第3話

 観覧車に最後に乗ったのは十年前……わたしが六歳のころ。たしか幼稚園の年長組だった。クリスマスを目前に、街が華やぎはじめる時期だった。


「かえで、航、観覧車乗りに行こうか」


 お父さんはいつものように、わたしとお兄ちゃんの手を片方ずつ握って言った。


「うん! 行く行く!」


 わたしは観覧車が大好きだったから、大喜びで飛び跳ねた。


「また割引券もらったの?」


 小学一年生になっていた兄は妙に大人びたところがあり、目を細め口をとがらせて言った。

 そのころ、父はどうやらショッピングモール内で働いていたみたいだった。どんな店だったかの記憶はないが、よく観覧車の割引券をもらえたらしい。


「割引券があるから観覧車に乗るんじゃない。観覧車に乗りたいなと思っていたら、割引券がもらえたんだ」


 父の熱弁を、兄は「はいはい」と軽くあしらう。いつものことだった。何だかんだ言って、兄も観覧車が好きだったのだ。


 その日はよく晴れた土曜日とあって、観覧車はそれなりに賑わっていた。とはいえ行列ができるほどではなく、わたしたちは待たされることなく乗ることができた。オレンジ色のゴンドラは、わたしのお気に入りだった。

 わたしはお母さんの隣に、身体をくっつけるように座った。わたしの向かいには兄、その隣に父が腰かける。


「ゴンドラの中はちょっとあったかいね」


 外はマフラーと手袋がないと厳しい寒さだったけど、小さな密室に四人もひしめきあっていれば、すぐに暖かくなってくる。ガラスが結露して、冬の枯れ草色の景色はぼやけて見えた。

 ゆっくりと上昇するゴンドラの中で、兄はガラスに指を滑らせ、線を引きはじめた。指の通ったところだけ、外の景色がはっきりと見えるようになる。


「お兄ちゃん、何描いてるの?」

「まあ見てなって」


 兄は少しも迷うことなく線を引いていく。ゆがみのない綺麗な円、その内側に何本も直線を描き足していく。大きな円の周りに小さい円をくっつけはじめたところで、兄が何を描きたいのかわかった。


「観覧車だ」


 兄は得意げにうなずいた。のぞきこんだ父も「おぉ」と声を上げる。


「やっぱり航は絵が上手いな。俺には似ずに」

「まあね。かえで、何か描いてあげるよ」

「ほんと? じゃあ、うさぎがいい! ねえ、お母さんは何描いてもら……」


 お母さんを振り返った瞬間、膨らんだ風船のようにふわふわしていた気持ちが一気にしぼんでしまった。すがりつく気持ちで目を向けると、兄も手を止めて不安そうにまばたきをしていた。うさぎはまだ片耳しか描かれていない。

 お母さんは観覧車に乗っているとは思えない、固い表情をしていた。眉間には深いシワが寄り、真一文字に結んだくちびるは少し震えていた。握りしめた拳は意外なくらいに骨っぽい感じがした。


「……航。かえで」


 お母さんに呼ばれて、このとき以上にビクビクしたことはない。

 助けを求めるように父を見上げると、さっきまで笑っていたのが嘘のように、強ばったしかめっ面をしていた。


 しばらくゴンドラ内は沈黙に包まれた。

 動いているのか、いないのかわからないくらいゆっくりと、てっぺんに差しかかったころ。

 お母さんが重い口を開いた。


「ふたりとも、よく聞いて。お父さんとお母さんは、別々に暮らすことに決めたの。もう、四人でひとつの家族じゃなくなるの」


 お母さんの言葉はよくわからなかった。意味がわからない、難しい言葉があったわけじゃない。

 わたしたち家族が、運動会の閉会宣言みたいに「終わります」と言っただけで終わるようなものだとは思ってもいなかった。


 そのあとのことは、あまり覚えていない。家族が終わりになることが……しかも、昔話の「めでたしめでたし」がつくようなおしまいじゃないことが分かってしまったショックで、頭が回らなかった。

 わたしは何か尋ねられたら首を縦か横に振っていただけだったが、お母さんに引き取られることになった。そして、兄は父のもとで暮らすことを選んだ。


 それからは、四人での「最後」尽くしの日々を過ごすことになった。

 最後のクリスマス。

 最後の大晦日。お正月。

 雪遊び。お掃除。

 カレー。朝ごはん。


「家族終了宣言」の日以来、観覧車に乗ることはなかった。


 一月の下旬、わたしたち家族はふたつに分かれることになった。

 わたしとお母さんは、なるべく少なくした荷物と共に、小さなアパートに引っ越した。玄関での見送りのとき、父は何か言いたそうな顔をしながら、結局何も言わずに手を振るだけだった。


 わたしは武内かえでから、母の旧姓である梅津かえでになった。四月から使うランドセルに書かれた名前も見慣れないもので、わくわくしながら選んだオレンジ色のランドセルが誰か他の人にとられてしまったような気がした。

 そういえば、ランドセルは秋にはもう届いていたのに、お母さんはすぐに名前を書いてくれなかった。もしかしたら、そのころにはもう離婚を意識しはじめていたのかもしれない。両親ともに、そんな素振りは一度も見せなかったけど。


 それから、表向きは父と兄のことなどすっかり忘れたように振る舞っていた。だけど、思い出の観覧車がなくなると知って隠しきれなくなってしまったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る