羽佐間乱子は許さない
灰島 風
本編
『羽佐間乱子は許さない』
がしゃん、と音がした。
何かが壊れた音だった。
日曜日の、深夜二時ごろのことだった。
ーーーーーーーーーーーーーーー
最初に見つけたのは一人の女子生徒のようだった。
彼女はいつも、部活動前に朝一番にやってきては、誰もいない教室で暫く過ごす。
彼女曰く、世界で一人きりになったような感覚に浸るのが好きらしい。
その朝も、彼女はいつもの通り、教室の真ん中辺りにある自分の席に座って、束の間のひとりぼっちを満喫する気でいたのだろう。
しかし、開けた教室の扉から目に飛び込んできたのは、ばらばらになったガラスの破片だった。
朝日が机の上の破片にきろきろと反射して、地味な茶褐色に不釣り合いな光を振りまいていた。
ーーーーーーーーーー
月曜日。
「正直に名乗り出なさい」
特徴的な禿頭をハンカチで拭いながら、担任教師が言った。
教室の窓ガラスが一枚割れており、そこには簡易的に段ボールが張り付けてある。
彼が言うには、犯行は外部の不審者でもなく、他のクラスの生徒でもなく、この二年A組の人間だということだった。
当然、何故なのか、という疑問が、怒りや好奇心と共に生徒たちから噴出した。
自分たちの中に犯人がいるのだと断言されているのだから、怒りもする。
年頃の高校生たちなのだから、誰が犯人かも気になる。
ざわざわと色々の声が教室中を埋め尽くしている中、たった一人だけ、退屈そうに外を眺めている生徒があった。
「先生の話はつまらんか。羽佐間」
美しく、しなやかな髪をもった彼女は、禿頭の教師に名前を呼びかけられて初めて、その琥珀色の瞳だけをそちらへ動かしてみせた。
はい、と短く答えて、彼女はちらと時計を見た。
「朝のホームルームの時間、もうすぐ終わりますよ。私たち、探偵なんかじゃありません」
教師相手に物怖じもせず、ぴしゃりと言い放った彼女には、憧憬と好奇と嫌悪の視線が集まっていた。
「先生が望まれるなら、今先生が仰ったこと、全てそらんじても良いですよ」
その顔立ちも所作も、他の生徒とは一線を画す彼女は、その抜群の容姿と学年一位の学力、そしてどんな相手でも切れ味を失わない言動で有名だった。
しかし随分余裕だな、羽佐間、と教師は続ける。
彼女の物言いは、やはり、長く教鞭をとってきた彼には耐えがたいようで、額にはわずかに青筋が浮かんでいる。
未熟な彼は、いっときの苛立ちに身を任せて、この場で言うべきではないことを言った。
「少なくとも、君が現場にいた証拠が見つかってるんだよ」
その日一番のどよめきが、起こった。
ーーーーーーーーーー
放課後。
羽佐間乱子は、生徒指導室に呼び出されていた。
そこには生徒指導部を兼任する体育教師と、常駐しているスクールカウンセラー、そして彼女の担任がいる。
浅黒い眉間に深い皺を刻みつけながら、腕組みをしてじっと一点を見つめている体育教師。
柔和な笑みを浮かべ、椅子に座って羽佐間乱子と相対しているのがスクールカウンセラー。
禿頭の担任教師は、肥りすぎで汗っかきなのか、相変わらずハンカチで汗を拭っている。
それぞれ毛色の違う大人たちが、この狭い空間で生徒を相手に一対三で向かうのは、中々の威圧感があった。
しかし、はじめに口火を切ったのは羽佐間乱子だった。
「先生たちにご足労いただいて申し訳ないのですけど、私、やっていません」
朝のときと変わらない、ぴしゃりとした口調。
その言葉に、眉をぴくりと動かしたのは後ろに控える男性教師二人。その前に陣取るカウンセラーの女性は笑みを崩さず、優しく彼女に語りかけた。
「わかった。まずは貴女のことを信じるわ。けれど、もっと信じさせてほしいの」
その言葉を受け、乱子は立っている教師たちをじろりと見た。
吸い込まれるような琥珀の瞳にねめつけられ、二人は我知らず、びくりとその身を強張らせる。
視線の意図を察したカウンセラーは、二人に退室を促した。
彼らは勿論拒んだが、大の大人が寄ってたかって一人の女子生徒を囲み上げ、あまつさえ犯人と決めつけて尋問しようとしている。これが教育委員会に知れたらどうなるか、などと脅して、半ば強引に部屋の外へと追いやった。
彼女は、この学校において羽佐間乱子が懐いている、唯一といっていい大人だ。
優しく、大らかな人柄と、真摯に生徒へ接する態度で、乱子以外にも慕っている生徒は大勢いる。
当然、鉄壁ともいえる乱子の心の牙城を崩すために同席を余儀なくされたのだが、彼女自身はこの事件における乱子の潔白を疑っておらず、何とかその嫌疑を晴らしてやりたい、という思いもあって、対話役を買って出たのである。
それで、と彼女は続ける。
「学校側の言い分としては、貴女のノートが現場に落ちていたから、という理由で犯人扱いしているようだけど……」
ここまで言って、
