第5話

 卒業式やら終業式やらで、三月は毎年、慌ただしく過ぎていく。

 日差しは日に日に強くなり、枯れ草色だった街は少しずつ明るい光を纏いはじめる。何のにおいもなかった冬の風は止み、花の香りを含んだそよ風がどこからか吹いてくる。


 わたしは予定が空白のまま、観覧車まつりの当日を迎えていた。今日まで、何度かあの歩道橋まで出向いたが、絵を描いていた男の子を見かけることはなかった。

 ひとりで観覧車に乗る勇気も出せず、ゆっくりと回る観覧車を、焦りの混じった気持ちで見つめるだけだった。そろそろ取り壊しがはじまるっていうのに何のんびり回ってんだ、と観覧車に八つ当たりしたくなることもあった。


 土曜日の朝は、わたしもお母さんも起きるのが遅くなる。しかも、わたしはのんきな春休みだ。朝ごはんが十時過ぎになることもよくある。

 しかし、この日はめずらしくお母さんが起こしに来た。


「かえで。早く起きな。出かけるよ」

「……え? どこに?」


 お母さんは「いいから」としか言わない。ケータイの時計を見ると、まだ八時だった。何をするにしたって急ぐような時間じゃない。

 心なしか、お母さんはいつもよりしっかりと化粧をしているように見えた。口紅やアイシャドーの色が仕事のときより明るく華やかだし、普段はズボンのことが多いのにスカートを履いている。


 わたしはパジャマのまま、表面しか温まっていないトーストを食べた。お母さんは何だか落ち着かない様子で、テレビをつけているのにそれを見もせず、リビングをうろうろしている。


「ねえ、どこ行くの? こんな早くにさあ」


 お母さんはわたしの休みボケ具合に呆れるように眉を寄せた。


「だって、最後の日はさすがに混むだろうって、職場の人が言ってたから」

「え? 何が?」

「観覧車。どうせ行く人いなかったんでしょ?」


 わたしはぱちっとスイッチを入れられたかのように目が覚めた。


「いっしょに行ってくれるの?」

「あと十分で用意できるならね。行列ができてたら帰るから」


 わたしは食パンを牛乳で流しこみ、急いで部屋に戻った。十年ぶりに観覧車に乗る服装として最適なものを選ぶのはむずかしく、結局準備に二十分かかったけれど、お母さんは咎めなかった。


 古い軽自動車の助手席に乗りこむ。お母さんといっしょにショッピングモールに行くのも、思えば十年ぶりかもしれない。お母さんは離婚以来、あのショッピングモールには近づかないようになっていた。

 お母さんはシートベルトを締め、ルームミラーで髪を整えながらぼそっと言った。


「最後の日くらいいっしょに行かなかったら、あんたに一生恨まれそうだからね」

「一生なんて恨まないよ。諦めてひとりで行けなくもないし」


 そう言ってから、「じゃあひとりで行きな」と返されるかと焦ったが、お母さんは黙ったままだった。キーを差しこんだまま、なかなかエンジンをかけようとしない。

 わたしは無意味にシートベルトの締まり具合を確認したり座る位置を調整したりするが、間が持たない。サイドミラーに映る、アパートの錆びた外階段に視線を定めるが、やはり居心地が悪い。


「じゃあ」


 わ、やっぱりひとりで行けって言われる? 密かにくちびるを噛んだわたしに、お母さんはかさかさの声で尋ねてきた。


「かえでに……航にも何も言わずに離婚を決めたお母さんとお父さんのことは、恨んでないかい」


 わたしははっとして、運転席に顔を向けた。お母さんはうつむいて、くちびるを震わせていた。


 わたしが両親の離婚について言及しなかったのと同じく、お母さんもそれについて何も語ろうとしなかった。こんなふうに尋ねられたことなど一度もなかったし、これからもないんだろうと思っていた。

 当然、こんな質問にふさわしい答えを用意してあるわけもなく、わたしもしばらく黙りこんでしまう。今度はお母さんがルームミラーの位置を直したり、キーを触ったり、意味のない仕草をする番だった。


「恨んでなんかないよ。お父さんとお兄ちゃんがいなくなって寂しかったけど……お母さんがわたしのためにがんばってくれてるって、小さいときから分かってたし」


 顔が熱くなってきたのが分かった。人が乗りこんで車内が暖まってきたのか、フロントガラスが端から曇りはじめていた。結局描いてもらえなかったうさぎを思い浮かべようとするが、絵心のないわたしには上手くいかなかった。


「この前、また四人で観覧車に乗れたらいいのにって言ったけど、無理だってことは分かってた。ただ言ってみたかっただけなんだ。わがまま、たまには言ってもいいかなって」


 お母さんは少し笑って、わたしのひざをポンポンと叩いた。


「何が『たまには』よ。いっつもわがままばっかりでしょ」


 ぽろっと涙がこぼれた。それを皮切りに涙は次々に溢れ出し、頬はすぐにびしょ濡れになった。


「泣かないでよ。出かける前に目を腫らしてどうするの」


 お母さんはいつものぶっきらぼうな口調に戻っていた。わたしは頬に流れた涙はぐしぐしとこすり、まぶたの縁で耐えている涙は目の中に戻し、大丈夫、とうなずいた。

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