第35話 えがおのせかい

 世界が、揺らぐ。


 視界が歪み、体が傾いで、感覚が曖昧なものへと変質する。


 何が正しくて、何が間違っているかすら判別がつきそうにもなかった。


「それは……え? ……どういう、意味です、か……」


 夜見坂凪が存在しない。


 はっきりと、明確に断言した。


 間違いなどないと確信をもって暮井刑事は判断した。


 夜見坂凪という転校生は初めから存在しなかった、と。


「言葉通りの意味だよ。君のクラス名簿、隣のクラスから違う学年、果ては違う学校まで調べたし、あだ名の可能性を考えて学生や先生方に聞き込みまでして確かめた。その上での結論だよ」


 ――夜見坂凪という人間は存在しない。


「わ、私は確かに会いました! 『あはっ』っていう悪寒のする笑い方だって覚えてますし、居るだけで吐きそうになる陰湿な気配なんて今も感じてます!! それが……それが嘘なんてある、はず……」


 世界がおかしいはずで、自分がおかしいわけじゃない。


 間違っているのは夜見坂凪を見つけられなかった、暮井刑事だ。


 そう言い切りたかった。


 でも……。


「ごらん。これが君のクラス名簿だ」


 スマホに表示されたクラス名簿を差し出される。


「よ、夜見坂くんは転校生だから、一番下に……」


 クラスメイト達の名前を指でなぞっていき、一番下にまで到達する。


 そこには、湯川大陽の名前がしっかりと記載されていた。


 ――夜見坂凪という人間が、まるで始めから存在すらしていなかったように、空欄すら存在していない。


 湯川大陽の名前を最後に、黒く、太い線ではっきりと区切られ、その下は名簿のふちしか写っていなかった。


「もし、夜見坂凪という人物が居たとしても、五十音順に並んでいるから湯川大陽より下に来るはずだ」


「…………っ」


「名前が無いないだろう」


 否定したい、けれど確かに暮井刑事の方が正しいことを言っているのだと本能が囁く。


 あの時……教室で湯川大陽が激高した時、ハッキリと言っていた。


 34番の俺がいちばん最後になると。聴取をされることになると。


「居な……い? 夜見坂くんが?」


「そうだ。ほかにも君の話におかしい所はいくつかある。総合すれば――」


 ――夜見坂凪は存在しない。白山菊理の作った幻だ。


「俺の調査では、そう結論を出すしかなかった」


「でも……でも……」


 居るとしか思えない事がある。


 こんな風にクラスメイト達が殺し合いをするほど壊れてしまうなんて、それこそ誰かの意思が関わっているとしか思えなかった。


 その誰かは、殺人鬼の……はずだ。


「君は……クラスメイト達を恨んでいた、そうだね?」


「…………」


 それは、先ほど言ったのだから否定できない。


 するつもりもなかった。


 けれど、


「だから彼らが死んだ時、自分が生き残ってしまった時、自分こそが手を染めた事件の犯人だと、そう思い込もうとしたんじゃないかな。――罪の意識から逃れるために」


 無意識のうちに、下唇を噛んで自分で自分の言葉を封じてしまう。


「それ……は……」


 そんなはずはない。


 恨んでいたから、間違いなくこの手で殺した。


 否定する言葉が胸の内に浮かんでも、しかしそれらが形を得ることはなかった。


「事件に巻き込まれたのにもかかわらず、生き残ってしまった人は罪の意識を覚えることが多いそうだ」


「わたしが……私がそうだとでも言うんですか」


「分からない。でも――」


「なら――」


 言葉がふたつ重なって……でも絶対に勝ち目のないひとつの名前を出されて、どうしようもなかった。


 心臓を鷲掴みにされたような後悔が、苦痛が、襲って来た。


「君は罰して欲しいんだろう。海星君を目の前で死なせてしまったから」


 暮井刑事の顔も、苦渋に満ちている。


 あの会話の弾み方からしても、ふたりが気をおかないで良い仲であったことは間違いない。


 そんな相手を殺されたのだから、きっと昨日今日出会った人間よりも悲しみは深いだろう。


