂鬱だった。


 今日は中学で学ぶ息子の授業参観日である。


 息子が通うのはカソリック系の男子校。その校門に入ろうとして全身に鳥肌が立った。


 校庭で遊ぶ子ども達のはなやいだ声にも神経が逆立つ。紺色のスーツで鎧のように身を固めた『お母さま方』の業務用笑みにも意識が乱れる。

 ひと言でいえば気が重い。


 息子は学校に溶け込めているか。

 馬鹿にされないか。

 不安で身体が強張っている。しかし、それを夫には相談できない。中学受験は、もっぱら彼女の希望だったからだ。


 ともかく、この有名中高一貫校に『ご縁を頂いた』のは、医学博士として名高い夫のお陰だと思ってはいる。


 しかし、夫は、「ああいう子なのだ。普通を期待することはできないのだよ」と、冷たい言葉で壁をつくる。実際には労りも多いのだが、亜矢子の胸に響くのは否定的な言動しかない。そこに本音があると思うからだ。


 夫は息子に愛情が薄い……、と思う。


 彼女にとって息子は半身だ。イジメにあえば自身が傷つくし、疎外されれば周囲の子どもや親に怒りを覚える。

 その心情を理性で説明することは難しい。


 学校説明会で神父が、母の愛は獣のようなものと表現したが、まさにそうなのだと思う。


『母親が子どもに対して獣的な愛情を持つことは悪いことではないのですよ』と、神父は言った。

 その真意はわからなかったが、それで良いのだと思った。


(そう、私には獣的な愛情がある)


 それは立派なことなのだ。亜矢子は自らを励まして、校庭に設置されたキリスト像を横目に通りすぎた。


 建物に入ると長い廊下の先に階段があり、一階上が息子の教室である。まだ、始業前だが、ほとんどの生徒は教室内で騒いでいた。


 ある気配がして足が止まる。


 教室に足を踏み入れようとして、嫌な気配を察知した。

 それは、廊下側から感じる。顔を右に向ければ知ることができる。しかし、肩が強張り、痙攣がはしり、振り返ることができない。


 それでも恐る恐る気配を感じる方向に顔を向けた。


 予想通り息子が立っていた。


 トイレ近くで、息子がポツンと一人きりで所在なげに立っている。

 彼が顔を上げ、その目と出合った。

 死んだような感情のない目。

 何をしているの、教室に入りなさい。そう言葉をかけようとした瞬間、横から声が聞こえた。


「あら、森上さま」


 天真爛漫な声は聞き覚えがある。

 とっさに笑顔を取り繕ったが、気分は最低だった。

 嫌な女に目をつけられた。この声は井ノ上健斗の母親だ。小学生のころから同級生で、間の悪いときに声をかけられたと思った。


 返事を逡巡しているうちに、亜矢子の視線を追った井ノ上に息子を発見された。なにも悪いことをしている訳ではない。


 悪くない。

 悪くない。

 悪くない。


 しかし、それでも何か言い繕う必要を感じる。


「あの子、今日は少し腹痛で」

「まあ、そうでしたの」

「ええ、いつもはああではございませんの。今日は……」


 語尾が薄れた。何がいつもではないのか説明できなかった。

 息子は一人でいる。それだけだ。

 周囲からは放課時間を楽しむ子ども達の声が聞こえる。息子は、その集団から外れ、ただ一人で立っている。


 なぜ、早く授業がはじまらないのか。

 針のムシロという言葉が浮かぶ……。彼女は針の上から逃げるために、痛みのない安全な場所を探した。


「息子さん、本当に綺麗なお顔をしているわ。成長すれば女の子にモテて困るわよ。お母さま、気がきじゃないわね」


 井ノ上は見当違いの褒め言葉を言っている。

 息子の顔は確かに綺麗だ。女子大のミスコン代表だった自分と似ている。しかし、男にしては繊細過ぎると思う。あの顔のせいで、息子はますます孤立している。


 顔も含めて普通とは違う。そこが問題なのだった。


「優秀なお子さんで羨ましいわ。ウチなんてもう本当に何もできなくて」


 優秀? だから何なのだ。

 ああいう子という夫の言葉がよみがえる。

 綺麗な顔だから余計にその表情のなさが目立つ。無関心で無感動で能面のような態度。今も亜矢子と目があって、何の反応もしない。まるでそこに何もないかのような表情だ。


(お母さんが来たの。わかるでしょ。笑うのは無理でも、せめて会釈くらい)


 言葉にならない言葉が脳裏を過り、亜矢子は無理に笑顔を作る。


「今日は気分が悪くて、本当に」

「まあ、急に暑くなりましたから、でも、よりにもよって授業参観の日に、どうぞお大事になさって」


 言葉の端に悪意を感じた。

 目つきや、言葉尻のすべてから、息子に対する嫌悪感が滲んでいると思う。


 息子の小学生時代を知っているからこそ、井ノ上は息子を嫌っている。


 彼女と同じ空気を吸うことは気まずくてしょうがない。

 早く授業が始まって欲しかったが、そういう時に限って時間が過ぎるのが無駄に遅い。一分が一時間に思える。始業ベルはいつ鳴るのか。焦る気持ちが更にいい訳を探す。


「お休みにすればよかったのですが、せっかくの授業参観日を息子は楽しみにしておりまして、少し無理をいたしました」


 言葉の途中で始業ベルが鳴った。思わず安堵の溜め息が漏れている。


 廊下や教室で騒いでいた子どもたちは、その音に舌打ちしたり笑ったりしながら、親たちがいるせいだろうか興奮気味に自分の机に向かった。


 息子は……。

 全身を黒いもやに渦まかれ、静かに佇んでいる。


 息子は……。

 俯いて廊下のリノリウムの床を見て、いったい何をしているのだろうか。


「教室に入りますか」と、井ノ上が聞いた。

「どうぞ、お先に」


 息子が薄く唇を曲げ、右足を軽くあげ、床に落ちた煙草の火を消すような仕草をした。美しい顔が歪んでいる。


 無意識に亜矢子は周囲をうかがった。誰も見ていないといいのだが。周囲を見回すと、井ノ上と目が合った。

 ぐっとナイフで鳩尾を刺されたような痛みを覚える。


「……」と、息子の名前を呼んだ。


 彼が顔をあげ、こちらに向かってくる。


「授業が始まるわ」と優しく呼びかけた。


 息子は空気のように横を通り過ぎていく。通り過ぎる瞬間、冷たい風が吹いた。


 亜矢子は後を追って教室に入ろうとした。しかし、追いたてられるように廊下を戻る自分を止められない。

 息子が立っていた場所。

 リノリウム床に傷がついたような黒い跡がある。近づいてみると、それは傷ではなく、何かが潰れていた。


 ゴクリと唾を飲んだ。


 慌ててバッグから白いハンカチを取り出し、その黒いモノを拾った。ハンカチに血と内臓の液が滲む。


 これは、あの黒い靄のしわざ。

 息子は何に取り憑かれているのだろうか?


 ……あの子を脅かすのは、全身にへばりつく黒い靄よ。


 ああ、誰か信じてほしい。

 あの子が悪いんじゃない。あの子に取り憑いたモノがいる。それは、誰にも知られてはいけないもので、亜矢子がひとり抱える重すぎる秘密なのだ。




  ー 完 ー



 ************


 この作品は、下記長編のスピンオフになります。


 本編は「後宮の悪魔 〜時空を遡るシリアルキラーを追う敏腕刑事が側室(👩)に堕ちた件〜」。

 異世界コメディミステリー作品として書いております。

 https://kakuyomu.jp/works/16817330653057581096


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