最終話
観覧車は十時からの運行だけど、三十分前の時点で百人ほどの行列ができていた。お母さんはあれほど、帰る、帰ると繰り返していたにも関わらず、黙って最後尾に並んだ。
風の弱い、最高の観覧車日和だ。薄い和紙をちぎって貼りつけたような雲が点々と浮かんでいた。
運行開始時刻が近づくにつれ、行列はどんどん長くなっていく。行列に並ぶ客を誘導したり、屋台でわたあめやたこ焼きを作ったり、スタッフたちは慌ただしく動き回っている。
風船をたくさん持った着ぐるみが手を滑らせたのか、カラフルな風船が一斉に青空に飛んでいった。驚きの声、あたたかい笑い声。子どもが空を指さして飛び跳ねる。
やがて風船が小さな点になって見えなくなったころ、お母さんは観覧車を見上げながら口を開いた。
「何でも最初と最後は大盛況なのよね。この観覧車がやってきた当初は、これよりすごい行列だったんだから。一時間待ちどころじゃなかったわ」
「それって、わたしが生まれる前のこと?」
「そうよ。航も生まれてないころ」
「お母さん、最初の行列にも並んだんだ」
お母さんは「口が滑った」と書いてある顔で、わたしを見下ろしてきた。しわの寄った眉間を指でかき、ため息をつく。
「お父さんとのはじめてのデートで、この観覧車に乗ったのよ」
それははじめて聞く話だった。お父さんとお母さんにとっても、観覧車は大切な場所だったんだろう。家族のはじまりの場所で終わらせたのも、ここが思い出深い場所だったからかもしれない。
「ふふふ」
つい笑い声を漏らしてしまい、お母さんに睨まれる。
午前十時。ついに観覧車が動き出した。行列からは、わっと声が上がった。拍手まで聞こえてくる。客の盛り上がりとは裏腹に、観覧車は平然と回っている。
行列は少しずつ進んでいく。ゴンドラは赤、オレンジ、黄色……と虹色の順に七台ずつ並んでいる。先頭の赤が三時の位置に来たころ、わたしたちはあと三組のところまで来ていた。
係員に誘導されて、乗り場の階段を昇ろうとしたときだった。
「ママ、ぼく青いのに乗れる? あと三個しかないよ」
後ろから、男の子の不安そうな声が聞こえてきた。振り返ると、まだ春先なのに短パンを履いた男の子が、若いお母さんの服の裾を引っ張っていた。
「たぶん紫になっちゃうけど、どっちでも中はいっしょだから。ね、我慢できる?」
お母さんがなだめるが、男の子は頬をふくらませ、身体を揺すっている。今にも泣きだしそうな男の子に、母親は困り果てている。
数えてみると、最後の青がわたしたちで、後ろの親子は紫の先頭になってしまう。わたしは階段から足を下ろし、列を外れた。
「あの……よかったら、前、どうぞ」
男の子のお母さんは、えっ、という顔でわたしを見ている。男の子はころっと表情を変え「いいのっ?」と食いつき、母親に「こらっ」と小声で諌められている。
「最後なんだし、せっかくなら笑顔で乗れた方がいいじゃないですか。ほら、順番来ちゃいますから、早く」
「本当にありがとうございます。……ほら、お礼は?」
「おねえちゃん、ありがと」
ふたりは駆け足で階段をのぼると、青いゴンドラに乗りこんだ。わたしたちも、隣の紫に乗りこむ。ガラス越しに男の子と目があう。手を振ってきたので応えてあげると、母親はまだ恐縮した感じでペコペコとお辞儀してきた。
「あんたも大人になったね」
「そりゃ、もう十六歳だし」
「かえでだって、昔はあの子と同じこと言ってたのよ」
「ええっ」
わたしは頭の引き出しを手当り次第開けて探ってみるが、そんな記憶は見当たらない。
「覚えてないの? 今すぐ乗れるのは緑なんだけど、かえではオレンジのがいいって言ってきかなくて、無意味に十分も待ってたこと。係員のお兄さんも苦笑いで、世間話が終わっちゃったあとの沈黙が気まずかったわよ」
「うわ、ぜんぜん覚えてない。たった今いいことした人に、過去の恥ずかしいこと知らせるのやめてよ」
お母さんは目を伏せるように静かに笑っている。
「懐かしいねぇ」
ゴンドラはゆっくりと、大きく揺れることもなく上昇し、観覧車のてっぺんに上りつめた。
国道沿いにひしめきあうチェーン店と、無駄に広い駐車場。南東の方角には新幹線の高架が定規で引いたようにまっすぐ架かっている。キラキラと光っているのは、駅前にたったひとつしかない高層ビルだ。
反対に北へと目を向けると、茶色の田んぼと濃い緑の常緑樹林が、遥か彼方の山際までつづいているように見える。途切れることのない稜線は、淡い陽光を受けて青っぽく輝いている。綺麗に晴れた空には飛行機雲が一本、長く伸びていた。
まるで、観覧車を中心に街が広がっているかのようだった。
「お母さん、ありがとう」
ぽつりとつぶやくと、お母さんはため息をつくように笑い声を漏らした。
「何に対しての『ありがとう』なんだか」
「まあ、いろんなことだよ」
ゴンドラはゆっくりと下降しはじめる。わたしは十年前、オレンジ色のゴンドラの窓に描かれた観覧車を思い出し、ガラスにそっと触れてみた。窓ガラスは思いがけず冷たかった。
飛行機雲が少しずつぼやけはじめていた。
観覧車を降りると、記念のポストカードを手渡された。観覧車まつりの絵画展で募集した絵の、最優秀作品らしい。淡い水彩で色付けされた、絵本の一ページのような絵だった。
「あれ、これ、もしかして……」
その構図には見覚えがあった。
真正面から描かれた観覧車。道沿いの街路樹も、遠くに見える新幹線の高架も、丁寧に描きこまれている。
そうだ。あの歩道橋から見える景色そのものだ。
その絵には、家族四人の後ろ姿が描かれていた。両端にお父さんとお母さん。その間に男の子と、それより小さな女の子。みんなで手を繋ぎ、観覧車を見上げている。
きっと、あの歩道橋にいた男の子が描いたものだ。彼にとっても、家族と観覧車は切っても切れないつながりがあるのかもしれない。
「かえで、よかったわね」
お母さんはポストカードの宛名の面を見てほほえみ、おもむろにそれを胸に当てた。裏返して見ると、小さな字で「『大切な思い出』武内航」と記してあった。
観覧車がなくなる日 桃本もも @momomomo1001
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