第34話 夜見坂凪はここに居ない
目を開けると、そこは白一色の世界だった。
シーツやベッド、備え付けられたテーブルに、床に壁やドアまで全ての物が真っ白に統一されている。
まるで、清廉で純粋なものだけしか存在することを許されていないような部屋だ。
血で汚れきってしまった自分は、存在することさえ相応しくないんじゃないか。
そう、思った。
「…………つっ!」
首筋がズキリと疼き、痛みが電流の様に頭の先まで駆け上ってくる。
咄嗟に手を痛んだ箇所へやると、指先が柔らかい布切れ――包帯に触れた。
「そっか……死ねなかったんだ」
幾重にも巻かれた包帯の下には凶器で刻まれた傷跡がある。
あれだけ出血したのだから致命傷にもなり得ただろうに、それでもこの体は生にしがみついてしまった。
よくよく思い通りにならない人生だ。
「まあ、仕方ないよね」
無意識に包帯を撫でていた手から力を抜くと、今度は手の甲になにか硬いものが当たった。
「ナースコールは白くないんだ」
この世界と外界を繋ぐ唯一の手段。
それをためらいもなく引き寄せて、押す。
小さなコール音が鳴り始め、数秒と経たないうちにドタドタと忙しい足音が近づいてきた。
「白山さんっ!」
熊の様に大柄で、いかつい顔の警察官――暮井くれい刑事が医師や看護師らしき人と共に部屋の中へとなだれ込んできた。
致命傷を受けて意識を失っていた人間が居る部屋からナースコールがあったのだから血相を変えるのも当然だろうけれど。
「無事かっ?」
無意識に、口の端が吊り上がるのを感じる。
首を刃物で切られ、輸血を必要とするほど出血し、今の今まで意識を失っていた人間が無事なはずはない。
無様にも心臓が動いているのは、単に運が悪・か・っ・た・だけ。
「……なんとか。少し、めまいがしますけど」
笑みから悪意を捨てて、目線を暮井刑事へと向けると、あからさまにホッとした様な表情で隣の医師と頷き合った。
「ひとまず検査をして体に異常がないかを確認しよう。話はそれからだ、いいかな?」
「異常……」
「どこかおかしなところがあるかい?」
あんなことがあったのだ。
頭……いや、心の方がおかしくなっているのだろう。
心配されていても、最初に話していたような暖かさは一切感じない。
むしろ、魂が抜けてしまったのかと思うくらい、なにも感じなかった。
「いえ、強いて言えば傷口が痛む程度です」
「分かった――お願いします」
暮井刑事が言うまでもなく、看護師たちは既に動き始めていた。
慣れた手つきで点滴を代え、脈拍や血圧などを計り出す。
それから数十分、一切の異常はないと医師が結論を下すまで、体をあれこれいじくり回されたのだった。
「患者が体力的に辛い様であれば、すぐに聴取を止めてください。一応……」
「ああはい、ありがとうございました。急ぎます」
暮井刑事がやや急かすようにして医師たちを追い出す。
先ほどまで専門用語が飛び交い、忙しなくかき回されていた空気が一転して静まり返った。
「白井さん」
「はい」
暮井刑事の目つきが、お節介なおじさんのものから厳しい警官の物へと変わる。
「事件が終わらないとはまだこれから人が死ぬのか? 殺人鬼とは?」
あれほど騒がしい状態であってもきちんと聞き取り、覚えていたのはさすが警察官と褒めるべきだろう。
そして殺人鬼という言葉を聞き取れていたということは――。
「夜見坂よみさか凪なぎを止めてくれとは、どういう意味だい?」
その名前も出て来て当然。
むしろ覚えていない方がおかしい。
なら、こちらも身の振り方を考えなければいけないだろう。
「信じてもらえるかは分かりませんが……」
覚悟を、決めなければならない。
白山しらやま菊理くくりが、夜見坂凪に殺される覚悟を。
殺人鬼の楽しみを邪魔するのだからそれぐらいの報いはある。
「警察官だからね。証拠が在ればどんな可能性だって信じるさ」
警察が夜見坂凪を止められるかどうかは……賭けになるだろう。
「私の罪についてもお話しすることになりますから、信じてもらえなくてもいずれ警察に出頭するつもりでした」
「そう……か……」
暮井刑事が渋面を浮かべて黙り込む。
ただこちらの話を聞く、その意思を固めたのだ。
さあ、ここからが――。