「体の良い厄介払い、なんてところでしょうか」
と、ごく軽い口調で乱子が言葉を継ぐ。
いくら学力が高かろうと、彼女の素行には大きな問題があった。
まず、学校に来るのは気が向いたときか、出席日数を稼ぐためだけ。
基本的に授業は聞いておらず、退屈そうに窓の外を眺めているか、寝ているか……ときには、急に立ってそのまま教室を後にすることもある。
おまけに、教師相手でも一歩も退かぬあの性格。
大人たちが彼女の扱いにほとほと困り果てるのも納得というところだった。
加えて、生徒にも教師にも、そんな彼女に好意的な者が少なからずいる。
何せこの破天荒ぶりにして、眉目秀麗、頭脳明晰、ミステリアスな才女である。
憧れや羨望の的になることは想像に難くない。
しかしその一方で、彼女を妬み、恨み、疎んでいる人間たちからすれば、看過できない目の上のこぶだろう。
そのため、この一件で彼女が更生すればよし。
更生せずともこの学校を去ってくれれば、これほどの才女を手放すのは確かに惜しいが、教師の大半にとっては平和な学校生活が手に入るのだから、悪く捉えても痛み分け。
『学園最高の才女にして問題児、戯れに窓硝子を割る』
杜撰な計画ではあるが、羽佐間乱子に対して中立の立場をとる者たちを引き込むには十分にセンセーショナルな出来事だった。
「私は勿論貴女の味方なんだけどね。正直、教師連中で貴女に好意的な人はあまり多くないわ」
わかっていますよ、せんせい、と返す羽佐間乱子の眼からは何の負の感情も窺えない。
むしろ、瞳にはちらちらと燃える光を、そして口もとには僅かな笑みすら覗かせている。
そんな彼女に、何をするつもりか、とカウンセラーが問えば、乱子はこう答えた。
「決まっています」
彼女は髪を耳にかけ、
「私をはめようとした人たち全員、うんと痛い目に遭ってもらうんですよ」
きゅ、っと両目を細めて、白い珠のような頬を歪め、微笑った。
羽佐間乱子のその仕草は、同性である彼女の心すら乱し、その背筋にぞくぞくとした電流を駆け巡らせる。
理性にひびが入るような心地だった。
彼女は我知らず自分の顔が熱をもつのを感じたが、それでも乱子から目を逸らせずにいた。
「ねえ、せんせい」
瞳の中の琥珀色が、夕日を受けて妖しく光っていた。
ーーーーーーーーーー
「彼女はどう出ますかねえ」
ひょろりと細長く、顔色の悪い痩せぎすの男が言った。
「どう出ます、って……教頭先生、何も僕たちは勝負をしているわけじゃないんですから」
禿頭が返す。
結局、生徒指導室を追い出されたまま会談を終えられてしまった担任と体育教師は、職員室の一角で、ある相手と密談をおこなっていた。
先ほど担任が教頭先生と呼んだ男だ。
禿頭の担任が蛙なら、体育教師はゴリラ、この男はかまきりといった風体である。
そんな異色の三人は、羽佐間乱子の『更生計画』について話し合っていた。
「いえいえ、彼女は賢しいですからね。すんなり更生するとも思えませんが、大人しくここを出ていくことも想像がつかない。逆に僕等を追い出してやろうだなんて考えていてもおかしくないですよ」
いくら何でもそんな大それたことは……とまで言って、乱子のことを三人の中で誰より見てきた担任は口をつぐみ、困ったように額を拭うばかりで、一方の体育教師も、腕組みをし、渋面のままおし黙っている。
「しかし、これで確実に羽佐間を追い詰められるんでしょうか」
「心配要りませんよ。嫌疑さえあれば、それで中立は傾くのですから。疑いがかかればこちらのものです」
蛙とゴリラはなおも不安げだ。
情けないことこの上ない、と内心呆れ返ったような表情を一瞬するが、すぐに教頭は目を細め、心配は要らない。僕の言う通りにやればきっと万事上手くいきますから。と口の端を吊り上げて笑っている。
そう、きっとうまくいきますよ。
ーーーーーーーーーー
翌日。
羽佐間乱子は例によって、朝から生徒指導室へ呼び出された。
今回はあのカウンセラーはいないようだ。
代わりに、あのかまきりのような教頭がいる。
「それで、何故あのようなことを?」
前回とは打って変わって、口火を切ったのは教師側だった。
いかにも人の好さそうな笑みを浮かべてはいるが、かまきりの顔に張り付いた笑顔は、些か不気味なものを感じさせる。
明確に乱子を犯人だと決めてかかる物言いに対し、彼女はこう答えた。
「私のノートが残っていたから、先生は私を犯人だと思っていらっしゃるんですよね」
すると、担任の蛙が口を挟む。
「そうだ。君の歴史のノートだ。ついこの間回収したばかりだからね。記憶にも新しいだろう」
何か含みのある、粘ついた厭らしい言い方だった。
彼はいかにも弁舌家といった調子でこう続ける。
「君のノートだがね。本来提出されるべきものではなかったんだよ」
口の端ににたりとした笑みを浮かべながら、彼はあのノートがいかなものかを語り始めた。
