第4話

 お母さんに観覧車の話をした翌朝。

 お母さんは昨日のことなんかまったく気にしていないように見えた。喧嘩したときは、わたしから謝るまで白飯に納豆と海苔だけの超質素な朝ごはんになるのだけど、今日の朝ごはんは普通だった。昨日のことは喧嘩ではないということだ。

 わたしは一応、観覧車のことはひと言も口にせず、家を出た。


 その日の放課後、わたしは途中下車してショッピングモールへと向かった。

 どんどん日が長くなっていく時期だった。このあいだまで午後五時といえば真っ暗だったが、春の彼岸が近づいている今はまだ明るさが残っている。真冬のトゲトゲした北風ではなく、春の気配を感じさせる丸みのある風になっていた。


 乗降客の少ない無人駅から十分ほど歩くと、国道の向こうに大きな建物が見えてきた。観覧車が、熟れたほおずき色の夕日に照らされている。

 国道にかかる歩道橋の階段をのぼる。この歩道橋は、ショッピングモールができたのと同じ時期に作られたらしい。階段のコンクリートはひび割れ、手すりの塗装は剥げて錆だらけだが、補修される様子はない。その必要がないくらい利用されていないということだろう。


 でも、わたしはこの歩道橋がお気に入りだった。橋の真ん中から見える景色が好きなのだ。

 幅の狭い階段をちょこちょこと小股で上り切り、ふうーと息を吐こうとして……逆に飲みこんでしまった。


 人がいたからだ。

 しかも、ただ渡っている人ではない。わたしが目指していた橋のまんなかで、手すりに寄りかかるようにして佇んでいる。


 この歩道橋に人がいるなんでめずらしい。今までに、ここで人とすれ違うことは滅多になかった。

 景色を眺めている人なんてなおさらだ。


 十歩分離れたところにいるのは、わたしと同じ高校生くらいの男の子だった。どこの学校の制服だか分からないくらい丈の長いコートを纏い、顔を半分覆うようにマフラーを巻いている。

 春が近づいているこの時期には、大げさすぎる防寒着だ。頭の後ろで無造作に結んだマフラーが、下を走る車が起こす風でなびいている。右側から夕日に照らされて、彼の影はわたしの足もとまで伸びていた。


 彼は、わたしの存在に気づいていないらしい。遠慮なく足音を鳴らして来たのに、知らん顔だ。

 今さらながら存在感をなるべく消して、ショッピングモールの方へ目を向けた。

 何にも遮られることなく、真正面から観覧車が見えた。

 夕焼けのオレンジ色に染まった骨組み。ゴンドラのガラスも夕日を反射してキラキラと光っている。道沿いの街路樹は風でさらさらと揺れ、遠くには新幹線の高架がまっすぐに伸びている。


 はじめて見る人は、遊園地でも観光地でもないのに、なぜこんなところに観覧車が、と違和感を抱くだろう。だけど、わたしにとって……この街にとって、これは普通の景色なのだ。


 季節の変わり目に吹き荒れる山からの暴風のせいで、運休の多い観覧車。

 動いているときは「がんばってるな」と微笑ましい気持ちにさせてくれる観覧車。


 あと一ヶ月で、動かなくなってしまう。

 そして、半年後には……。


 手すりにひじをつき、小さくため息をつく。太陽は山際まで迫っていた。

 道路を走る車が途切れた。遠くでかすかにサイレンの音が鳴っている。国道の真上でこんなに静かになる瞬間があるんだな、と思ったとき、右側からシャッ、シャッ、とかすかな音がした。

 あまり顔を動かさないように目だけを向けると、男の子が絵を描いていたことに気づいた。スケッチブックを抱え、鉛筆を大胆に動かしている。ときおり手を止めては、鼻までマフラーに埋めたまま、上目遣いで景色を見上げる。またすぐ手もとに目を戻し、鉛筆の音を立てる。


 そういえば「思い出の観覧車」というテーマで絵画を募集し、観覧車まつりで展覧会を開催するとホームページに載っていた。絵心がないわたしには関係のない話だと思っていたけど、きっとこの人は観覧車を描いているに違いない。


 今日、友だちに観覧車に乗らないか、と誘ったら微妙な顔をされた。乗ったことがあるかないかも覚えていないというあの子だ。最後の記念に、と駄目押ししようかとも思ったけどやめておいた。もしいっしょに乗ってくれたとしてもテンションの差がつらくなることは、火を見るより明らかだった。

 昨日、お母さんに話したときもあんな感じだったし、わたしが特別視していただけだったのかなと思った。他のみんなは観覧車なんてどうでもいいと思っているんじゃないかとさえ思った。


 だけど、ここにもいた。

 観覧車を大事に思っている人が。


 夕日が山の向こうに沈み、街の灯りと車のライトが一層明るく輝き出した。道路は帰宅ラッシュで混みはじめ、風が冷たくなってきた。

 そろそろ帰ろうかな、と観覧車に背を向けようとした、そのとき。

 ぱっ、と夜空に音のない花火が上がった。

 いや、観覧車のライトが一斉に点灯したのだ。緑一色の、イルミネーションと言うのもためらってしまうような、見慣れたダサいライトアップ。


 国道沿いに列をなすチェーン店の看板と、詰まりがちな道路に点滅するテールランプ。そして、怪しい緑色で浮かび上がる観覧車。

 絵を描いていた男の子も、今は夜に溢れ出した光に目を奪われ、手を止めている。神戸の百万ドルの夜景に比べたらこの夜景は三ドルくらいのショボさだけど、田舎らしい微笑ましさがあって、これはこれで悪くない。すごく落ち着く景色だった。


 男の子に気づかれないうちに歩道橋を降り、駅へと向かう。春が近づいてきているからと油断していたけど、身体はすっかり冷え切っていた。

 風の吹きつける歩道橋の上では、彼の防寒は大げさじゃなかったのだ。

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