第6話

 土曜の午前中の国道は案外空いていた。二十分ほどで例の歩道橋をくぐり、ショッピングモールに到着した。だだっ広い駐車場に乗り入れる。

 なるべく観覧車に近い駐車スペースを探そうと目をこらしていると、お母さんは逆方向へと進みはじめた。


「え? お母さん、観覧車あっちだけど」

「先にガソリン入れたいから、スタンドに寄るの」

「寄るっていうか、遠回りじゃん」


 ふとメーターを見ると、給油ランプがつくどころか、ガソリンは半分も減っていない。わたしの視線に気づいたのか、お母さんは虫を追い払うように手をひらひらと振った。仕方なく背もたれに背中をつけ、首をひねった。


 ショッピングモールの駐車場の片隅にあるガソリンスタンドは、あまり繁盛しているようには見えなかった。今はセルフサービスのスタンドが主流になってきているが、ここは少々割高で手厚いサービスを提供する従来型のスタンドだ。財布の紐が固いお母さんが、命の危機でもないのにこのスタンドで給油するなんて、天変地異が起こりそうだ。


 店員の大きなジェスチャーに誘導されて、前進、停車。さらに、エンジンが切られる。駆け寄ってきた店員は帽子を取って一礼すると、注文を聞く前に「あっ」という顔をして固まってしまった。


「久しぶりね。もうここにはいないだろうと思って来たのに」


 店員さんは帽子をかぶり直すのも忘れて、困ったように頭をかいている。


「いやあ、そっちこそ。ここには来るはずないと思っていたのに。しかも、車もあのころのままだなんて」


 ふたりが長いこと会っていない友人同士のように話しはじめるので、わたしは困惑してしまった。

 そういえば、この店員さんには少し懐かしさを感じる。面長の顔。薄いくちびる。下がり気味の眉と、それに平行して目尻の下がった垂れ目。昔よりずいぶん痩せたようだけど、優しい雰囲気は変わらない。


「お父さん……?」


 お父さんは腰をかがめ、運転席越しにこちらをのぞきこんできた。目があうと、お父さんは泣きそうな笑い顔になった。それを隠すように、帽子を目深にかぶり直した。


「かえで、久しぶりだな。大きくなったなぁ」


 わたしは驚きを隠しきれず、すがりつくようにお母さんの横顔を見つめた。お母さんはくちびるを引き結んだまま、腕組みをしている。わたしの視線を感じたのか、左腕とわき腹の間で、右手をひらひらと振った。

 わたしは身を乗り出して、開いた窓越しにお父さんを見上げた。


「お父さん……ずっと会いたかった。お兄ちゃんにも。もっといっぱい四人で観覧車に乗りたかった」

「そうか……ごめんな。観覧車、今日で最後なんだよなぁ」


 お父さんは車の後方を見上げ、まぶしそうに目を細めた。つられて同じ方向に目を向けると、青空にそびえる観覧車が見えた。歩道橋の上から見るのと負けず劣らずの眺めだった。


「ここからずっと観覧車を見てたんだよ。観覧車ができていくところから、ずっと。今度はなくなっていくところを見なきゃいけない」


 お父さんは眉を下げて口もとのしわを深くした。スタンドのロゴマークが入ったキャップはつばの縁がほつれていて、お父さんの顔には輪郭のぼやけた影が落ちていた。


「お父さん、ずっとここで働いてたんだね。だから昔、よく観覧車の割引券をもらってたんだ」

「そうよ。あなた、割引券は? 給油はしないけど、元身内なんだからくれるでしょう」 


 お母さんは相変わらずのぶっきらぼうな口調だ。でも、これはお母さんなりの照れ隠しなのかもしれない。お父さんにはそれが何となく伝わっているのか、にこにことほほえんでいる。


「今日は無料だって聞いたよ。早く並んだ方がいい」


 お父さんは帽子を少し上げると仕事モードに切り替わり、この車を観覧車の方向へ誘導するように手を振りはじめた。


 何度も思い浮かべては懐かしんだ、四人で観覧車に乗った最後の日。はっきりと覚えていたはずの十年前のお父さんの顔は薄れ、再会したお父さんの顔に更新されていく。思い出の中のお兄ちゃんの顔までぼやけてきた。わたしとひとつ違い、今は高校二年生のお兄ちゃん。

 わたしの中で止まったままだったふたりの時間が、解凍されて一気に進んでいくようだった。わたしとお母さんが毎日生活していたように、お父さんとお兄ちゃんにも同じだけ日々は流れていたのだ。そんな当たり前のことに今さら気づいた。


 お母さんがエンジンをかける。くたびれた軽自動車は、咳込むような音を立てて震えはじめた。ゆっくりとスタンドを後にする。

 窓を全開にして後ろを見ると、お父さんは帽子を大きく振っていた。手を振り返すと、お父さんは何も持っていない方の手も振りはじめた。お父さんが見えなくなるまで、わたしは窓から身を乗り出していた。


「お母さん……ありがとう」


 運転する横顔を見つめると、お母さんは鬱陶しそうにわたしの眼差しを手で振り払った。


「いいから空いてるところを探しな。一周目で見つからなかったら帰るからね」

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