先ず、今回のノートの提出は学期末の成績評価において重要な地位を占めるものである。
中身はどうあれ未提出の場合、試験でいくら良い成績をとろうとも、出席日数がぎりぎりなのであれば落第は免れない。
今の羽佐間乱子にとっていかに重要なものなのかを鷹揚に語る彼の顔には、誇らしさすら見てとれる。
そして、現場から見つかったノート。
本来提出されるべきものではないとはどういうことか。
実に単純なことだが、あれは最後まで使い切られた古いノート、今回の要提出内容を満たさないものだという。
「つまり、君は誤って古いノートを提出してしまった。それがそのままチェックされれば落第……ま、本来、素行の悪くない生徒なら、後日謝罪の上で正規のノートを提出すれば減点程度で済むのだがね。君は"別格"だから」
別格という言葉を皮肉たっぷりに放った彼は、いよいよ乱子が窓ガラスを割った動機について説明を始める。
自らの進級を危ぶんだ彼女は、月曜日のノートの返却までに旧ノートと新ノートをすり替えなければならなかった。
それに成功すれば、万が一チェックがついていなかった場合でも、担任に責任をなすりつけ、期限内に提出はしたがチェック漏れがあったということにできる。
しかし、それに気づいたのは、土曜日の深夜、既に零時を回り、日曜日へと日が変わってしまった後のことだった。
部活動の顧問もしていない担任は日曜日に学校へ出てくることはない上、他の教師に頼もうにも、規律には厳しい校風だから特例は認められないだろう。
そうして焦った彼女は、今回のような蛮行を起こした……というのが彼の推理のようだ。
「随分と杜撰な推理ですね。それなら職員室の窓を直接割れば良いじゃないですか。それにセキュリティや当直の先生は? なぜ物音に気づかなかったんです?」
「深夜で校舎内は真っ暗な上、君は職員室などには縁遠い。一番構造の分かりやすい自分の教室から侵入を試みるのは不思議ではありませんよ。それに、あの日はセキュリティメンテナンスのために一時間ほど警報装置なんかが止まる時間があった」
かまきり教頭がすかさず答える。
随分としたり顔で話す人たちだな、と乱子は思った。
どうやら刑事ドラマの主人公を気取っているようだ。
彼らの芝居がかった口調が、尚更そう思わせた。
しかし嘘を言っているわけではなく、メンテナンスのことは数日前に周知されていた。
ご丁寧に藁半紙をひらひらと彼女に見せてくる。
その日、彼女は学校に来ていなかった。
「……先生方の言い分はわかりました。ただ、職員室には当然鍵がかかっていますよね。その鍵、私はどうやって手に入れたんでしょうか」
乱子が次の疑問を口にすると、かまきり教頭はゴリラの体育教師へ目配せをした。
すると彼は、後ろ手にもっていたひとつの鞄を教頭へと差し出す。
乱子の鞄だ。
「中を改めさせてもらいますよ。自分の身の潔白を信じるのであれば、問題ありませんよね」
「……勿論です」
彼はいやに丁寧な手つきで、一つずつ彼女の持ち物を取り出す。教科書は一冊もなく、ノートに筆記用具、小ぶりなポーチなど、学生にしては些か物が足らなすぎるきらいもあったが、一人の少女の鞄としては、別段おかしなものは入っていなかった。
しかし。
ちゃり。
そう音が鳴って、かまきりの顔がぐにゃりと歪んだ。
「おや?」
おやおやおや……と、下卑た笑みと共に彼が取り出したのは、一本の鍵だった。
何の鍵かとわざとらしく聞く彼に、乱子は知りません、と答えるばかりだった。
その後、わざわざ職員室まで全員で行き、その鍵が職員室の鍵の複製であることを確認した。
乱子を除く彼らは、いかにも誇らしげな顔をして、見せしめに罪人を連れて回るようにして道中を歩いていた。
彼らに囲まれて道行く彼女に、さまざまな視線が突き刺さる。
憐憫、好奇、爽快、不快……
彼女は始終無表情のままで、何を考えているかよくわからない。
鼻筋の通った美しい横顔が、学生たちの目の前をかすめていった。
生徒指導室。
戻ってきた彼らは、再び席につく。
「さあ、もう観念し給え。器物損壊、不法侵入、その他諸々、咎められるべきことは沢山あるだろうが、学校側としても、君を失うのは痛手だ。態度をすっかり改めると言うのであれば退学とまでは……」
勝利を確信し、ぱんぱんに膨れ上がった頬を吊り上げて、禿頭の担任がとどめとばかりに最後通牒を出す。
他の二人も、すっかり勝ち誇った顔をして乱子を見下ろしている。
「一度、考えさせていただいても良いでしょうか」
下を向いたまま、彼女はそう言った。
三人は顔を見合わせた後、掌を返したように口々に優しい言葉を吐く。
大丈夫だ。先生たちが何とかしてあげよう。
最初から分かっていたよ。君も色々と大変なんだろう。
この年頃の女の子は誰しもこういう時期がくる。僕たちがきっと力になるよ。
