序章

 ただ、転んだだけだ。それなのに、どうしようもないほどにひざが痛くてたまらなかった。

「ふぇっ……。うぅ……っ……。いたいよぉ……」

 膝には細い布が巻かれており、ほんの少し苦いにおいが鼻をかすめていく。をしたはるりようほどこしてくれたのは母だ。母は小春の膝に緑色の何かを薬だと言ってってくれた。

 ぽろぽろとなみだこぼす小春の頭を母はやさしくでてくれる。その手はとても温かくて、れられるたびに、小さな安心が得られた気がした。

「でも、お薬を塗っておかないと、治るものも治らなくなってしまうの。痛いのは今だけだから……」

 そんな母の言葉に、小春はふるふると頭を横にる。

「いたいの、やだっ……。いたいもんっ……」

 ほおふくらませつつ、自身の痛みのつらさをうつたえるように小春は母を見上げる。母はどこか困ったようなみをかべていた。

「……それじゃあ、小春におまじないをかけてあげましょうか」

「うぅっ……ひっく……。……おまじ、ない?」

 それがどのようなものなのか、よく分からなかった小春は首をこてん、とかしげる。

「そうよ。痛いのが消える、秘密のおまじない」

 くちびるの前に人差し指を押し当てている母の言葉を不思議に思いながらも、小春はうなずいた。

 母はおだやかに微笑ほほえみ、小春の膝へと手を置いてから、温めるように撫でていく。

「──玉のを……、──……。この身に──……」

 何と言っているのかは、分からない。それでも母が小春のためを思って、膝を優しく撫でてくれることがうれしくて、それまで痛かったことは忘れかけていた。

「……どうかしら。痛いのは消えた?」

 膝を撫でていた手をゆっくりと下ろしてから、母は目を細めつつ、小春にたずねる。

 いつの間にか、膝の痛みが消えてしまっていたことにおどろいた小春は、それまで涙を零していたひとみを何度もまばたかせる。

「……あっ! いたいの、ない……。かあさま、すごいねっ! いたいの、ないよ!」

 小春がすごい、凄いとはしゃぐと母はほっとしたような表情を浮かべつつも、しようする。

「それなら、良かったわ。……痛いことや苦しいことから、助けるのが母様のお仕事だもの」

「おしごと……?」

「そうよ。母様はくすなの。だから、小春が怪我をしたり、病気になった時には痛いものから助けてあげるわ」

 ふふっ、と笑ってから母は小春をきしめてくる。優しいぬくもりが小春を包み込んだ。

 ……くすし。いたいのからたすける、おしごと。……あたたかくて、やさしいこと。

 膝が痛い時は不安でいっぱいだったのに、母が「お仕事」をした後は、温かなここになっていた。医師というものは凄いにちがいない。そして、それを仕事にしている母の姿が見上げるほどに大きくて、まぶしいものに見えた。

 自分も母のように、人に温かいものをわたすことが出来るようになりたい。そうすれば、母が痛くて泣いている時には自分が温かいものをあげて、笑顔にすることが出来るはずだ。

 小春は自分を抱きしめている母を見上げて、ぽつりとつぶやく。

「小春も、かあさまみたいに、なりたいなぁ」

 母がゆっくりと視線を小春へと向けてくる。丸い瞳には自分の姿が映っていた。

「……あら、小春も医師になりたいの?」

 母の問いかけに小春は小さく頷き返す。すると母は困ったような、嬉しいような、不思議な表情を浮かべてから、小春の頭をそっと触れるように撫でた。そのここさに、小春は目をつぶってしまう。今日は怪我をして、たくさん泣いたのでつかれてしまった。

 少しずつまぶたが閉じかけている小春に向けて、母は優しい声で呟いた。

「それなら母様もお手伝いしないといけないわね。……小春がこうかいしない道を選べるように」

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