「まずは私、白山菊理と夜見坂凪が初めて出会った時からですけれど……」
長い、長い告発になる。
「つまり君は……人殺しに加担した。それが君の言う罪だね?」
「はい、おっしゃる通り私は人殺しです」
「…………」
暮井刑事が指摘する通り、白山菊理は人殺しだ。
複数の階段に罠を仕掛けるのに、上良栄治ひとりでは時間がかかり過ぎる。
誰か手伝いが必要だった。
だから私が仕掛けた。殺意を以って用意した。
多くの生徒が階段で転落して押しつぶされるか、ガスで死んでしまう仕掛けを。
「ざまみろって思いました」
彼らに相応しい罰だと思った。
「だってずっと私は見捨てられて来ましたから」
あの冷たい視線を忘れない。
差し伸べた手を、振り払われた感触を忘れない。
暗くて冷たい、針の筵よりなお痛いあの空気を忘れない。
「だからどうなったっていい……うぅん、むしろ進んで不幸になって欲しいと望みました。私があれほど痛い目にあったのだから、それを味わってみろって!」
一度決壊した感情は、もう止まらなかった。
「殴られたのは痛かった! せせら笑いは苦しかった! みんなから無視されるのは辛かった! 何回物を隠されたと思います!? 何回持ち物を汚されたと思います!?」
頬がべとべとに汚れ、視界は揺れて立っているのか座っているのかすら分からない。
世界の境目が融けていき、何もかもが白く濁っていく。
そんな中でも慣れきった痛みだけが喉の奥でずきりと疼き、この体がこの醜く辛い世界に存在すると分からせられる。
「そんな風にからかわれ続ける私を見て、誰も止めようとしなかった! むしろいい見世物だと楽しんですらいた!」
誰も白山菊理を助けてくれない。
白山菊理が救われることなんてない。
この世界は未来永劫、白山菊理にとって永遠に苦しみしか与えない世界。
だったらもう――。
「全部壊すしかないじゃないですか。私をずっと傷つけて、殺し続けてきた世界なんて、否定するしかないじゃないですかっ」
「……白山さん」
殺人鬼だけが唯一、白山菊理の救いだった。
全てを殺して壊して解体して更地にしてなかったことにしてくれる、夜見坂凪しか助けにならなかった。
「復讐したらいけないんですかっ? 私を傷つけるのは許されて、私が傷つけ返すのはいけないんですかっ!? なんでそんな理不尽が許されるんですかっ!! なんでなんでなんで――」
「白山さんっ!!」
「――――っ」
「白山さん、落ち着いて。ここは警察病院だ。滅多なことを言うものじゃない」
「…………」
取り調べ室でないとはいえ、警察病院の中で復讐するだのなんだのと物騒なことをわめけば人目を引いて当然だ。
今、警察官が病室に入ってこないのは目の前に居る刑事が何かしたからだろうか。
「ひとつずつ行こう。君は罠を張ったと言ったね」
「はい」
ため息をひとつついた暮井刑事は、ポケットからやや大きめのスマホを取り出して何事か操作をし始める。
何度かタップをした後、画面から視線をこちらに向けて口を開いた。
「シートから君の指紋は検出されなかった」
「――え?」
暮井刑事の言っている言葉の意味が一瞬分からず聞き返してしまう。
「それから、見つかった洗剤の容器からも用務員と上良栄治のものしか出て来なかった」
「つまり、それって……」
「そうだ。君が関わった証拠はない」
「――――っ!」
暮井刑事が断言した瞬間、つい頭に血がのぼる。
やったことを、感情を、存在すべてを否定されたような気がしたから。
「……私をしたことを、隠そうとしてくださっているんですか?」
「違う。証拠が無ければ警察は動けないと言っているだけだよ。だから、宮苗みやなえ瑠璃るりが所持していた紙幣から、君の指紋が出たことで君に対する恐喝については動いている。と、いっても被疑者死亡で不起訴になるだろうけどね」
「…………」
「まあだから――」
怒りの矛先をうまく逸らされてしまったようで、やり場のない感情が胸の内で渦巻く。
だけどそれ以上に、暮井刑事が口に乗せた言葉は……魂そのものを揺さぶった。
「夜見坂凪という転校生が存在しない以上、君の証言で警察は動けない」
「――――え?」
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