いつのまにか、太陽が真上に登っていた。
ーーーーーーーー
その日の放課後。
珍しく早退しなかった乱子は帰り支度をしているが、声をかける者は誰もいない。
近寄りがたい雰囲気こそあるが、彼女は全くの孤独というわけではない。平時であれば幾人か話しかける者もいるが、今回ばかりは事情が違った。
落ち込んでいるのであれば慰めることもできるだろう。怒っているのであれば共に怒ることもできるだろう。しかし、彼女の今の感情を読み取れる者が、その場には誰一人としていないようだった。
教室の外では、ぱたぱたと部活に急ぐ生徒の走る音や、これから帰る者たちの喧騒が響いている。
カウンセリング室で暇潰そうよ、こないだ一人で行ってたじゃん、それより駅前の新しいカフェ行きたい、お金ないもん、今日カウンセラーさんお休みだって、じゃ奢ったげる、など、姦しく喋る生徒たちの間を縫って、乱子は足早に歩いていく。
ところが、教室から昇降口まで向かう彼女に、声をかける者が一人あった。
「羽佐間、ちょっと来なさい」
ゴリラの体育教師だ。
彼は生徒指導室まで彼女を先導すると、二人きりのままドアを閉めた。
少し、様子が変だ。
「……羽佐間、お前、ご両親がいないんだってな」
「うちの担任の先生から聞いたんですか」
頷いてから、殊更に心配そうな声音でこう続ける。
俺はな、お前のことを可哀想に思ってるんだ。今は保護者がおじいさまとおばあさまになっているようだが、参観日にも見たことがない。複雑な事情があるんだろうから詮索はしないが、お前さえ良ければ、俺が何でも力になってやる。
長い前置きや何やかやを省くと、大体このようなことを言っていた。
喋りながら、肩に手を這わせてくる。
声色は心配している風だが、その視線は下卑た熱を帯びて、彼女の肢体を舐め回す。
「本当ですか? 本当に何でも、私のためにやってくれるんですか?」
「勿論だ。しかし、俺にも立場というものがある。ことによっては進退をかけるわけだから……な?」
わかるだろう、と、言外に続く言葉を匂わせる。
「それは、一種の援助交際、でしょうか」
乱子がそう言うと、彼は人聞きの悪いことを言うな、と狼狽する。
そういうことではなく、場合によっては自分の人生を懸けて救うのだから、さすがにただでとは言えない。その方法は任せる。と、しきりに明言を避けているようだ。
「ごめんなさい、先生。私、こういうことには疎くて……しっかりと言っていただけた方が、先生の望むことを、やってあげられる気がするんです」
澄んだ琥珀の目が彼を射抜く。
一瞬の逡巡の後。
彼は、その言葉を、自らの望みを口にした。
それを聞くと彼女は、先ほどまでの無垢な少女の面影などすっかり消え去った表情で、口を薄く開いて微笑った。
「わかりました、先生。けれど、色々と準備がありますから、また後日……それまで、楽しみに待っていてくれますか?」
思考の全てを彼女に捧げたくなるほどの、甘い声音に、妖しい微笑だった。
彼はふたつ返事で了解し、時計を確認すると、部活の時間だと焦りながらも喜び勇んで部屋を出て行く。
一人取り残された彼女は、しばらく時間を置いた後、今は殆ど使われていない掃除用具入れに向かって声をかけた。
「せんせい」
ぎぃ、と軋んだ音を立てて扉が開く。
そこには、スクールカウンセラーの女性が、携帯電話を手に、青ざめた表情で佇んでいた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
彼は、非常に要領が悪かった。
うだつの上がらない、いち歴史教師。
主任の座を幾度となく後輩に奪われながらも、その場はプライドを抑えつけ、おべっかを使ってやり過ごす。
そんな日々に、一服の清涼剤と毒薬が同時に現れた。
羽佐間乱子。
彼のこれまでの人生では見たことのない美貌の持ち主だった。
いや、顔だけで言えば、同じくらいの人間は画面の向こうに見たことがあるかもしれない。
しかし、彼女のもつその雰囲気が、羽佐間乱子を唯一の美女たらしめていた。
彼女は、いつも退屈そうにどこかを見つめている。
陰のある美しさ。日向で笑顔を振りまく芸能人とは違う、日陰者のようでありながら、他とは一線を画す妖艶さ。
と思うと、たまに無垢な少女のように澄んだ目でこちらを見つめてくる。
人を狂わす琥珀色の瞳をもつ女。
そんな目の保養が、一方では劇薬だった。
とんでもない問題児。
担任となったときは小躍りするくらいに嬉しかったものだが、心労はつのるばかりだった。
そのうち彼の羨望や憧れは歪み、ねじくれ、彼女を憎くさえ思うようになっていった。
時は戻って、日曜日。
彼はいつものごとく禿頭を撫ぜながら、生徒に提出させたノートに判を押していた。
内容に関しては、正直精査などしていられないだろう。