 それでも暮井刑事は冷静さを保っている。


 懸命に、真実だけを辿ろうとして、その上で白山菊理を助けようとしている。


「君が彼女の命を負う必要はない。いや、背負ってくれるのならむしろ救われなくちゃ駄目だ」


「す、く……?」


 なんて愚かな人だろう。


 なんて真っ直ぐな人だろう。


 愚直で、誠実で……。


「白山さんっ」


「違いますっ! 私が殺したんです、私がっ!!」


「それでも君に罪はないっ!!」


 暮井刑事は大声で何もかもを否定する。


 ただ、それは今まで接して来たいじめとは違う否定だ。


 誰かを傷つけるためではなく、自己保身の為でもない、他者を守るための否定だった。


「犯人が私だったとしてもですかっ!」


「もし君が本当はやっていたとしても、君は周囲の認識を違たがえてしまうほどの傷を負っている。だから君に必要なのは罪を償う事じゃない。先に、君の心を治すべきなんだ」


 そして……と続ける暮井刑事は、血を吐く様な顔をしている。


 心神喪失により無罪。


 警官にとって、ある意味屈辱とも言える理不尽な結末。


 それを、警官である暮井刑事自身が口にするのはどれほどの苦痛を伴うのだろう。


 そこまでしていじめられていた一人の少女を救いたい。


 彼は……いや、彼の部下である海星さんのためにも己の教示すらまげて、白山菊理という存在を守りたいのだ。


「そこまでになってしまっているとしたら、一番に罰されるべきは復讐鬼という怪物を生んでしまったシステムである学校。それからいじめという行為であるべきだ」


「――――っ!!」


「今ここに在る君は、白山菊理という世界から排斥され続けた娘こは、もういい加減に救済されるべきなんだよ」


 眼球が真っ赤に焼けた鉄に変わったのかと勘違いするほどの熱をもつ。


 必死に空気を取り込もうとしても、肺が呼吸を忘れてしまったかのように痙攣し、ひっひっという音が漏れ出ている。


 枷を外された涙は、顔面と手のひらを濡らし尽くしたところでまだ暴れ足りないらしかった。


「あ……」


 ここまで生せいを望まれているのに、体がまったく受け付けない。


 魂が命を拒絶する。


 だって、こんな風に他人から生きろと言われたことなんてなかったから。


「わた、わたし……が……」


「悪いのは、君じゃない」


「は……あっ……えぐっ」


「君を悪にはさせない」


 そっと、肩に手が添えられる。


 包み込むように優しく添えられた暮井刑事の手のひらは、大きくて温かくて、優しかった。


「幸いここは病院だ。今は安心して休みなさい」


「…………んくっ」


 まだ感情は高ぶっていたが、なんとかして心配させまいと笑顔を作ってみせる。


「お、女の子に気安く触ったら、海星みほしさんに怒られちゃうかも、です……ね」


「――っ! ……ああ、そうだな」


 優しい女性警察官から小言を食らう機会は永遠に失われてしまったと暮井刑事も分かっている。


 けれど彼はとびっきりの笑顔を浮かべて、同意してくれた。


「彼女への通報を思いとどまってくれると、俺は職を失わないですむよ」


「……はい、わかりましたっ」


「そのまま……いや、困ったことがあったら遠慮なくコールを押してくれ」


「はい」


 最後まで態度つよがりを崩さなかった暮井刑事は、しっかりとした足取りで病室を出て行ったのだった。


「…………」


 白い部屋に、また静寂が戻る。


 でも、先ほどまでの様な不安はない。


 ここに居てもいいと、肯定されたから。


 


 ――嬉しい。


 ――嬉しい。


 自然と頬が緩んでしまう。


 だから――


「あはっ」


 声を出して、わらった。

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私をいじめたクラスのみんながぐちゃぐちゃに壊されて殺されるまで 駆威命『かけい みこと』(元・駆逐ライフ @helpme

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