最低限のチェックだけを済ませて、最後のページに判を押していく。
それでも、数クラス分、数十人分のノートを一日二日でチェックすることなど不可能だ。
お陰で彼は、土日を潰してこの単純作業に没頭する羽目になった。
休日と言えど、土曜の職員室は案外と騒がしく、あまりチェックが進まなかったようだが、今日は彼だけ。
ともかく今日のうちには済ませなければ、生徒教員両方からの評価が下がるだろう。
そんなことが積み重なれば、担任をもてなくなる可能性もある。
彼のなけなしのプライドだけが、彼の手を動かしているようだった。
作業も終わりに差し掛かったとき、夕日の射す職員室に、用務員の男性が入ってきた。
こんな日曜日にまでノートのチェックとは、教師の鑑だ、などと言われるが、彼には皮肉にしか聞こえていないだろう。
傍目にも苛立ちを抑えている様子で軽く世間話をしていると、どうも彼が担任をしている教室の窓が一枚割れたらしい。そのとき運悪く現場を通りかかってしまったのだが、一番最初にそれを見つけた女の子から、それの補修を任されてしまったという。
すっかり老け込んだ彼から見てもうんと歳上であろうその用務員の男性は、脚立が倒れようものならそのまま還らぬ人になってしまうのではないかと思うほどに頼りなかった。
いや、それでも自分には関係ないとばかりに視線を泳がせた彼の目に飛び込んできたのは、羽佐間乱子のノート。
彼女はいつもノートにナンバリングする。
これは二年生の一。つまり、古いノートだ。
彼の心の中で、今まで抑えつけていた醜い感情が首をもたげたようだった。
そうだ、これを使って懲らしめてやろう。
仮にも教師であるこの自分に、歳上の男であるこの自分に敬意を払わず、あまつさえ心底見下したような目で見てくる彼女に、大人の恐ろしさを思い知らせてやろう、と。
「私、代わりにやっておきましょうか」
「え? い、いいんですか?」
「ええ、気にされないでください。どうせ私はまだ暫く残りますから。……それで、どういう状況だったかも聞きたいので、その、一番最初に発見した女子生徒、誰か教えてもらえませんか」
用務員の男性の記憶は少し曖昧だったため、校内を駆けずり回って件の女子生徒を探した。
道中、教頭に会った。
これまでにも再三、教頭から彼女を何とかするよう言い渡されていた彼は、彼自身の『計画』を打ち明けた。
元々、出世の最大の障害として彼女を異常に敵視していた教頭は、『計画』への協力を快諾したようだった。
その後、事件の第一発見者である女子生徒との接触にも成功した彼は、彼女にこう提案した。
「君が今朝見た景色は、この割れた窓と、飛び散ったガラス片、そして……そこに落ちていたこのノートだ。いいね? 先生にも伝手がある。部費が増えれば、部員も皆喜ぶだろう?」
こうして、彼の『羽佐間乱子更生計画』が始まった。
計画を円滑に進めるためには、生徒指導部の人間も抱き込む必要があるだろう、という教頭の言で、担任と同じく羽佐間乱子に対して尋常ならざる感情を抱いていた体育教師にも声をかけ、この『更生計画』は進められた。
そして。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
水曜日。
校内のカウンセリング室。
「ふふ。よく撮れてますね。せんせい、カメラマンの才能あるんじゃないですか?」
羽佐間乱子は艶やかな微笑みを浮かべ、傍らの女性を見る。
「……ねえ、乱子ちゃん。本当にやるの?」
おずおずと女性が尋ねる。
羽佐間乱子は、これまでもよく彼女のいるカウンセリング室を訪れた。
他愛ない話をしたり、愚痴を言い合ったり、自分たちの今までの恋愛の話をしたり……逆に彼女の奔放な日々の過ごし方を聞いて、感心してしまったこともある。
普段は無表情で、どこか超然とした印象のある子だったけれど、二人きりのときは違った。
大口を開けて高笑いするわけではないが、良く笑う明るい子で、美人なだけではない、とても魅力的な女の子だと感じた。
しかし、今、彼女の眼の前にいるこの女の子は、そのどれとも違う。
同じ美しさでも、清廉なものではない。
どこか蠱惑的で、狂気すら孕んでいる美しさ。
一緒に、どこまでも壊れていきたいと思わせるような、危うい魅力。
「当たり前じゃないですか、せんせい。私、自分をはめようとした人たちを許してあげられるほど大人じゃないんです。こう見えて、すっごくわがままなんですよ?」
そう言って、乱子は彼女の首に腕を回す。
すらりとした長い手足が絡みつく。
彼女の心臓が跳ねる。
「さ……せんせい。行きましょう」
ーーーーーーーー
生徒指導室。
そこには、羽佐間乱子、スクールカウンセラー、教頭、担任、体育教師の五人が一堂に会していた。
散々大きな顔をしてきた乱子のしおらしい様子に気をよくしたのか、余裕たっぷりな表情で、かまきりが首をもたげる。
「さて。心は決まりましたか?羽佐間さん」
蛙は歪な笑顔を浮かべ、ゴリラは下卑た目をしている。
羽佐間乱子は俯いたままだ。
「はい。決まりました」
「では、聞かせてください」
はい、と短く答えて、ゆっくりと彼女は顔を上げる。
琥珀の瞳が、歓喜に歪んだ。
その顔を見て、三人の教員はたじろぐ。
時折、ほんの一瞬見せるあの妖しい微笑みを、ここまで直視したことはなかったからだ。
「まず、お礼を言わないと。ノート、チェックしてくれてありがとうございます」
「……え?」
蛙が素っ頓狂な声を出す。
彼女が取り出したのは、証拠品として教頭たちが有しているはずの、歴史のノートだった。
三人は怪訝な表情を見せた。
この局面で何故ノートの話題を蒸し返すのかということと、そもそもの言葉の意図が読み取れないからだ。
あ、このままでは分かりませんよね。ごめんなさい。と、彼女はノートを開き、その中腹辺りのページに押してある判を見せる。
それは確かに禿頭の担任がもつ判子の柄に相違なかった。
「どういうことだ!? あのとき見たのは確かに古いノートで」
「だめじゃないですか。単純作業だからって漫然とやっていては。折角教師の鑑だ、なんて言ってくださる方もいらっしゃるのに」
何をわけのわからないことを、と続けようとして、蛙ははたと何か気づいたようだった。
乱子を見る目が、少し怯えの混じったものに変わる。
「何で知ってる……?」
「何でも知っていますよ。私をはめたのも、手篭めにでもしてやろうと思ったんでしょう? それにしても……おかしいですね。先生のお話が本当なら、この新しいノートは私に返却されず、先生が持ったままのはずなのに」
蛙の顔が歪んでいく。
「全部聞きましたよ。あの子に。先生から口裏を合わせれば、部費を都合してやると言われたって」
「そんなこと……私にできるわけがないだろう。こんないち教師に過ぎない私に」
乱子は教頭の方を見る。
「できる協力者がいた、ということですよね。教頭先生。あの子、そこまでちゃんと話してくれましたよ」
「なんですって!? あなた……!」
かまきりは何かに弾かれたように蛙を睨みつける。
「い、いえ私は話してません!」
「それに、教頭先生。これ、何ですか?職員室、倉庫……あら、女子更衣室、なんてラベルもあるんですね」
乱子の取り出したものを見て、かまきりは顔を青くした。
「っし、知りません!そんなものは全く……」
それは後で調べてもらいましょう。これが一体どこの鍵なのか、ね。と、明らかに正規のものではない鍵の束を彼女はしまう。
「こんな馬鹿げた話で、貴女の嫌疑が晴れるとでも思っているんですか? 羽佐間さん、貴女はもっと賢い人だと思っていましたよ」
「疑いが少しでもかかれば、こちらのものですから」
何かに背筋を凍らせている教頭の次の言葉を待たず、せんせい、と呼びかけて、スクールカウンセラーを前に進ませる。
望外のことが立て続けに起き、先の余裕はどこへ行ったのやら、三人の表情に焦りが浮かびだした。
君が何故そちら側なんだ、とかまきりまでもが平静を失い始めたそのとき、カウンセラーの携帯電話から音声が流れ始めた。
あのとき、体育教師が乱子にもちかけた取引。
未成年に対するあからさまに不適切な交換条件。
誰の耳にも、彼の破滅の音が聞こえた。
「ふざっ……ふざけるな!」
激昂した体育教師が、彼女の携帯電話を奪い取ろうと掴みかかった。
悲鳴が響く。
周りの生徒や教員が騒ぎを聞きつけて集まってきた。
鍵のかかっている扉越しに大丈夫ですか、と叫んでいる。
と、その直後にけたたましい音が聞こえてきた。
いくつものサイレンの音だった。
人生が、終わる音。
乱子の胸ポケットにある携帯電話は、通話中になっている。
サイレンの音が、最も大きくなったところで止まった。
「本当に……本当にありがとうございます。助かりました。私たち、殺されるかと……」
携帯電話を耳に当て、いかにも哀れっぽい声音で、警察へ感謝を伝える羽佐間乱子。
その表情は、これまでにないほど悦楽に歪み、またなにものよりもおぞましく、妖しく、美しかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
現職の教師三名が『更生計画』などと銘打って一人の女子生徒を相手に退学寸前まで追い込み、あまつさえ乱暴を働こうとした。
このセンセーショナルなニュースは、ワイドショーと世間をしばらく賑わせたのち、これまでの幾多の事件と同様に、人々の記憶から段々と消えていった。
あの後、スクールカウンセラーを辞した彼女は、羽佐間乱子と駅前のカフェに来ていた。
あの事件以来、数ヶ月落ち着いて会話をしていなかった彼女たちだが、話し始めのぎこちなさはどこへいったのか、既にもとのように、互いに朗らかな笑みを浮かべながら話すことができていた。
当時はできたばかりで混雑していたカフェも、数ヶ月経って客足も落ち着き、雨が降っていることもあってか、ゆっくりと話すことができる場所になっている。
最初に切り出したのは、呼び出した張本人だった。
「乱子ちゃん、あのね」
なんですか、と素直に返してくれる乱子を見て彼女は、やはりあの三日ほどの出来事は夢か幻で、いま相対している、不器用ながらも可愛らしいこの子にあのような恐ろしい一面などなかったのではないかと思い始めた。
「あ、いや、やっぱり、何でもない」
彼女は笑って誤魔化した。
……あのとき、何より恐ろしかったのは、豹変した彼女そのものもそうだが、その危うい魅力に強く魅入られていた自分自身だった。
「知りたいこと、あるんですよね。教えてあげますよ」
ぞわりとした。
あのときの感覚。
事件の風化と共に、自分の中から消えつつあったあの感覚。
本当は、忘れたくなかった感覚。
暴れる心臓を抑えるのに必死だった彼女をよそに、羽佐間乱子は立ち上がった。
「せんせい、私の家に来ませんか?」
ーーーーーーーー
『もしもし、突然申し訳ありません。私、お孫さんが通っていらっしゃる高校でスクールカウンセラーをやっている者なのですが……』
『あら乱子の。孫がいつもお世話になっております』
存外、優しそうな声色だった。
乱子ちゃんの実家は大地主で、凡人とは規模の違うお金持ちらしいが、なるほど、気品のある声をしている。
『とんでもないです、こちらこそいつもお孫さんとは楽しくお話させていただいていて……ところで、今お孫さんは……乱子さんはご在宅ですか?』
『え? ふふ、こっちの家には遠慮しないでいつでも帰ってきていいって言ってあるんですけれどね。あの子、責任感や自立心が強いでしょう。どうしても一人で暮らしたいと言うものだから、微々たる仕送りだけしながら、好きにさせてあげてるんですよ』
『……え?』
乱子ちゃんは、学校に報告している情報とは違い、一人で暮らしているようだった。どころか、住所は家族でも知らないと言う。
『あの、先生? どうかなされましたか?』
『あ、いえ、ありがとうございます。乱子さんにも、よろしくお伝えください』
そう言って、彼女は電話を切った。
ーーーーーーーー
「せんせい?」
乱子の一言で彼女は我に返り、ごめん、と一言謝って、車を駐車場から出す。
「すみません、送ってもらっちゃって」
いいのよ、と彼女が返すと、しばらく沈黙が続く。
ナビの音声と雨音だけが車内に響き、時たまワイパーの駆動音がそこに花を添える。
横目で彼女をちらと見ると、無言で窓の外を見つめていた。
その口元には微笑みが浮かんでいる。
彼女は何だか、わくわくしているように見えた。
ーーーーー
「ありがとうございます、せんせい」
近くのコインパーキングに車を停め、雨の中を小走りしながら、羽佐間乱子が住んでいるというマンションに駆け込んだ。
綺麗なタワーマンションだ。とても一介の高校生が一人で住めるようなところではない。
「ほんとに……ここに一人で住んでるの?」
「はい。私のおばあちゃんとおじいちゃんから、毎月沢山の仕送りを貰っていますから」
彼女の祖母は微々たる額だと話していたが、やはりその辺りの金銭感覚が少しおかしいのかもしれない。
可愛い孫娘に自分の満足いく生活を送らせるには微々たるものだ、ということだろうか。
彼女はそんなことを考えながら、乱子と共に上へ向かうエレベーターに乗った。
微かな音を立てて、二人を乗せた箱が動く。
「せんせい、部屋に着いたらまずシャワー浴びてください。そんなに距離がなかったとはいえ、そのままだと風邪引いちゃいますから」
「え? でも、悪いわ」
私も濡れたし、ついでだと思って。服も洗濯して乾燥機にかければすぐに乾きますから、と乱子は続ける。
確かに、土砂降りではないにしろ、濡れたままというのは気持ちが悪い。
彼女はお言葉に甘えることにした。
階数を示すアナウンスが流れ、ドアが開く。
乱子の先導で、彼女の部屋まで招かれる。
元スクールカウンセラーとはいえ、生徒の家に行くなんて経験のなかった彼女は、新鮮さと少しばかりの緊張を感じていた。
乱子も嬉しいのか、こころなしかいつもより表情が明るい。
「さ、ぱぱっと入っちゃってください」
そう言って、バスルームに案内される。
中は掃除が行き届いていて、女子高生らしい可愛らしさというよりも、若さの中に気品のある香りがする。
同じ学校の子たちに比べれば、やはり良いものを使っているな、という印象だった。
彼女が上がると、丁寧に畳まれた部屋着が一着置いてあった。
生地は柔らかすぎず、硬すぎず、優しく肌を包み込んでくれる。
これも良いものだ。
背格好があまり変わらないだけあって、サイズも丁度いい。
礼を言いながらリビングへ向かうと、乱子は紅茶を準備していた。
「私も入ってきますから、せんせいはそれ飲んで待っててください」
美味しい。好みの味だ。
雨で冷えた身体にはありがたかった。
乱子がシャワーを浴びている間、彼女は部屋を見回す。
家具や調度品の色合いは壁紙やカーペットと揃えられ、全体的に落ち着いた印象でまとめられている。
しかし、その中に残る僅かな生活感が、完璧さの中にほんの少しの親しみやすさを感じさせる乱子の人柄を表しているようだった。
「やっぱり、学校では無理してるのかしら……」
かつて彼女がカウンセリング室の外で見た乱子の姿は、凛とした佇まいで、近寄りがたい雰囲気があった。
普段の学校生活であのように過ごしていては、確かに乱子にとっては、少し息苦しかったりするのかもしれない。
と、彼女が乱子について分析していたとき、扉がひとつだけ開いているのが目に留まった。
他の扉は全て閉められているのに、その扉だけが、まるで彼女を誘うようにぽっかりと口を開けている。
薄明かりの見えるそこは、乱子の寝室のようだった。
彼女は唾を飲んだ。
今まで見てきた羽佐間乱子の二面性。
寝室というプライベートな空間なら、あの時折見せる恐ろしいまでの魅力の真相が分かるかもしれない。
彼女はふらりと立ち上がった。
自分でも疑問に思うほど、勝手に足が向かっていく。
他人のプライベート……まして、元生徒の寝室を許可もなしに覗くなど、大人としてあってはいけないことだ。
それでも、彼女の足は、好奇心は止まらなかった。
彼女が乱子の寝室を覗くと、そこには……
「せんせい」
心臓が跳ね上がった。
「らっ、んこ、ちゃん。上がったのね。全然音しなかったから、先生びっくりしちゃった。あ、私もう先生じゃなかったね、あはは」
下手くそな誤魔化しが通じる相手ではないことは分かっていた。
「……ごめん、乱子ちゃん。扉が開いてたから、どうしても気になって……」
「だめです、許しません。……でも、怒ってませんよ。むしろ、後で見てもらおうと思ってたんです」
意外なほど軽く、にこりと微笑みながら乱子は言った。
少し呆気にとられている彼女をよそに、部屋に入り、電気をつける。
リビングと同じく、落ち着いた色合いのベッド、その傍らには間接照明があり、壁際には本棚が立っている。
少し大人っぽいが、何の変哲もない部屋だった。
……ただ一点を除けば。
部屋の一角には大きな机と椅子が置かれており、その壁には大小様々なモニターがいくつも並んでいる。
そしてそこには、学校の様子が映されていた。
「これ、って……」
「そう。学校ですよ。監視カメラなんて比較にならない高画質でしょう? ここで色んなところや角度に切り替えられて……あ、そうそう、スマホからも見れちゃうんですよ、これ」
そう言いながら乱子は、教室、職員室、生徒指導室、果ては屋上まで、色々な景色に切り替えていく。
「音だって、詳細な会話まで聞けちゃうんです」
差し出されたヘッドホンを彼女が着けると、部活動に打ち込む生徒たちの声や、教師たちの会話までもが聞こえてきた。
「乱子ちゃん、これって、犯罪よ。……もしかして、担任の先生の判子も」
震える声で彼女が呟く。
それを聞くと、琥珀の瞳が歪み、血色の良い唇が笑みをつくった。
「勿論そうですよ。盗撮や盗聴、判子の偽造が犯罪だってこともわかってます。でも……」
乱子は彼女にそっと耳打ちする。
「いけないことの方が、楽しいじゃありませんか」
鼓動が早まる。
頭の奥が痺れる。
絡めとられた指から体温が伝わってくる。
どうやってこれほどのカメラや盗聴器を仕掛けたのか?
何故こんな大それた犯罪行為が露見しないのか?
一体いつから彼女はこの学校の全てを把握していたのか?
脳裏に浮かぶ疑問は尽きないが、彼女の声がもたらす甘い痺れに全てが塗りつぶされる。
「せんせいが悩める生徒たちに何をしてたかだって、ぜぇんぶ知ってるんですから」
知られている。全てが。
支配される。全てを。
塗り潰される。羽佐間乱子に。
理性のひびが大きくなる。
「私、もう少しで落とせそうでした?」
「……途中までは、貴女もきっと、って思ってた。貴女を最後にしよう、って……でも、貴女はきっと、私じゃ……ううん、私以外の誰にも、落とせるような子じゃない」
だって貴女は、こんなにも可愛らしく、美しく、恐ろしく、おぞましく、魅力的なのだから。
「嬉しい」
乱子が彼女の頬に手を添える。
「大丈夫ですよ、せんせい。今度は私が、愛してあげますから」
がしゃん、と音がした。
何かが壊れた音だった。
日曜日の、午後二時ごろのことだった。
了
羽佐間乱子は許さない 灰島 風 @High-jima_Who
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